第6話

 伊波と吾妻は朝の検診のために、廊下を歩いていた。窓から明るい光が差しこみ、廊下の端を照らしている。身体を斜めに傾けた男性がペタペタと頼りない足取りで歩いていた。リハビリ患者の斉藤次郎だった。斉藤は伊波とすれ違うとき、小さくお辞儀をする。伊波は笑顔を作り、「おはようございます」とお辞儀を返しす。

 しかし表情とは裏腹に、伊波の身体は宇宙服を着ているかのように、だんだんと重くなっていった。手術から一夜あけ、今から三浦和美の術後すぐの検診だ。これから交わされるであろう問答を考えて、伊波の胸のあたりがずっしりと重くなる。伊波は逃げ出したい気持ちを必死でなだめた。

 吾妻はそんな伊波の気持ちを知ってか知らずか、ステップを踏むように軽やかに廊下を歩いて行く。二人はとうとう三浦の病室の前に来た。伊波は伊波は勇気を振り絞り、えいと見えない敷居をこえた。

「三浦さんこんにちは~。体調はいかがですか?」

 吾妻の歌うような口調に、ベッドの隣に座っていた小柄な男性は微動だにせず三浦和美を見つめていた。三浦はベッドから上体を起こした格好で座っていた。眉間に深くしわを寄せ、半分だけ開いた眼で、ずっとこちらを睨んでいる。その目は恐怖と怒りに満ちていた。吾妻はかまわずに言った。

「それじゃ、簡単な検査をさせてくださいね。お名前は?」

「……み……みうら……かずむ……」

「ありがとうございます。三浦和美さんですね。では次に……私の指が見えますか?はい、目で追ってください……はい、大丈夫ですね」

 吾妻は流れ作業のように、運動の検査、目や耳の検査などを次々と行っていく。夫が呟くように言った。

「先生、妻の左足が動かないんです」

「そうですね。人に寄りますが、だんだんと快復するはずです。長い目で見て、リハビリで改善させていきましょう」

「そうですねじゃあないだろう!」

 大きな音を立てて椅子が倒れた。男が急に立ち上がったからだ。

「なんで最初にこうなるってわからなかったんだ!こっちは一週間前に検査に来たんだ!この病院はヤブしかいないのか!」

男の顔が真っ赤だ。カーテンの向こうで、なんだなんだ他の患者が動く音がする。伊波は目を伏せ、手に当たる白衣の感触を確かめる。伊波が謝罪の言葉を口にしようとするとした時、吾妻が言った。

「わたしたちも残念です。ただ、三浦さんは発見が早かったので、命に別状は無く済んだことは、幸いでした」

 三浦の夫はますます赤くなり、さらに声を張り上げる。

「幸い?このまま麻痺が残ったら、妻の人生はめちゃくちゃだ。病院側はどうやって責任を取るつもりなんだ」

 伊波の耳がきいんとして、腹の中をぎゅっと踏まれているような感覚になる。自分が医者になったことが間違いのような気がした。しかし、吾妻はそれに対し、ゆっくりと答える。表情は見えない。

「私たちも、検査の必要性は感じていました。だから来週の頭に、検査の予約をしていたんです。ですが、間に合わなかった。私たちも大変遺憾に思っています」

 吾妻がそう言って頭を下げた。謝罪の態度を見せつつも、自分たちには非が無いということを暗に言っているのだ。粘り気のある沈黙の中、伊波は窒息しそうな息苦しさを感じてくらりとした。長い沈黙の後、三浦の夫は顔に手を当てる。手が震えていた。

「言葉も、足も、リハビリで回復しますか」

「両方とも完全に元通り、という訳にはいかないかも知れませんが。ただ、今の状態から見て、言葉は1ヶ月程で完全に快復すると思います」

このやりとりは手術の直後にもしたはずだったが、吾妻は同じ言葉を繰り返した。伊波は前で握っていた手を握り直した。三浦の夫はしばらく黙っていたが、急に「くそっ」と叫ぶと丸椅子を蹴り上げた。床に椅子が跳ね、ガンガンとすごい音を立てる。それから腹の底から吐き出したような、長いため息をつく。

「だから、病院なんて行っても無駄だって言ったんだ」。

 吾妻はまた残念です、と言ってしばらく黙ったあと、それでは私たちはそろそろ、といって会釈をした。伊波も頭を下げ、何も言わない三浦の夫の元を離れた。病室を出ても、先ほどの怒鳴り声が頭の中に響いている。緊張が身体にまとわりつくように伊波を縛る。伊波は足をもつれさせながら廊下を歩いていると、吾妻が急に振り返った。

「ねー伊波、青島が行ったのって四国のなんて病院だっけ?」

 伊波はつんのめりそうになりながら言った。

「え?ええと。T山記念病院ですけど」

「りょーかい」

 新幹線で行けばいいかな~と言いながら携帯を出した吾妻に、伊波は言った。

「吾妻先生。済みませんでした」

「え?なにが」

「落ち度があるのは俺の方なのに、嫌な思いをさせて済みません」

 吾妻はあくびをしながら言う。

「え~?でも、手術したの僕だから。説明するのは僕じゃない?たしかにむかつくけど、患者は医者が何でも治せるって勘違いしてるからね。しょーがないよね」

ま、あんなに怒ること無いとお思うけど。吾妻はそうさらりと付け加え、さっさと去ろうとする。伊波はその背中にもう一度、すみませんと頭を下げた。伊波が顔を上げると、吾妻は振り返り、大きな目でまじまじと伊波を見つめていた。

「伊波ってまじめだね~。そんな風だと医者の集団の中で浮くんじゃない?」

「でも、僕の診断ミスが招いた結果なので」

「え~でも、CTに写ってなかったら仕方ないんじゃん?」

「でも吾妻先生は気がつきました」

「あああれ。あれはたまたまおんなじ様な経験があっただけだし」

そう言って、じゃ、と吾妻は廊下の角を折れた。廊下から吾妻の姿が消えると、代わりにカートを押す看護師と、携帯を見ながら歩いている若い患者が現れる。病連はだんだんと慌ただしくなっていた。カートのガラガラ言う音、スリッパのパタパタいう音。伊波は白衣の大きなポケットの中に入った、電子カルテの入ったタブレットの重さを感じた。

 吾妻は励ましも、怒りもしなかった。でも、伊波の気持ちは不思議と、前よりいくらか冷静になっていた。

 伊波はゆっくりと息を吐き、肩を回した。また新しい患者さんのデータをまとめ、治療方針をまとめなければ。そう考えながら、伊波は歩き出す。いままで風景と乖離していた自分が、ゆっくりと病院の風景の一部になっていく。象牙色の廊下に落ちる光が、ますます伸びていた。

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