第5話

 伊波が手を上げたまま手術室に入ると、看護師が手袋をはめてくれ、さらに手術用ガウンを広げて持ってくる。伊波はその中に手をくぐらせる。ベッドの周りではすでに麻酔医が待っていた。人数が数人違うだけだが、手術室はいやに広く感じた。空間が伊波を責めるように圧迫するのを感じた。浦和美について、自分の下したいくつかの判断が浮かんでは消えた。もしかして、自分は何かを見落としていたのか?いや、前回会ったとき、頭痛以外には、何の兆候も見られなかったはずだ。伊波は無意識に責任から逃れようとしている自分に気がついて、かるく顔を左右に振った。まずは、今やる手術だ。患者の体位を決めながら、ピッピッと言う心電図モニターの音を聞いている内に、頭の中は静かになっていく。麻酔の準備が終わったところで、ちょうど吾妻が入ってきた。

「よろしくおねがいしま~す」

 手術室にそぐわない、浮き立つような声に、看護師や麻酔医が戸惑うような視線を向けていたが、吾妻はそれを全く意に介さないようににっこりと笑って言った。

「三浦和美さん54歳、脳梗塞。ステントカテーテルによる血栓の回収はじめま~す」


それからの吾妻は手早かった。まず足の付け根、そけい部の側にある大腿動静脈に、エラスター針を刺す。これは長く、先端が斜めに切られている鋭い針で、この中にガイドワイヤーを入れる。ガイドワイヤーに沿わせるように挿入シースという管を入れると、そこがカテーテルの入り口になる。

「造影剤お願いします~」

 吾妻は血管内に造影剤を注入する。これにより、X線透視モニターを見ながら作業することが出来るのだ。吾妻は挿入シースの中にガイドワイヤーを入れ、血管と血管内の様子を注意深く見ながら幹部に進んでいった。ガイドワイヤーやカテーテルは、血管を傷つけることのないように、上部で柔軟性のある素材で作ってあり、側面は水に濡れるとヌルヌルするようになっている。先端は少し曲がっており、血管の分岐部では先をくるくる回して目的の方向へ導く。吾妻が言った。

「僕、このカテーテルくるくるやるの好きなんだよね~。楽しくない?」

「はぁ……」

「ところでこの患者さん、伊波の患者さん?」

「そうです」

 伊波は唐突な質問にぎくりとした。まるで、ズルが見つかった子供のように身がすくむ。

「やっぱり~?じっと顔見てたからそうかなって。見たときに異常は無かったの?」

「はい」

「TIAの訴えとかは?全然?」

「はい……」

 伊波は患部だけを見て答えた。自分の声がどんどん小さく掠れていく。

 TIAとは、一過性脳虚血発作のことで、脳梗塞の前哨となる症状だ。麻痺やろれつが回らないなどの症状が、15分だけなど短い時間で出現し、そのあとは何も無かったように普通の状態に戻る。これは、血栓が、すぐに溶けたり流れたりして、血流が回復するためだ。そして、TIAを起こした人のおよそ二十パーセントが、三ヶ月以内に本格的な脳梗塞を起こす。しかも、その半数は48時間以内に起こるから、けして見逃してはいけない症状でだと上級医には教えられる。しかし、もちろん、いったん血流が回復してしまうと、重症でない限りはCTを撮ってみても何も映らないので、判断がむずかしい。判断するには、患者の訴えを聞くしかない。

 伊波は背中に堅い板が入っているような居心地の悪さを感じながら、怒られることに備えた。しかし吾妻は鼻歌を歌うようにふーんそっかー、と言っただけだった。話している間に、吾妻のガイドワイヤーはすいすいと血管を泳ぎ、脳に向かっていく。

「三浦さんのカルテだけどさ~、左下の部分の質問は、伊波が丸つけた?」

「え?」

「さっきカルテ見たんだ、丸の形がそこだけ違ってた」

 伊波はおもわず吾妻を見た。モニターを見ている吾妻の横顔からは、はっきりした感情は読み取れない。

「え?ああ、はい。書き忘れてたので私が聞いて書きました」

「ふーん。もしかすると、見えてなかったのかもね」

「え?」

「同名性四半盲。脳梗塞でもたまに出る。お、ゴ~ル。ステントリトリーパーのカテーテルくださ~い」

 吾妻はガイドワイヤーにカテーテルを沿わせながら、目的の血管までカテーテルを再度誘導する。同名性四半盲というのは、目を左右上下に分割したその4分の一の視野が欠如する症状だ。外傷や脳腫瘍でもでることがある。伊波は戸惑った。そんなことは誰も指摘してこなかった。

「そうですけど……でも、カルテだけでそこまで判断するのは弱いんじゃないでしょうか」

 伊波が反論すると、吾妻はモニターを見ながらにやりと笑った。

「まあね。でもあざがあったじゃん」

「あざですか?」

そういわれてみると、と伊波は三浦の外来持の様子を思い出した。左足に、いくつかの痣があった。

「視野が欠損してると、ものにぶつかる。でも、患者さんはそれを疲れてるせいーとか、さいきん運動してないからーとか考えがち。だって脳に疾患があって眼がおかしいとか、わかるわけないからね。はい、ステント広げますー」

 吾妻はそう言って手元のボタンを押した。ステントというのは金属のメッシュのことで、これを患部で広げることによって、血管を広げる。その際に血栓圧迫し網に巻き込んで、そのままそれを回収できるのだ。吾妻は手早く血栓を巻き込んだカテーテルを回収していく。

「お~とれたとれた」

 吾妻は楽しそうに言う。モニター上に、開通した血管が像となって映し出され、手術室に安堵の空気が流れた。機器を片付けるカチャカチャという音が聞こえるなか、伊波は無言でモニターを見続けていた。

 やはり自分の診断ミスだったのだ。脳梗塞で死んだ部分は、もう二度と戻らない。伊波は胃をきゅうと掴まれるような感覚を覚えた。罪悪感とともに、こんなミスをして、駄目な奴と思われる、という怖さも一緒に伊波の中で渦巻いた。吾妻の声が遠くに聞こえた。

「ACTはOK?じゃあ止血よろしくね~」

 伊波が小さな声ではい、と答えると、吾妻は軽やかに立ち上がり、手術室をさっさと出て行った。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る