ベイビーインザヘッド編

第38話 理性ギリギリ僕の部屋と布団でおやすみでエロい

 2007年7月15日日曜日1:47。

 僕は布団の中でゆっくりと瞼を上げると暗い部屋の中に視線を彷徨わせた。

 開けっぱなしにした窓から夜風と月明かりが差し込む僕の部屋は、夜の静寂に――沈んでいてくれたら助かるのだけれど、近くの川や田んぼの蛙たちの大合唱と、車のエンジン音でなんだか雑然としていた。


 いや、心がざわつくのはそのせいではない。

 むしろもっと近く――僕の背中にぴとりとくっつくモノにあった。

 人の温もりに柔らかさ、呼吸の音と心音が聞こえてくるそれは、何を隠そう僕の妻である。そう、僕は今、妻と一緒の布団で背中を合わせて眠っていた。


 高校二年生である。

 こんな状況で寝られる訳がない。

 断言しよう。この状況で寝られる男子高校生がいたらそいつはバケモノだ。

 性欲をどこかに落としてきたモンスターだ。逆に怖いわ、そんなもん。


 どうしてこんなことになってしまったのか。

 思い返せば意外と簡単。元の未来に戻るのを待っていたらこのザマである。


 僕と千帆は、あの衝撃的な杉田と天道寺さんの告白のあとからかれこれ八時間、まだ元いた未来に帰れないでいた。


「どうせもうすぐ未来に帰るんだからぁー、最後は一緒にいようよぉー」


「えー、しょうがないなぁ。エッチなのはなしだよ?」


「なんでぇー? いいじゃなぁーい、もう帰れるんだからぁー! 最後くらいハメ外してもぉー、誰も怒らないよぉー! ねぇー、ハメをハメようよぉー!」


「だーめーでーす! それが原因で、未来が変わったらダメでしょ? どうするのさその一回で、もしもできちゃったりしたら!」


「えー、私ぃー、子供欲しいからぁー、別にいいよぉー?」


「未来に帰ったら中学生の親になるんだよ! 分かってんの! いきなりそんなのになる覚悟なんて僕にはないよ!」


 という訳で、エッチなのは抜きで、一緒にいようということになり僕と千帆は最後の時間を僕の部屋で待っていたのだ。


 昨日の朝は居なかったのに、いつの間にかしれっと家に戻ってきていた千帆のご両親に、ちょっと友達のところに泊まってくると携帯越しに嘘を吐いた千帆は、こっそりと僕の部屋に上がり込んだ。そして未来に帰る瞬間を、ここ数日の奇妙な体験について語りつつ、二人で作ったご飯やおつまみを食べて、僕たちは待っていた。


 そう、どうせすぐ帰れるだろうと、そんなことを思って。


 けれども、待てども待てども、それはやって来なかった。


 両親が揃って出かけている――車もないから、たぶん二人でレジャーホテルに行った――ので、特に家で気を遣うことはない。だが、若い男女が十二時過ぎまで狭い部屋で語り合うという青春濃度が濃い体験は、中身がいい歳の僕たちには堪えた。


 とりとめのないおしゃべりって意外としんどい。

 流石に日付を跨ぐ頃には、ちょっと疲れたねという空気に浸っていた。

 身体が大人だったなら、肉体的コミュニケーションで沈黙という名の休憩も含めて楽しめるのだけれどね。まぁ、そっちもそっちで疲れるんですけれど。


 流石にこの調子では今日はないか。

 あるいは寝て起きたら未来か。


 なんにしても、そろそろお開きにしようと言った僕に、千帆は縋りついてきた。


 上目遣い。

 畳の上に脚をぺたりとつけて彼女は僕の上着の裾を引っ張る。

 これはあれだ、サークルとか会社の飲み会でよくあるテンプレの奴だ。


「門限をー、過ぎちゃったのぉー。朝までぇー、泊めてちょうだぁーい?」


「……千帆。それ、絶対狙ってやっただろう」


「こんなぁー、可愛い奥さんをー、夜道に放り出すのぉー? あーちゃんのぉー、鬼畜ぅー! ひとでなしぃー! エロ漫画読みすぎぃー! おっぱい星人ー!」


「分かった、分かったから! まったくもぉ!」


 終電逃しちゃったメソッドをまんまと決められる僕。

 これもう、言わせちゃったら負けだよね。

 とほほと僕は肩を落とした。


 まぁ、この時間に千帆を家に帰らせたら厄介なことになる。明日の朝には、僕たちは未来に戻っているかもしれないが、過去の千帆の家庭は紛糾するだろう。千帆の家はそこまで厳しい家ではないが、娘が深夜に突然帰ってきたら心配するはずだ。


 仕方なく、僕は千帆が家に泊るのを許可した。


「えへへぇー、あーちゃんちでぇー、お泊まりするのぉー、久しぶりだねぇー」


「そうだね」


「あっ、そうだぁー、パジャマ持ってくるからぁー、一旦、部屋に戻るねぇー」


「うぉい! 戻れるんかい!」


 泊る許可を出した途端、自分の部屋に跳んで戻る千帆。


 窓、開いてたんかい。

 そして、この展開を読んでたんかい。

 部屋に戻るなら、そこで寝たらあかんのかい。


 策士。

 ほんと僕の妻ってば策士。

 いったいいつから準備してたの。


 というか準備良すぎません?

 どういう想定すれば、家の窓を開けてくるの?

 普通に貴方、一度も家に帰らずに僕の家に来ましたよね?

 家を出るときから準備したの?

 ここまで読み切ってたの?

 おかしいでしょ?


 ほんと、どれだけ頭良いんだ僕の嫁は。

 これもう僕の代わりにタイムリープの謎も推理してくれないかな。


 僕がヒロインやるから、千帆は主人公やって! お願い!


 もはやこのタイムループの黒幕、千帆なんじゃないのって気までするよ。

 まぁ、それならなんでこんなことするんだって話だけれど。


 なんにしても、千帆は一度自分の部屋に戻り、荷物をまとめてまた僕の部屋にやって来た。そして、すぐにバスタオルをはためかせて、「それじゃー、お風呂入ってくるねぇー」なんて、暢気なことを言うのだった。


「あーちゃーん? お義母さんたちがぁー、いないからってぇー、お風呂を覗いちゃだめだよぉー?」


「覗かないよ! というか、自分の家で入りなよ!」


「えーっ。だってぇーっ。これから寝るのにぃー、汗臭いのは嫌じゃなぁーい?」


「寝るって言っても別々でしょ! だからエッチなのはなしって言ったじゃん!」


「あっ? もしかしてぇー、汗かいてるほうがいいのぉー?」


「もういいから入って来て!」


 僕は千帆さっさと風呂場へ追いやった。

 そしてすぐ、この夜、何か間違いを犯さないか心配だったので、念のために雑誌を持ってトイレに向かった。トイレは風呂場の隣で、千帆が立てる音やら息づかいが聞こえてきたが、心頭滅却して雑誌だけで処理した。


 だって彼女を意識したら、夜中に獣になりかねないから。


 僕がエッチなのはダメって言い出したんだから、そこは守らなくちゃな。

 情けないけれど男として、言ったことは守れないとな。


 とまぁ、そんな訳で。

 僕たちは風呂に入って、ドライヤーで髪を乾かして、明日何時に起きるか、もしまだ過去の世界にいるようならば何をするかを話し合ってから、部屋の電気を消した。

 布団は一つだけしかなかったので、僕が掛け布団の上に、千帆が僕がいつも寝ている敷き布団の上に転がった。


 ブランケットは、まぁ、女の子の千帆に譲った。

 夏に上に何も被らず寝るくらいのしょっぱい甲斐性は僕にもあった。


「えへへぇー、あーちゃんの匂いがするよぉー! おぉーう! これはぁー!」


「変な興奮しないでよ」


「だってぇー、あーちゃんってばぁー、こっち来てからぁー、ガードガッチガッチなんだもぉーん! ガッチガッチにするところがぁー、ちがうでしょぉー?」


「僕は君の拾う単語が違うと思うな」


 なんとなく、千帆の方を向いて寝ると、間違いを起こしてしまいそうだったので、僕は彼女に背中を向けて眠る。

 とはいえ、それで眠れれば苦労しない。

 悶々と、目を閉じて開いてを続けているうちに、時刻は1時を回っていた。


 電気を消してから、二十分くらい経ってからだろうか。


「あーちゃーん、起きてるぅー?」


 千帆が唐突に僕に喋りかけてきた。

 甘ったるい、未来で僕に夜のお誘いをする時のような、そんな声色だった。

 高校生が出していいような声じゃないよ。ほんとにもう。


 まぁ、けど、これも、今日一日耐えれば終わる訳だ。


 我慢我慢。

 そして、こういう時は無視だ無視。

 可哀想には思ったけれど、僕は千帆の問いかけを無視した。


 どうせ、ちょとだけいちゃいちゃしよぉーとか言って、なし崩しで全力でいちゃいちゃするつもりなんだ。そうに違いない。


 そうはさせないぞ。千帆、君の好きになぞさせてたまるものか――。


「ねぇー、あーちゃぁーん。あーちゃんってばぁー」


「……」


「寝ちゃってるのかなぁー? むぅー、起きてるならぁー、返事してよぉー?」


「……」


「……よーし! 今日はぁー、私がぁー、逆睡か」


「起きてる! 起きてます! 起きてますから、そんなマニアックなことしないでください! お願いしますから! ほんともう、勘弁して!」


「もぉー、そんなに嫌ならぁー、寝てていいのにぃー。疲れてるならぁー、大事な所だけぇー、おきててくれればぁー、私は大丈夫だよぉー」


「ぼくがだいじょうぶじゃありません」


 はい、また負けてしまいました。

 エロい嫁には敵いません。

 ほんともう、このラスボス感、なんとかして。


 焦る僕に「冗談だよぉー」と語りかける千帆。ちっとも冗談に聞こえなかったぞと言おうとした僕の背中に、ふと、温かいものが当たった。


 伝わってくるのは肌の温もりと鼓動。

 それは、いつも未来の僕が寝るときに感じていた、おおらかで安心感のある妻の温もり。おそらく感触から、彼女は僕に背中を向けているのだろう。


 ちょっと、言葉に詰まる。

 エッチなことはなしと言って、これまで彼女を遠ざけて来たくせに、いざ、こうして背中をあてられると、それだけで黙り込んでしまう。


 いよいよ僕という男は、スケベでどうしようもない癖に、自分で言ったことも守れないのかと、ちょっと自己嫌悪が頭をよぎった。


 けれど――千帆はそれ以上、僕の身体を求めてはこなかった。

 代わりに、少し背中を丸めて控えめに僕に接してきた。


 あれだけなんやかんやと求めてきたのに、いったいどうしたのだろうか。


 ちょっと振り返って様子を見ようとした矢先。


「あーちゃーん、あのねぇー」


 少し、物憂げな妻の声が聞こえた。

 こんな風に千帆が落ち込むのはそうそうない。

 基本、元気で明るく、そして賢く強い僕の嫁千帆である。彼女はどんな時でも、そのイメージを崩さなかった。


 それこそ大げんかした時も、僕が会社でやらかした時も、父さんの葬儀の時も。

 そして、ぼくが前の会社でうつを患って苦しんでいた時も。

 彼女はその天性の明るさで僕を照らしてくれた。


 けれども彼女も人間である。

 ごくまれに、本当に彼女がショックを受けた時に、こんな風になってしまう。最近はとんとなかったが、数年ぶりのその落ち込みに、僕はすぐさま冷静に対応した。


 妻が弱っている。


 やっぱり、このタイムリープという異常事態の中で彼女も苦しんではいたのだ。いつもと変わらないように振る舞いながら、タイムリープが不安だったのだ。


 そりゃそうだろう。

 僕だって不安だったのだから。


 今まで、何を脳天気なことをと千帆にあきれてきた僕だが、彼女のそれは全部タイムリープへの不安を隠すためだったのかもしれない。僕は妻の気持ちもくめない情けない夫だなと思った。だが、それを悔いるのは今は後だった。


 ゆっくりと、僕は彼女の身体――その重なっている背中に体重を預ける。その接触面積を広げて僕は、大丈夫だよという思いを込めて彼女に寄り添った。

 少し戸惑うような沈黙があってから、えへへと千帆が笑う。

 かわいらしい、だが、不安が声の底に残っている不器用な笑いだった。


「こんなときにねぇー、言うのはねぇー、どうかと思うんだけどねぇー」


「……うん」


「私ねぇー、怖かったんだぁー。私たちのねぇー、関係がぁー、変わっちゃうんじゃないのかなぁーって。もうこれでぇー、二人で一緒にぃー、いられなくなっちゃうんじゃないかなぁーって、思っちゃってたんだぁー」


「……そうならないように、頑張っただろう?」


「……そうだねぇー。あーちゃん、頑張ってくれたよねぇー。それなのにぃー、私ってばさぁー。逃げ回るばっかりでぇー」


 そんなことはないさ。

 千帆は――確かに僕を無視してタイムリープをエンジョイしていたけれど。けど、それは結局、不安だからそうしたんだろう。僕たちが無事に未来に戻れるか、また一緒に居られるか、不安でそんなことをしたんだろう。


 だったらその不安を、拭ってあげられなかった僕が悪い。

 僕が、君の旦那として、もっとしっかりしていればよかっただけだ。


 君と結婚する時に、僕は何があっても君を守ると誓ったのだ。

 千帆に対して、声に出して誓ったのだ。

 だから、それは僕の責任だ。

 君を守れなかった僕の。


 ようやく、僕たちの長いタイムリープはここに終わりを迎えた。

 おそらく、長くてあと一日。

 学校が始まるまでには、僕たちは元の世界に戻るだろう。


 あるいは、また違うミッションが始まるのかもしれないが――とにかく、杉田と天道寺さんがくっついた時点で、一旦の区切りは付いたのだ。


 だから、安心してくれ、千帆。


「……あのね、あーちゃん」


「いいんだ、千帆。言わなくていいよ。大丈夫。分かってるから」


「……あーちゃん」


「君の不安は向こうに帰ってから、いっぱいベッドの上で聞いてあげるから。今は、安心してお休みよ。ね、今日は疲れただろう」


「……うん」


 そう言って、僕の妻は少しだけ僕に当たる背中の面積を広げてくれた。


 はたしてこの背中から、彼女の不安をすべて吸い出せるか、僕には自信が無い。

 自信がないけれど、天道寺さんに杉田が寄り添ったように、僕も千帆に寄り添っていく覚悟だった。千帆という一人の女性を幸せにするために、少しでも彼女の苦悩を分かち合えるように、僕は彼女に寄り添う覚悟だった。


 だから、千帆。


「大丈夫、僕はずっと君の隣にいるから。何があってもね」


 そう言って、僕は彼女が眠るのをしばしまった。


 千帆が完全に眠ったのは、それから十分後。

 そして、現在。


 僕は軽々しく、年頃の乙女と背中を合わせて寝るなんて約束したことを、高校二年生の身体で後悔しているのだった。


 はーもう、ダメ、これはいけない奴。


「……ダメ、これは、ダメだ。もう一回トイレに」


「……んん、あーちゃぁーん」


「……」


「だいすきだよぉ……。ずっとぉ、ずっとぉ、いっしょに居てねぇ……。私がぁ、お母さんにぃ、なっちゃってもぉ……」


「……もうむり、まじむり、うぇえぇん」


 こんなことなら今日は無理せず本能に従っておくんだった。

 結局、僕が寝られたのは、日がだいぶ昇った後、四時前くらいのことであった。


 誓って千帆に対してやましいことはしていない。それだけは本当だ。

 僕はなんとか、男としての誓いを果たすことができた。

 寝た後どうなるかは分からないけれど。


 頼むから襲わないでね千帆さん。


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