第3話
伊波の予想通り、今日もやはり外来が押して、診察室を出たのは結局5時40分だった。伊波は病棟に戻り、担当の患者の回診をし、ナースセンターのパソコンから急いでオーダーを出した。しかし、やはり交代の6時には間に合わなかった。看護師に文句を言われるかと思ったが、今日の夜間の担当は新人の宮下だったので、怒られたりはせず、かわりにいくつか質問された。
「ありがとうございました。よくわかったっす」
宮下はそう歯切れよく言う。短く刈り込まれたショートヘアに眼鏡という出で立ちの宮下は、ぱっとみたところ女性か男性かよくわからない。宮下は素早く礼をすると、ぱたぱたと早足で去って行った。伊波はひとつあくびをし、医局に戻る。
医局というのは、医者の待合室のようなもので、オフィスのように一人一つの机が充てられている。伊波は今日入院となった患者の情報を整理し、明日のカンファレンスに備えた。また、明日は手術が3件入っているので、手術を任されたときに慌てないよう、先輩の書いた手術の報告書、オペレコにもいくつか目を通す。それが終わったら、机に山積みになっている資料から、来週の勉強会での発表に必要な英語の論文に目を通しながら、伊波はちらりと、たまっているファイルを見た。患者の保険や、医療報酬の書類のファイルだ。
伊波は少し迷ったが、ぱんぱんに詰まっているデスク上の棚の中から、そのひとつを引っ張り出そうとすると、机に重ねていた書類がひっかかってばさりと床に落ちた。伊波がため息をつきながらそれを拾い上げると、つるりとした転写紙に触れ、指先が真っ黒になる。
保険などの書類では、医療者による正確な記載が必要だ。入退院の時期にはじまり、病歴、使った薬の名前など、前の主治医の見解も網羅しながら記入しなければならない。だから、持病や転院の多い患者については、それだけ書かなければいけないことが増える。前の病院に問い合わせなければいけないことも多い。ちなみに、医者がこれを書くことによって得る報酬はない上に、すべて手書きだ。
伊波が取り出したのは、1ヶ月前に退院した患者の書類だった。この患者は保険を掛け持ちしていたので、様々な書類が5種類もあり、持病も多かった。いくつかの病院と連絡を取りつつ、少しずつ進めてはいたものの、なかなか進まない。しかし、患者の方も苛立っているようで、昨日3回目の催促の電話があった。
作業が一段落し、伊波は時計を見た。午後9時半頃、伊波は、げ、と呟いた。軽く机を片付け、鞄を持って立ち上がったが、考え直して財布と携帯だけ持って出る。どうせ数時間後には、またここに戻ってくるのだ。
*
伊波は電車を20分程乗り継ぎ、待ち合わせ場所のイタリアンレストランにたどりついた。相手はもう席に座ってくつろいでいた。伊波は早足でテーブルに近づいた。
「ごめん。遅れた」
「だいじょうぶ。おれも今着いたとこだし」
豊原愛翔はそう言って、にへらと笑う。チノパンに焦げ茶のネルシャツ。細い目にすこしくせのある長めの前髪がかかっている。豊原は医大時代の同級生だ。会うのはほとんど1年ぶりだったが、学生の頃と変わらない間延びした声を聞くと、伊波の肩の力も抜けていくような気がした。席に着くと、ウェイターが酒を二人のグラスに注いでくれた。細いグラスに入った金色の液体の底から、しゅわしゅわと気泡が立ち上る。豊原は言った。
「おつかれさま。そっちはどう」
「病院忙しいけど、なんとかやってる。そっちは?楽しい?」
「うん。おもしろいよ。いろんな人がいて。新しいやりかたの開発に積極的な人も多いし」
豊原は今、眼科の医師として大学病院に勤務していた。豊原は学生時代から優秀で、研究室に入り浸り、論文を発表したりしていた。しかし、勉強一辺倒というわけでも無く、趣味の音楽サークルの指揮者をしていたりなど多才だ。背もたれにゆったりと体重を預けている豊原を伊波はちらりと見る。伊波は密かに、豊原なら、教授にもなれるのではないかと思っている。
「おつかれ~」
豊原はグラスを持ち上げ、乾杯を促した。伊波が液体を口に含むと、大きな気泡がはじけた。
「あ、そういえば。太田が結婚するらしいよ。招待状行くと思うけど」
「おー、それはめでたい」
「伊波君は結婚はしないの?」
半地下にある店内は薄暗く、楽しげな笑い声と静かな音楽が響いている。
伊波は医者になってから、学生時代の同級生と付き合っていた。勤務先は違ったが、同じ脳外科の医師だった。しかし、それが災いした。二人とも仕事をし出してからは、よく投薬や処置の方法について口論になった。結局、それが原因でだんだん疎遠となった。その後は、違う業種の女性と何回かデートをしたが、それだけだった。伊波の脳裏に、合コンで会った、女優を目指していた女性がちらりと浮かんだ。伊波の一目惚れで数回会ったが、すぐに連絡が途絶えた。あれは付き合っていた訳では無く、品定めをされていただけだったと気がついたのは、会わなくなってしばらく経ってからだった。伊波は酒を仰いだ。甘くて苦い味が口の中に広がる。
「ああ、別れちゃって。豊原君は?」
「実は、おれも今度結婚するんだ」
豊原がシャンパンを継ぎ足しながら、あっけらかんと言った。
「え!それはおめでとう」
「今日呼び出したのも、その報告のためで」
「あーなるほど。でも、急だね」
「彼女妊娠してて」
「へー、そうなんだ、おめでとう」
豊原がすこし照れくさそうにありがとう、と笑う。目を細め、へらりと笑う表情は前と変わらないのに、彼がこれから結婚し、親になるんだと思うと、自分より大分人生の先を行っているような気がした。
その後、二人はひとしきり、豊原の彼女や、これからの生活について話した。彼女とは趣味のサイトで知り合ったとか、妊娠を知って動転し、子供の服を買ってしまったとか。その後、話題はまた仕事のことに移った。手術の上手い下手はどのように決まるかと言う話や、有名な先生の勉強会に行ったときに吸引器の握りかたをなどが話題になった。
芦原がからになったのシャンパングラスを机に置きながら言う。
「そういえば伊波君の病院の青島先生って有名だよね。やっぱり手術すごい?」
「あーうん。そうだね。手先がとにかく器用で、0.3ミリの血管縫ってても手がぶれない」
「へーすごいね。勉強になりそう」
「うーん。正直、今はレベルが違いすぎてほぼ見てるだけって言うか。そっちはどう」
「手術?うちはそもそも、あんまり手術させて貰えないんだよね。教授のやるのを見てるだけだから。目で見て覚えるって感じ。レベルもバラバラだから、自分で他のところ見に行ったりしてる」
「でも、それで覚えられるのもすごいな」
「いやー、どうかな。下手な人も多いよ。初期研修の時に勤務してた市中病院の方が上手い人沢山いたと思う」
「そうなの?」
「そうだよ。大学病院って看板を真に受けてお金持ちそうな人が手術受けに来ることあるけど、やめといたほうがいいんじゃないですかって言いたくなる時あるよ」
ウェイターが皿を下げると、重ねられたカトラリーが、かちゃと鳴った。その後も不定愁訴が多いとか、老化は治せない、という話をしながら、二人は日付が変わるまで飲んだ。伊波はお祝いの気持ちを込めて酒代をおごり、豊原と別れた。
伊波はそのまま自宅に戻るつもりだったが、なんとなく気が向いて、最寄り駅のから一つ前の駅で降りることにした。蛍光灯が照らす黒々とした道路を、ぶちの猫が横切る。伊波はふわ、とあくびをした。伊波は久々に酔っていた。頭が温かいような、モヤがかかったような感触。アルコールは血管を拡張し、血管から水分をまわりの細胞へ流出させる。きっと今、脳はむくんでいるに違いない。
遊歩道を歩いていると、ひらりと白く、小さい何かが落ちてきた。道を折れると、急に目の前がぱっと明るくなった。遊歩道に沿って植えられている桜が、いつの間にか咲いていた。ああ、もうそうか、そんな季節かと思うと同時に、同じ事を去年も思った気がした。家と病院を車で行き来する生活だと、四季の変化にはなかなか気がつかない。あたりはしんとしていて、暗闇の中に音が吸い込まれていくようだ。伊波が歩を進めると、靴がアスファルトを擦る音がやけに大きく、ざっざっと聞こえた。
ぼおっと桜を見ていると、伊波の携帯が鳴った。担当患者の急変かも知れないと思い、伊波はほとんど反射的に電話に出る。今日、急性硬膜外血腫の手術をした折原さんかもしれない。この前みたく、創部から髄液が漏れていなければいいけど。それとも、髄膜腫の手術をした田中さん?たしか、血圧に問題があったはず――――
「はい」
「あ、直人?」
母親の声が聞こえた瞬間、伊波の胸に苦い思いが広がった。出なければよかった。
「いまだいじょうぶ?」
「うん」
「ごめんね、こんな時間に。でもなかなか電話に出て貰えないから」
「ごめん。忙しくて」
何度か母親から連絡が入っていたのは気がついていた。冷たい風が伊波の黒いトレンチコートの中に吹き込む。伊波は床に落ちた花びらを数えるように歩きながら、襟を合わせて首元を覆った。
「元気にしてるの?」
「うん。母さんは?」
「元気。たまには返事返してね」
「うん」
そのあとは、いつもの通りの内容のやりとりが行われた。
仕事はどう?――――まぁまぁ。なんとかやってる。
食事はちゃんと取ってる?――――時間のあるときはね。
曖昧な答えは母を心配させないための配慮だったが、母はいつも少しさみしそうな声で「そう」と言うのだ。伊波はその声を聞くと、胸の奥の方がつねられたような、どうしようもなく情けない気持ちになる。伊波はそれをごまかすように、いつも最後は明るく言った。
「だいじょうぶだよ。大変だけど、やりがいのある仕事だし、給料も良いしね」
母親は笑わない。代わりにこう言った。
「それと……お父さんのことだけど。このまえ少し数値が悪くなって。血圧が下がっていたみたい」
「そうなんだ」
「また回復したから大丈夫なんだけど。でも、つぎ、いつ危なくなるかはわからないって。だからね、こんど、顔だけでも良いから見に来れば?」
少し枯れた声で母親は言った。伊波はアスファルトで半透明に重なり合う桜の花びらを踏みつける。
「そっか……でもちょっと、今は忙しいかな」
「そう……そうよね。じゃあ、時間のあるときに、来て」
「わかった」
母親はその後も少し話し、電話を切った。暗闇の中で電灯が細かくと瞬いている。遠くで電車が走るガタンゴトンという音がした。伊波は携帯をポケットに入れ、目を上げた。送電線で多角形に切り取られた空に、上弦の月がぽっかりと浮かんでいた。
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