第9話

 手術室の無影灯が煌々と光り、芳田雪音の腕は白く照らされている。手首にあるほくろが目立った。伊波は手の根元にある橈骨動脈に触れる。とっとっと拍動を感じた。位置を確認したら、ぷにゃりとした腕にメスを差し込み、橈骨動脈の真上を切り開いていく。

 橈骨動脈は腕の表面付近にある筋性の動脈だ。表面にあるので脈を測りやすく、ついでに切り取りやすい。この血管がなくても腕が虚血になることはほとんど無いので、バイパス手術ではこの血管を使う事が多い。

 伊波は腕の真ん中から出発し、手首の方へ、肘の方へと交互に切り開く。メスを入れたすぐ下に、白く固い側筋膜が現れる。

 患部がよく見えるようにクリップで固定しながら、橈骨動脈のまわりの側筋膜をメスで切り取っていくと、組織に被われた橈骨動脈が現れた。ちょうど橈骨動脈は傷口の真ん中に位置している。伊波はちょっとした満足感を感じる。

「フックお願いします」

 伊波は邪魔になる筋肉を、西藤に引っ張って固定して貰う。血管にくっついている組織を上から掬い上げるように切っていくと、膜の間から血管が浮かび上がるように露出される。


 きゅいん、と音がして、伊波は顔を上げた。患者の頭部側では、吾妻がひとり開頭を進め

 ている。芳田は右向きに寝かされ、耳の後ろから額に向かって開頭されていた。耳の後ろも大きく切開され、頸動脈が見えている。

 患者の顔が見え、伊波はどきりとした。全身麻酔下で呼吸器がつけられているので、顔はたくさんのテープで固定されている。しかし、普段は覆布の下に隠れている頭部が多く見えているだけで、なんとなくいつもより緊張する。

吾妻はすでに側頭骨を切っているところだった。側頭骨は耳の後ろ側にある。今回は耳の後ろから顎のほうにバイパスを通すので、バイパス血管が折れ曲がらないようにするためだ。

 伊波は自分の作業に戻る。自分の方が簡単な手技のはずなのに、吾妻を待たせるのは気が引けた。

 伊波は動脈につながっている小さな血管を焼き切りっていく。血管を採取するときは、小さな血管を引きちぎったり、神経や組織を傷つけたりしないように注意を払う。そうしないと、手指が虚血になり、感覚障害を引き起こすことがあるからだ。


 肘のあたりまで血管にくっついた組織を剥がしたら、血管テープで血管を持ち上げ、細い筋枝をバイポーラで挟み、血管を凝固切断する。煙の焦げ臭い匂いが一瞬漂った。

 血管の掌側にクリップをかけ、血流を止めた後、伊波は血管をチョキ、と切った。筋性の血管なので、なかなか弾力がある。血がぴゅっとこぼれる。伊波は肘の方の端も切ってから、ピオクタミンで紫の色をつける。どちらが末端側か、あとでちゃんと判別できるように、という配慮だ。

 伊波は取り出した血管が乾かないように、すぐに血を洗い出した。溶液につけ、テンポラリークリップで両端を閉じて、血管内に溶液がパンパンに入った状態にしておく。血の入っていない血管は透明に緊満していた。

 伊波はそれを看護師が用意した容器にポチャンと入れた。これで血管採取は大丈夫だ

「血管採取、終わりました」

「ほ~い。じゃこっちどうぞ」

 伊波が吾妻を振り向くと、吾妻は大きくあくびをしていた。

 伊波は患者の頭の方に移動した。患者の顔が見えて、伊波はどきりとする。呼吸器がたくさんのテープで固定されている。いつもの脳外科手術なら、患部以外は青い覆布で覆われているし、手術は顕微鏡の小さな作業スペースで事足りる。今、患者の耳の後ろと首の横は大きく切開されていた。伊波は努めて肩の力を抜いた。

 吾妻の歌うような声が聞こえた。

「じゃ、次はルート確保だね。手順確認してみて」

 伊波は人差し指を立て、患者の顎の後ろから耳の後ろをなぞるように示した。

「はい。まず、外頸動脈の吻合部から、顎二腹筋の後腹までですよね」

「そう」

「それから下顎骨の後ろのスペースを進んで、外側翼突筋の上を通って、側頭筋の下で、方骨の下をくぐり抜ける……」

「そうそう、わかってるね~。じゃやってみて」

「はい。じゃ鉗子を」

「鉗子より指のほうがいいよ」

「えっ指?」

 おののく伊波を、吾妻がきょとんとして見ている。吾妻は目をパチパチと瞬きながら言った。

「指の方が柔らかいし、ランドマークに触れられるからわかりやすいよ」

「でも……太いですよね?神経引っ張っちゃうかもしれないし」

「ちゃんと確認しながらやれば大丈夫、大丈夫」

 伊波はいままで鉗子を使った手術しか見たことが無かった。それに、たくさんの手術を経験してきてはいるものの、人の頭から首に手を突っ込んだ経験は無い。外廻りの看護師が何かを補充しにぱたぱたと移動する。吾妻が言う、

「いやなら僕がやるけど?」

「やります」

 伊波は呼吸を落ち着けると、ええい、と耳の上側に広がる側頭筋の下にずぶりと指を潜り込ませた。生きている人の身体は、どくどくと温かく拍動している。

「頬骨弓のとこに指が入るようにね。外側翼突筋が横に入ってるからわかるでしょ」

 頬骨弓は弓のように弧を描いて張り出している骨で、外側翼突筋はその下に弓の弦のように存在している筋肉だ。伊波は恐る恐る指を進めた。たしかに、指の先には強い抵抗を感じなかった。しかし、解剖的に安全だとわかっていても、身体の中に自分の指を入れているのだ。緊張しない訳がない。伊波がうう、と口の中で呻きながら筋肉を探ると、柔らかい組織の中の一部、弾力のある組織に触れた。

「あ、触れました!これ多分筋肉だと思います」

「そ。じゃ反対側からも指入れて、くっつけてみて」

「はい……」

 伊波は吾妻に言われたとおり、今度は顎の奥の方から反対の手を突っ込んだ。

「顎二腹筋後腹と舌下神経との間ね。そうそう」

 血管の拍動が手にじかに伝わってくる。顕微鏡を使ういつもの手術とは違う、両手にじんじんと伝わる肉の暖かさ。伊波はクラクラしつつも、脳の側に指を進めると、固い物に当たった。伊波は自分の指同士が近づいているのがわかった。指を動かそうとすると吾妻が言う。

「左手慎重にね。そのへんに三叉神経あるから」

「はい。あ、骨に当たりました」

「なんの」

「茎乳突起かと……」

そのとき、骨とも筋肉とも違う感触が指に触れた。

「あ!ありました指」

 伊波は興奮して言った。人の頭の中で指が貫通しているというのは独特の体験だった。

「じゃそのままチューブ入れて~」

 器械出し看護師が、先端にチューブを掴ませた鉗子を伊波に渡した。伊波はそれを頭の側から頸動脈の穴の方に差し込み、反対側からチューブを引っ張って道を作った。吾妻を見ると、目が笑っていた。

「ね。自分の指で確かめた方が勉強になるし、ルートも探しやすいでしょ」

「そうですね」

 弾んだ声で伊波は言った。よし、それじゃバイパスだ、と伊波が気合いを入れたところで、吾妻が一言言った。

「じゃ、ここからは僕がやるね」

 吾妻に笑顔でそう言われたら、伊波は引き下がるしか無い。


この手術の肝はここからだった。今回の動脈瘤は、内頸動脈の上部に発生したものだ。この動脈瘤が破裂すると、まず中大脳動脈という、脳に酸素や栄養を送る大切な動脈に血がかなくなる。それを阻止するために、内頸動脈そのものの流れを止め、血栓化させてしまうというのがこの手術の目的だ。そして、頭蓋骨の外側から頭に向かって伸びている外頸動脈を、橈骨動脈を使って中大脳動脈につなぎ、内頸動脈の代わりにさせる、というのが今回の手術の流れだった。

 吾妻は伊波が用意したチューブを手に取った。そこに、ピンと伸びた血管を入れ、顎の方へ引っ張ってチューブの外に出す。そこには最初に露出しておいた外頸動脈の先端部があった。

 吾妻はまず橈骨動脈を六十度に切り、さらに血管に沿って切り口を2倍切り下ろした。それから外頸動脈に血管パンチを連続して使い、楕円の穴を開ける。

「パンチなんですね」

「血管の層がハサミだとぐちゃぐちゃになりやすいんだよ。8-0のナイロン糸お願い」

 吾妻が糸を締めようとした瞬間、叫びに近いような、鋭い声がした。

「待ってください」

 びくりとして顔を上げると、麻酔医の音谷が緊迫した表情でモニターを指している。脈拍は240~70の間で上下していた。

「脈拍が上下しています」

 伊波達は目を合わせ、即座に循環器内科の医師を呼んだ。


 医師が継げた診断名は、突発性の狭心症だった。狭心症は心臓の梗塞のようなもので、普通は動脈硬化で起こるが、この患者は先天性の血管異常かも知れない、と眉の太い医師は言った。医師が部屋を出た後、伊波は恐る恐る吾妻に聞いた。

「あの……どうしましょう」

 吾妻はピッピッと大きな音を立てるモニターをしばらく黙って見つめていた。

「やる」

「え?」

 伊波は戸惑いながら言った。

「でも、血圧を高いままで処置するのはリスクが大きいんじゃ」

「まぁね。でも、心臓に疾患があるならなおさら、このまま動脈瘤を放置するのはどうかな。何度も骨を開けるのは身体にも負担がかかるし」

「理論的には、血圧が高くても縫合がきちんとしてれば安全なはず」

 伊波は「でも」と言いたい気持ちを必死にこらえた。伊波の心臓は、モニターに負けないくらいどんどんと伊波の内臓を叩いていた。手袋の中に自分の汗がにじんだ。

暫しの沈黙の後、吾妻は長いまつげに縁取られた目を上げた。

「AEDつけて、万一に準備してやろう」

いつのまにか芳田雪音の心拍は安定し、メトロノームのように規則的な音が手術室に響いていた。

 伊波は無意識に唇を噛んだ。橈骨動脈も、外頸動脈も、血管の乖離が起こりやすいと言われている。全層を正確に合わせなければ、血管壁が剥がれ、血栓化し、動脈は簡単に詰まる。

 看護師ががさがさと覆い布を開き、AEDを取り付け終わる。伊波は胸に広がる暗雲を極力無視しようとした。大丈夫、きっと吾妻先生ならなんとかするはずだ。麻酔医も、看護師も、吾妻を見つめていた。吾妻の低い声で、手術が再開する。


「8-0の糸」

 吾妻は0.04ミリの糸を受け取った。脈拍を知らせる器械の音が煩いくらいに聞こえる。伊波は心臓が止まらないことを祈りながら、出血に備えて吸引器を握りしめる。

 吾妻が透明な橈骨動脈の先端を、パンチの穴に合わせた。普通は血管を裏表、裏返しながら縫うが、橈骨動脈にはあまり余裕が無いので、裏返すことは出来ない。

 吾妻は穴の右奥にまず針をかけた。そこから左に向かって、奥側の血管壁から縫っていく。手前には血管の穴が上下に二つ、丸く見えているような状態だ。針を上から差し込み、下の血管壁からすうと取り出しながら、連続して縫っていく。これも技術的にむずかしいはずなのに、吾妻はいともたやすいいことのように迷わず縫っていく。だから早い。左端まで縫い終わると、糸を適度に締めた。よれが無いことを確認すると、糸を結んだ。美しく均等な縫い目に、伊波は見入った。


「よし」

 表面を縫合し終わったと同時に、吾妻が息を吐きながら小さく呟く。

 吾妻はたった今吻合した血管をいったんクリップで留めると、内頸動脈を遮断した。そしてすぐに橈骨動脈を解除する。ぶるんと血管が震えるように、透明な血管に真っ赤な血が勢いよく流れ混む。手術室の人間全員が息を止めて、その瞬間を見ていた。

「うん、大丈夫」

 吾妻はしばらくそのままで、血管周りに漏れがないかを確かめると言った。今まで死刑宣告のように聞こえていた心拍のモニターの音も、少し軽快に聞こえる。皆の緊張の糸がふわりと緩んだ。

 吾妻はそのまま、止めていた内頸動脈を二重に糸で縛った。ここまでくれば、あとは創を閉じるだけだ。吾妻は西藤に場所を変わった。

 西藤が創を完全に閉じるところも、吾妻はじっと見ていた。すべての工程を済ませ、今後のことを軽く指示した後、ようやく吾妻と伊波は部屋を出た。伊波が息を吐きながら言った。ずっと緊張していたせいで、身体が重かった。

「お疲れ様です」

「お疲れぇ」

 吾妻はマスクと帽子を脱ぎながらにこりと笑う。ポニーテールにした髪がばさりと背中に落ちた。

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