第7話

【二章】


 診察室の裏で、誰かが物を落とした。カツン、という音がする。

「結論から言いますと、脳の動脈の一部に、動脈瘤がありました」

目の前の女性は驚かなかった。目をしっかり開けて、斜め下を見つめている。ある程度覚悟をしていたのだろう。女性の隣に座った子供は、伊波をじっと見つめていた。伊波は膝にのせた自分の拳を思わずぎゅっと握る。

 芳田雪音は床を凝視しながら、はい、と答えた。膝に置いた両手は、硬く握られている。黒いオールインワンを着て、紙は茶色く綺麗に染めてあり、化粧気はあまりない。頬にすこしそばかすがあった。息子の啓文は、母親の隣の椅子に座って足をぶらぶらと振っている。前の診察で、4歳だと言っていた。

 芳田雪音が最初に来院したのは5月だった。物が二重に見える、複視という症状で異常に気づき、眼科からここの脳神経外科を紹介されてやってきた。

 伊波はPCに検査結果を入力し、血管の3D-CTA画像を表示した。3D-CTAは、血管を3Dで立体的に見えるようにした画像だ。伊波は内頸動脈から飛び出し大きく膨らんだ部分を、ペンで円を描くように示した。

「この、膨らんだ部分が動脈瘤です。なぜこうなるかは諸説あるのですが、動脈剥離などで血管の壁が薄くなり、そこに血が流れ続けることで次第に膨らんでできるという意見が有力です」

 伊波は息を吸ってから、残りの言葉を一息で言う。

「そして、これが破れると、脳内出血になります。くも膜下出血というものです。これは一度破裂してしまうと、治療が困難になります。この動脈瘤は小さくはありません。破裂のリスクを考慮すると、事前の手術――――未破裂動脈瘤の手術をすることをおすすめします」

その時、がたん、という大きな音が狭い診察室に響いた。芳田啓文が足を前後に振った勢いで、椅子の足が一瞬床から離れたのだ。芳田雪音はその音にはっとして、あんまり足を振らないで、倒れるよ、と子供を諫めてから言った。

「手術するしかないんですか」

「手術にもリスクはありますが、破裂のリスクとくらべればわずかです」

 芳田雪音は絶句したように黙った。伊波はつばを飲み込んだ。さっき水を飲んだはずなのに、口の中が乾いて粘り、動かしにくい。芳田雪音がぽつりと言った。

「母が、今の私と同じくらいの歳に、亡くなったんです。私は6歳でしたが」

 ぱたぱたと、看護師が診察室の裏を歩いていった。さっきから、冷房の冷たい風が伊波の肩に当たっている。芳田雪音は小さくため息をついた。

「子供が成人するまでは、側にいてあげたい」

「そうですね。大切な決断ですから、ご家族とよく話し合って決めてください」

 芳田雪音はゆっくりと立ち上がり、蒼白な顔でぺこりと頭を下げた、それから子供の手を引いて、ふらふらと診察室を出て行く。芳田の持ってきた、量販ファッションブランドの大きな紙袋が、がさがさと大きな音を立てた。芳田の姿が見えなくなると、伊波も息をついて、眼を数度ぎゅっと瞑った。



 朝のカンファレンスでは、すでに脳外科の医師と看護師が集まっていた。場所は長机が二列に小さな会議室。皆がモニターに向かってそれぞれの場所に座っている光景は、まるで学生時代のようだ。

 病院のミーティングにあたるカンファレンスは、必要に応じて様々なメンバーで行われる。医師だけで行われたり、はたまた看護師や技師、リハビリ療法士などが混ざって行われたりする。通常業務中には、専門外の人間とはじっくり顔を突き合わせて話す機械はあまりないので、カンファレンスは情報交換の場として貴重だ。

 吾妻は青島の隣に座り、アメリカで流行っていたアニメの話をしている。五日市はその後ろに座り、携帯を見ながら二人の会話に茶々を入れている。西藤はそこから少し離れ、隣の列の前方でタブレットを見ている。報告のための資料を見直しているのかも知れない。その後ろの机に座っているのは、看護師の町田と荻原だ。町田が荻原に強い口調で何かを言うと、荻原はすみません、と身を縮めるように小さくなる。伊波は二人の斜め前に腰を下ろした。

全員が集まり、挨拶が終わると、西藤が立ち上がった。会議室のスクリーンに、ぱっと数点のCT画像が表示された。西藤がCTを指示棒で指すと、画像に細い影が落ちる。

「原田凜さん、12歳。アパートの非常階段から落ちて、急性硬膜外血腫を起こしていました。外傷は打撲と右足すねにヒビです」

 五日市がのんびりした声で尋ねる。

「非常階段?何で落ちたん?」

「本人は遊んでて落ちたって言っています」

 五日市は顎を掻きながら、ほーん、と言った。

「子供の事故は虐待の可能性もあるから気ぃつけて見とき」

 西藤は少し戸惑ったように言った。

「でも……父親は公務員ですし、母親もひどく泣いていましたが」

「えーでもさ~一見完璧な親が、家の中では子供を虐待しているパターンはよくあるじゃん?」

 吾妻が歌うように言う。まるでミステリードラマの犯人を推理しているかのようだ。わかりました、と言って西藤が座ると、今度はその横の伊波が立ち上がった。モニターに新しい画像を表示させながら話し出す。

「広瀬小夜さん、56歳です。認知症・歩行障害の症状を訴えて、現在水頭症の検査入院です。初めての来院は一ヶ月前で、すでに一週間の検査入院は済んでます。今日は手術適応があるかを決める最終的な検査になります」

 青島が机の上で腕を組みながら、ぼそりと呟く。

「認知症は水頭症が原因か?」

「いえ、アルツハイマーの診断も出ているそうです。なので、水頭症はそれを助長しているだけだと思います」

 伊波は外来に来ていた広瀬の夫の顔を思い出す。疲れてたるんだ頬と、目の下の濃い隈。


水頭症は、脳室内の髄液量が増えることが原因で、脳が縮んでしまう病気だ。水頭症は、手術によって治る認知症、と表現されることがある。認知症や、歩行障害、尿失禁など、似た症状が多いからだ。しかし、水頭症による認知症は全体の数%にしか満たないのと、アルツハイマーやパーキンソン病に合併することも多いため、純粋な水頭症だけの症状――――特発性正常圧水頭症の患者を診断するのは医者にとっても難しい。そのため、慎重に検査を繰り返す必要があった。青島が低い声で続ける、

「髄膜循環の検査は終わってるんだな」

「はい、手術適応ありでほぼ確定かと思います」

「じゃあ伊波。アルツハイマーと水頭症の区別はどこで見る?」

 五日市が横から口を挟む。伊波は顎を掻きながら言った。

「えーと。この患者さんですと高度の脳室拡大と、T2強調像の脳室の周囲に高信号域があります。アルツハイマーの患者さんの場合、腹側溝にも狭小が見られるはずですがそれが見られません」

 五日市は若干つまらなそうに言った。

「そうや。脳溝とくも膜下腔の狭小もアルツハイマーにはない。脳溝、くも膜下腔が均等に拡大しているのがアルツハイマー患者の特徴やからな。あ、そや。入院に付き添いが必要って言っといたか?」

「まだです」

「早いうち言っとき」

 伊波ははい、と答え、他に質問が無いことを確認してから、次の患者の説明に移った。マウスをカチリとクリックすると、画像がぱっと切り替わる。

「次に……芳田雪音さん28歳、内頸動脈後交通動脈分岐部の17ミリの脳動脈瘤です」

 スクリーンには芳田雪音の3D-CTAと、脳の細かい血管まで写っているアンギオという画像が写っていた。皆が身を乗り出して口々に声を上げる。

「いや~これデカいな~。17ミリ?」

「しかもネックが広くてやな感じ~」

  場所も嫌やで。裏っかわで」

 伊波は頷いた。

「大きさもそうですが、ネックの広さが問題です」

「ネックがネックになったってことか……」

 五日市がそう言ったが、皆無視した。

「コイル塞栓術の適応は無いと判断しました。クリッピング手術の適応かと」

 近年の動脈瘤の手術は、コイル塞栓術と言って、ほとんどが血管カテーテルでコイルを入れる手術が選択される。そちらのほうが精神的、肉体的に患者の負担にならないし、術者にとっても簡単だからだ。しかし、それには動脈瘤のネック――――付け根の部分が狭いことが第一条件だ。そうでないと、コイルがすぐに動脈瘤から飛び出てしまう。そうなると再手術しか無い。

「え~でもさ、これコイルだけじゃなくクリッピングもやりにくいよねえ」

 吾妻は人差し指を口元に持って行きながら言った。青島も渋い顔をしている。

 五日市は眼鏡を取り、白衣の袖で拭きながら言った。

「そうやで~適応いうても、出来るかどうかはまた別や。いつ手術や?」

「8月15日です」

 五日市は青島の方を振り向いた。

「青島いるか?」

「俺は四国で手術だ」

「じゃ、あかんな」

「えっそんな。五日市先生が見てくださいよ」

「じゃ日程ずらせ」

「でも近い日程だとそこしか無いです」

「保険が無いと無理や」

「そんな」

 五日市があっさり言った。つまり、青島がリカバリーできるのでなければ、伊波に手術は任せられないと言うことだ。

 バイパスやクリッピングといった、骨を開ける動脈瘤の術数は年々減っている。確かにクリッピングは、伊波も数度しか行ったことが無かった。そしてその時はもっと小さく、クリップをかけやすい角度にある動脈瘤だった。でも、伊波はだからこそ、この手術をやりたかった。

二人のやりとりを見ていた吾妻が笑いながら言った。

「僕が入ろっか?」

 伊波が吾妻を振り向きながら言った。声のトーンが上がる。

「いいんですか?」

「うん。でも、条件があります」

 吾妻は真面目な顔をし、顔の横で人差し指をピンと立てた。指がこめかみの後れ毛にちょんと触れる。

「MCA-ECA バイパスで、執刀医は僕。伊波は助手」

「え」

 伊波は思わず言った。バイパス手術とは、脳の血管と血管を手術でつなぐ手術だ。伊波はバイパスの経験はほとんど――というか数度見たことのある程度だった。

「バイパス?ああまあ――――それならええか?」

「手数はかかるがクリッピングより安全かもしれないな」

「でしょ~」

 伊波は微妙な顔をする。執刀医が吾妻なら、伊波はほとんど携われない可能性がある。

すると、それまで話を黙って聞いていた青島が口を開いた。

「吾妻」

 両腕を組み、背もたれにどっしりと身体を預けている。

「任せて良いか」

 青島がいかめしい表情で、吾妻をじっと見つめていた。これが青島の通常運転だとわかっていても、いつもこちらまで緊張する。

「もちろん」

 吾妻は頷き、二人はしばし見つめ合った。青島はふっと息を吐いた。

「頼む」

その青島の一言で、この件は決着がついた。


その後は看護師やリハビリ療法士の観点から、入院患者の症例を皆で確認し、カンファレンスは終了した。最後に青島が、週末の勉強会の準備をそれぞれしておくように、と伊波達に促す。伊波はちょっと残念に思いながらも、まあ、全く手術に携われないよりも良いか、と気持ちを立て直した。

 伊波が会議室から出ようとすると、後ろから小さく声をかけられた。

「伊波」

振り向くと、五日市がほかに誰もいなくなった会議室に座り、手招きをしている。声には出さず「ちょっと来」と口を動かす。手術を反対されるのだろうかと思いながら、伊波は渋々部屋の中に戻る。五日市は確認するようにドアの向こうをのぞき込んでから、また視線を伊波に戻して言った。

「あんな伊波。ちょっと言いたいことあんねん」

「なんですか?手術のことですか」

「は?それは吾妻が見るんやろ。関係ないわ」

 言い方はあれだが、五日市は吾妻のことを一応は信頼しているらしい。

「じゃあなんですか」

「西藤のことや」

「西藤?なにかあったんですか?」

「たいしたことやないけどな。この前患者に怒られてん。『態度が悪すぎる』ってな」

「ああ……」

 伊波は納得した。西藤はあまり感情を表に出さないタイプだ。表情もないし、物言いも簡便さを優先している――――というか、素っ気ない。イケメンなのでそういうところも格好いい、という看護師もいるが、患者にも同じような態度なので、文句を言う患者がいても不思議ではない。

 五日市がそうや、と頷いて伊波に顔を寄せる。度の強い眼鏡が、顔の輪郭を縮めていた。

「だからな伊波、おまえから注意したってや」

「えっ、僕がですか」

「大先輩の俺が言うと萎縮してしてまうやろ。そこは年の近い先輩の仕事や」

自分の言葉にうんうん頷きながら、五日市は言う。伊波は息を吐いた。手に持ったパソコンを持ち替えながら鼻を掻く。つまり、自分が西藤に小言を言うのが面倒なのだろう。伊波は低い声で答える。

「わかりました」

「助かるわ。ほな頼むな」

 五日市はそう言って伊波の背中をバシバシと叩くと、さっさと会議室から出て行った。伊波は会議室で一人、西藤の青白い顔を思い浮かべた。伊波と西藤は、特に仲が良いというわけでは無い。ただこの病院の仲では、上の三人に比べて若いと言うだけだ。伊波は西藤になんと言おうかと思案しながら、会議室の冷たいドアノブを回した。

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