第2話
「こと……ことば」
七二歳の斉藤次郎は目を見開き、口を大きく開けてその三文字を言った。しかし、次の言葉が続かない。斉藤次郎はもういちど、意を決したように顔を上げると、口を開く。
「あー……えー……」
斉藤次郎はがっくりとうなだれた。伊波は二階の脳外科外来の一室で、患者と、その妻と対面していた。室内の壁はアイボリーで、患者と家族が座っているのは水色のキャスター付きの椅子。斉藤次郎は膝に手を置き、すこし左に傾くように座っていた。右掌だけが上に向けて膝に置かれている。問診票には、右半身麻痺が残っていると書かれている。
痩せた身体に、くたびれた白いシャツと灰色のスラックスを着ていた。斉藤陽子が口を引き結んで、夫を見ている。斉藤次郎は途方に暮れたように、伊波をじっと見つめた。伊波は思わず視線を下ろし、椅子を引いた。キャスターがからからと小さく鳴る。伊波はいたたまれない思いで、腹の奥がぐっと締め付けられるように感じた。
「前の病院でリハビリをしていたんですけど、なかなかよくならないんです。もう3ヶ月経つのに」
患者の側に座った妻の陽子は、思い詰めたように言った。身体は夫を支えるようにぴったりと寄り添っている。なるほど、と言いながら、伊波はカタカタとパソコンに必要事項を入力する。つるつるとしたキーボードの感触が伊波の気持ちをなだめた。伊波は静かに言った。
「残念ですが、当院ではこれ以上の薬や、手術での治療は出来ません。脳は、一度損傷してしまうと、元には戻らないんです」
「でも。私の友達も同じように倒れてましたけど、回復していたんです」
「そうですね。脳の場所のどこを損傷したかによって、回復にも差があります」
「それは……もうどうしようもないってことでしょうか」
陽子は大きな目でぱちぱちと瞬きをした。化粧気は無く、額には深く刻まれたしわが目立つ。ボブにした白髪交じりの髪は乾燥し、ふわりと浮いている。沈黙の中でパソコンのちりちりという音が聞こえた。伊波は息を吐き、患者に向き合った、
「たしかに、損傷そのものを直すことは出来ません。でも、一つ言えることは、リハビリをすることで、脳の他の部分が、壊れた部分を助けてくれるようになる、と言うことです。そうなるためには、長い目で見ていくことが大切です。当院にもリハビリの科はありますので、入院することは可能ですが」
「わかりました。おねがいします」
妻の陽子はちらりと夫を見てから言った。入院することは、最初から決めていたようだった。斉藤次郎は陽子に助けられて立ち上がった。陽子の挨拶に合わせ、左斜め前に身を屈めてから、歩き出した。視線は始終、床に落とされたままだった。
ガラガラと引き戸が閉まり、伊波はひとつ息をついた。パソコンに向き直り、電子カルテを仕上げてから、次の患者を呼ぶ為に画面をカチリとクリックした。
「今日はどうされましたか」
「なんだか頭の奥の方が痛いの。前も何回か痛いときはあったけど、ここんとこずーっとなの。だから、なんか悪い病気じゃないかって心配になって」
そう言って、54歳の三浦和美はブリーチで痛みきった金髪をさっとかき上げた。ピンクのミニスカートに、鮮やかなグリーンのカーディガン。その下には胸元の大きく開いた、きらきらしたカットソーを重ねている。
「頭痛には、命に関わるような物もありますが、そうでないものがほとんどです。CTもきれいです」
伊波はたるんだように前に突き出ている胸と腹から目をそらしながら言った。カットソーに重ねた沢山のネックレスがじゃらじゃらと揺れる。
「しびれやめまい、吐き気などはないと言うことですし、大丈夫だと思いますよ。あと……耳や目にも問題は無いですか?」
伊波はカルテを見せながら言った。表の左下の欄が未記入だった。三浦和美はそれをのぞき込みながら、舌足らずな発音で答える。
「え?ああ、ええ。耳とか目とかは悪くなったりはしてないですよ」
「じゃあ、大丈夫だと思いますよ。偏頭痛の薬出しておきますので、それで様子を見てみましょう」
伊波は患者の代わりにカルテに丸をつけ、PCの方を向いた。処方箋を入力しようとすると、三浦和美がそれを制する。
「でも、先生」
伊波は再度、三浦和美の方に向き直った。白い眉間に深いしわを寄せている。
「私、なーんか嫌な予感がするんです」
「嫌な予感、とは」
「実はね」
三浦和美は打ち明け話をするように身体を寄せた。百貨店で嗅いだことのあるような、香水の匂いが鼻につく。伊波は脳天がくらりとした。
「親戚が、前倒れたことがあるんです。でも、その時も何の予兆も無かったの。でもね、倒れた後、その人、歩けなくなっちゃって、奥さんもほんと大変そうだし。人生変わっちゃったって言うか。ほら、こう言うのって一度起こっちゃうと、取り返しがつかないでしょ。だから私、ちゃんと検査しておかないと駄目だって思って。それにね――――」
伊波は靴の中で、こっそりと足の指を広げた。親戚の話から話は逸れ、友達の話、芸能人の健康の話題まで広がっていく三浦和美の話を、伊波は、はい、はい、と相づちを打ちながら聞いていた。伊波はこういうとき、どうしていいのか未だによくわからない。頭の中には自然と、外来の後にしなければいけない仕事のことが浮かんでいた。明日のカンファレンスのために資料を作ること。あさっての手術のオペレコを呼んで備えておくこと。伊波はちらりと時計を見る。まだ15人目なのに、もう3時だ。予約は23人だったから、あと八人。いつものことだが、終業の4時までには間に合わないだろう。頭の中で、ベテラン看護師の町田の野太い声が聞こえる。先生もお忙しいことはよくわかりますけど、はっきり言って、時間までにオーダーを出していただかないと困るんです。看護師が交代する時間なので――――
「先生」
伊波がはっとして三浦の顔に目をやると、三浦が厚くマスカラの乗った目を細め、伊波を静かに見下ろしていた。アイシャドウが目のしわに埋まり、目を縁取っている。伊波は思わずたじろぎ、咳払いをして椅子に座り直す。三浦和美は低い声で言った。
「先生、私の言ってること信じてないですよね?」
「え?」
「だって、私の話聞いてないじゃないですか。どうせ患者には病気のことはわからないだろうって、馬鹿にしてるんでしょ」
「そんなことは……」
「でもね。自分の身体のこと一番わかってるのは私ですから。私が悪いって言ってるんだから、どっかおかしいに決まってるのよ」
三浦和美は斜めに首をかしげ、伊波を睨んでいる。伊波は体勢を立て直すために、座り直した。椅子が小さな音を立て、サスペンションが少し沈み込む。伊波は三浦和美を正面から見る。
「おっしゃるとおりだと思います。勿論、ご心配があるようでしたら、精密検査を受けていただくことも可能です」
三浦和美は間髪入れずに聞いた。
「それって今日して貰えます?」
「えーと。今日はちょっと難しいですね。早くて2週間後になります」
「もっと早くなりませんか」
「うーん。それはちょっと難しいですね」
「でも、私も忙しいんですけど」
三浦和美はそう言いながら足を組み替えた。ストッキングを穿いた三浦和美の右足には、いくつかの新しいあざがあった。ピンクのパンプスの先が汚れている。ヒールの先が床に着くと、コン、という音がした。伊波は、このヒールが刺さったらを痛そうだと思った。
「じゃあ……それでいいです」
伊波が苦笑しつつ黙っていると、三浦和美はため息とともに低い声でそう言い、立ち上がった。伊波は心の中で胸をなで下ろす。最後の力を振り絞り、顔を笑顔の形に作って患者に向けた。
「お気をつけて」
三浦和美は伊波を一瞥すると、鼻を鳴らして診察室を出て行った。かごに入れていたバックとコートを取り上げる動作で、胸元のチェーンがじゃらじゃらと鳴る。診察室の扉が閉まると、さっきより一段と深いため息が出て、伊波は椅子の背もたれに寄りかかった。天井を仰ぎ口を開ける。その5秒後、伊波は首を掻きながら身体を起こした。必要事項をパソコンに入力したあと、また呼び出しのアプリをクリックする。名前の欄には、上岡優、と表示されていた。しばらくすると引き戸を開ける音がして、伊波はまた顔を上げた。
「こんにちは」
「はい、こんにちは。今日はどうですか?」
「まだ左手がしびれますね」
えんじ色のセットアップスーツを着た、働き盛りと言った印象の40代の男性だった。髪は整えられ、つやつやとしているが、表情は硬い。検査の結果が悪かったのかもしれない、と思ったとき、伊波はその患者が悪性リンパ腫を患ったアパレル企業の社員だという事を思い出した。上岡が革製のブリーフケースを荷物入れにがさりと入れながら言った。
「先生、検査の結果はどうだったんでしょうか」
伊波は上岡の不安そうな視線から目をそらしたい衝動に駆られた。悪性リンパ腫は進行が早く、再発もしやすい脳腫瘍で、5年生存率は24パーセントだ。
伊波は机の下で手指をこすり合わせた。エアコンで乾燥している指先はかさかさと固い。伊波は息を吸い、パソコンのモニターに画像を写しだした。
「これが以前撮ったCTです。ここに映っているのが――――」
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