第4話
伊波は指先に全神経を集中していた。伊波は当直室で、血管に見立てた0.3ミリから0.27ミリのシリコンチューブを縫っていた。覗いているのは、大型の双眼鏡のような形の練習用電子顕微鏡だ。
まず、0.5センチの透明なシリコン血管をつまみ、端をクリップではさむ。それを左手で保持したまま、右手はマイクロはさみに持ち替える。そのはさみで血管を斜め60度にちょん、と切断し、切り口の根元をさらに少し切り下ろした。こうすることで、縫う範囲を多くすることができ、術後の障害を減らせるのだ。次に、伊波はもう一つのすこし太いシリコン血管をとりあげた。こちらは枝の先を切ることはせず、表面にスッと切れ目を入れる。
伊波は血管を術野に置き、今度は縫合用の針をマイクロ持針器でつまみ上げた。極微細な針は、すこし弧を描くようにして曲がっている。その弧を組織に引っかけるように回し、角度を調節する。うまく目的の方向に針を誘導できたら、そこでようやく針を組織に刺す。カーブに沿って針を運搬することが、血管壁を引き裂かないコツだ。伊波は自分の呼吸音を聞きながら、一針刺しては糸を結ぶ、という作業を繰り返した。指の神経細胞の一つ一つが感じる情報を、丹念に拾い、フィードバックする。こうしていると、全身が指になったような気がする。
伊波はこの練習を、一週間に何度かやるようにしていた。もちろん、脳の拍動や、それぞれの血管の個性など、実際の手術とは勝手が違うこともあるが、やらないよりはずっといい。また、たとえ頭では覚えていたとしても、手はなるべく動かしていないとだんだんと動かなくなってしまうようで怖かった。
「あ」
伊波が二〇回目に針を血管に刺したとき、手先が少しだけぶれた。その勢いで血管壁があえなく破ける。伊波はため息をつきながら、電子顕微鏡から目を離した。何回か瞬きをし、首を回すと、ぽきぽきと音がし、首元にじんわりと血流の感覚が戻ってきた。今日はこのくらいにしておこう。そう伊波は思い、デスクに置いてあったペットボトルの蓋を回す。
時計を見ると十時だった。伊波は伸びをしながら立ち上がった。今日はまだ呼び出しがかかっていない。夜食でも食べておこうと、ビニール袋からカレー味のカップラーメンを取り出す。瞬間湯沸かし器でお湯を沸かし、カップに注いだとき、ふいに、カツ、と靴音がした気がした。伊波は反射的にドアを見た。伊波はしばらく耳をそばだてていたが、外はしんとしたままだ。
ほとんどの連絡は携帯でしているから、当直室に誰かが来ることはほぼ無い。きっと空耳だろうと、カップの蓋を閉める。すると、こんどはかすかにビニールがすれるような音がした。伊波は眉根を寄せた。胸がざわざわする。
伊波は静かにドアに近づいていった。息を一つ吐き、決心してゆっくりとノブを回す。ほんの少しだけ扉が開き、暗い廊下と、クリーム色の壁が見えた。誰もいなかった。伊波は少しほっとして、扉を閉めようとした。
その瞬間、横から何かが飛び出していきた。伊波は「ぎゃっ」と言いながら、顔を隠すように腕を上げ身を縮めたが、バランスを崩しその名に倒れ込んだ。心臓が早鐘のように鳴っている。なんだ?なんなんだ?伊波の恐怖が頂点に達したとき、飛び出してきた何かがくぐもった声を出した。
「誕生日おめでとう~!」
「……え?」
混乱しながらも、伊波は目を開けた。伊波を押し倒した何者かも、むっくりと起き上がった。やつやした栗色の長髪が、見たことも無いようなピンクのヒョウ柄のスーツにばさりと落ちる。伊波は驚いて目の前の男を見た。大きく切れ長の眼。すっと通った鼻。美人、という言葉が似合いそうな優男だった。しかし、伊波にこんな知り合いはいない。男は薄く形の良い唇を開いた。
「……青島?」
「ちがいます」
男はすっと起き上がって言った。
「ごめんごめん。あれえ?でも月曜日は当直って聞いてたけど?」
「いつもはそうですけど、明日の朝から四国でオペがあるので僕と交代しました」
「あ~なるほど。そっか~誕生日でも働いてるだろうなとは思ったけど、出張だとは思わなかったなぁ」
そっかそっかあ、と言いつつ、男は視線を下げた。本当に残念そうだ。伊波は一応聞いた。
「あの、すみません。あなたは……」
「あー、驚かせてごめん。ぼくは吾妻結羽。あさってからここに勤務になるんだ~。よろしくね~」
吾妻は忘れていた、と言う風に伊波の方を向き、にこりと笑って首をかしげた。少し高く、ハスキーな声。吾妻が手を伸ばしてきたので、伊波はそれをおずおずと握った。柔らかく、冷たい手だった。
その時、伊波のポケットが震えた。院内用の携帯だ。
*
伊波達が救急室に向かっていると、ガラガラという音を響かせながら、点滴のぶらさがったストレッチャーが救急室から運ばれてきた。その一行と入れ違うように、伊波達は救急室へ入室した。
「脳外科の伊波です」
「あ、先生、すみません。こちらお願いします」
救急医は伊波をベッドに誘導しながら、ちらりと伊波の後ろを見る。
「あ、僕は見学ですので、どうぞお気になさらず」
吾妻はそう言って華やかに笑う。吾妻は白衣を着ているが、中に着ているのは先ほどと同じピンクのヒョウ柄のスーツだ。
広い部屋の中に、沢山のストレッチャーが並んでいる。伊波達が部屋を横切ると、ベッドに横たわっている数人の患者が見えた。左側には足に包帯を巻き、外科医に説明を受けている初老の男性患者が一人。右後方からは泣きじゃくる幼児の声が響いている。医者や看護師の話し声も手術室に比べ大きく、手術室とは違う、さわがしい緊張感があった。救急室は外に面しているため、院内よりすこし肌寒かった。 伊波が患者に近づくと、ひらひらしたフリルのついた白い服にかかる、金髪が見えた。伊波ははっとして、小さく息をのんだ。それはつい最近見た顔だった。
伊波は吸い寄せられるように患者の側に行き、こわばった手でCTとMRIを受け取った。CTに写っている脳はほとんど通常の状態だが、MRI拡散強調画像には病巣である脳の右側に、白いモヤのような物がかかっている。
「三浦和美さん54歳、JCS30、脳梗塞です。自宅で倒れていて、一緒にいたご主人が救急車を呼んだそうです」
部屋の中にある機械から聞こえる、鈍い動作音のひとつひとつが耳の中に響いた。ウィーン、ウィーン、ゴー。ストレッチャーの端に手をついた。布に覆われた金属の、固い感触。
伊波は動悸を抑えながら、三浦和美の方を向いた。
「こんにちは、三浦さん。お名前言えますか」
医者は救急医が診断名を出した患者に対しても、自分でもう一度診察するのが習いだ。誤信を防ぐためと、救急医が診た後に、状況が変わっている場合もあるからだ。
三浦和美の目は充血しかっと見開かれていた。救急室の強い光に照らされた皮膚はしわが目立ち、乾燥した肌の間にファンデーションの筋が幾本も流れている。
「っ……か……」
ブローカ失語だ。相手の言葉は理解できるが、意味のある言葉を構成するのが難しくなる。伊波はなるべく冷静を装って言いながら、左足の向こうずねに触れた。
「三浦さん、ですね。失礼します。こちらの足は動かせますか」
柏尾はわずかに頷いたが、足は微動だにせず、伊波が膝を持ち上げる。重い。だらりとして、全く力が入っていなかった。伊波は足を下ろし、三浦の顔をなるべく見ず、他の部位の検査を続けた。呼吸器から息を吸ったり吐いたりする音がする。三浦和美の言葉にならない声が空気に溶けていくようだった。三浦和美は顔をしかめていた。乾いて中央がはげた真っ赤な上唇が歯ぎしりをする時のように上がると、下まぶたもそれにつられて持ち上がり、血走った目が涙でぎらりと縁取られる。伊波は思わず半歩後ずさりする。
伊波の頭に患者の声にならない声が響いた気がした。おまえのせいだ、おまえのせいで私はこうなったんだ。
「脳梗塞ですね。ウロキナーゼとエダラボンを入れてください」
伊波が掠れた声でそう言う。脳梗塞は、何らかの理由で血管が詰まり、脳が酸欠に陥り壊死してしまうと、取り返しがつかない。だからまず必要なのは、これ以上脳を壊死させないこと、そして血管につまった血栓をどうにかすることだ。
ウロキナーゼは血が固まるのを防ぐ効果、エダラボンは脳の細胞を守る為の薬だ。脳梗塞が発症してしまったら、とりあえずは適切な薬が効いてくるのを待つことになる。後ろから伊波の診断を見ていた吾妻が旧に横から出てきた。なぜか満面の笑みだ。
「じゃ、DSA撮ろうか」
「え?」
「この状況だと血管内手術した方が良いから。運んどいて」
「え?でも家族に説明とか、許可は」
「許可は僕が出す。説明は搬入した後に僕がする。ってことで着替えてくるね」
吾妻はスキップするような足取りで去っていった。伊波はいいのかなあ、と思いつつも、そのまま手術室に向かった。
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