第34話 ワタシハ女の子ニナリタイ

 社会人をやっていれば、時に女性に求められることなんてある――と言えれば夢があるかもしれないが、そんなことは決してなかった。社会人になれば自然と女性に誘われるようになるというのは、想像力の足らない僕の妄想以外の何物でもなかった。


 人は価値のある人間にしか興味を持たない。

 そして、自分の価値を正しく判断できない奴にモテる素養はない。


 けれども、一つだけ自分以外の人によって、客観的に与えられる価値がある。


 誰かの恋人。

 あるいは配偶者。


 誰かが自分を選んだという事実は、人の目に価値として映ることを、僕は結婚二年目の忘年会で知った。僕のよく知る女先輩が、飲み会の帰りしなトイレで鉢合わせるや、無理に僕を個室トイレに連れ込もうとしたのだ。


 必死に抵抗して未遂に終わったその事件を、僕は週明けにも引きずった。けれども僕を誘ったその女先輩は、まるで何事もなかったかのようなケロリとした顔と、氷の彫刻のような冷たさを感じる姿勢で淡々と仕事をこなしていた。

 別に彼女は社内で噂されるような軽い女でもなかったし、僕にそんなことをしたのが意外に思えるほどに貞淑な女性だった。既婚者。旦那さんには会ったことはなかったが、酒の席で同僚に聞いてみれば、子供の世話や彼女の仕事にも理解がある絵に描いたようなマイホームパパで、彼女はそんな夫に深く感謝しているとのことだった。


 結局、僕は女先輩がなぜ僕をそんな風に誘ったのかよく分からなかった。

 勝手に深酒が祟ったのだろうと結論づけて一年ほど過ごしたある日、彼女が二人目のお子さんの出産と子供の育児に専念するため、会社を辞めることになった。


 彼女の最終出勤日、僕に本文なしのメールが届いた。

 送り主は女先輩だ。


 メールには暗号化されたZIPファイルが添付されていた。

 ZIPファイルの名前は件のやりとりがあった料理屋の店名。僕はそれを見て何か運命的なモノを感じすぐに解凍に取りかかった。だが、ファイルにはパスワードがかけられており、思いつく限りの数値や文字列を入力したが僕に解凍はできなかった。女先輩に答えを聞こうかとも思ったが案件の納期もあり、僕が暇になった時には、彼女は最後の挨拶を終えて社外の人になっていた。

 

 次に僕がそのファイルを解凍するのは年末のことである。メールフォルダの整理をしていた僕は、たまたま彼女といざこざがあった飲み会の社内回覧メールを見つけたのだ。そこで、ふと、もしかしてパスワードは飲み会の日付ではないかと思い至り、回覧メール内の開催日を西暦表記で打ち込んでみたのだ。


 解凍されたファイルの中には無題のドキュメントが一つ入っているだけだった。

 さらにその中に書かれていたのもたったの一行。


「誰かのものになった君に抱かれてみたかったの」


 心配しないでともごめんなさいとも末尾にない、一方的な感情の吐露に僕は戸惑った。結局その日は仕事にならず、彼女の残したZIPファイルとメールを丁寧にパソコンのローカル領域から削除して、家に帰って千帆の身体を求めた。


 後にも先にも、僕が千帆以外の女性に求められたのはそれっきりである。


 ちなみにその晩、千帆の身体を求めた理由を素直に話した僕は、いきなり彼女にケツ毛をむしり取られたあげく、馬乗りになって頬を何度も平手打ちされ、二度と浮気されない顔にしてやると絶叫されることとなった。これも後にも先にもな話になるのだが、顎が砕けると思うほどビンタを食らった夜はそれっきりである。


 なぜそんなことを思い出したのかと言えば他でもない。

 僕を求める天道寺さんの声色にあの日の女先輩と同じものを感じたからだ。


 まるでその場しのぎ、手に入るもので上等なものならなんだって構わない。

 そんなやけっぱちな女の匂いがしたのだ。


 たぶんだけれど――。


「……天道寺、さん。別に、それは、僕じゃなくても、いいんだろう?」


 僕は彼女に求められていない。

 僕の心を彼女は必要としていない。


 目の前の僕とは別の所に彼女の望みはあって、僕はそれを成すために、ただただ都合の良い存在でしかないのだ。それこそ、血の通った道具でしかない。


 図書準備室で心を通わせたはずの天道寺さん。

 彼女にそんな風に見られるのも、扱われるのもつらかった。


 だが、同時に彼女が何の思惑もなしにこのようなことをする女でないことを、僕はあの図書準備室でのやりとりから知っていた。その内側に、迂闊に近づいた者を無慈悲に焦がす、少女特有の神聖さや無垢さを持っている彼女を僕は知っていた。


 どうしてそんな彼女が、自らを壊すような行いをするのか。

 それも、僕のようなどうでもいい道具を使って。


 僕はその言葉を発した彼女の心に触れたかった。

 知り合ってまだ一日も経っていないけれど、背中にそのか細い指を這わす美しい少女が、いったい僕を使って何を成したいのかが気になった。


 もちろん、そこにどのような理由があったとして、僕は彼女のそれに協力するつもりはない。僕の貞操は、その生涯をすべて捧げて幸せにすると誓った妻の物だ。

 そして、もし彼女を女にする男としてふさわしい者がいるとすれば、それは間違いなく、長い年月を彼女を愛して過ごすことになる僕の親友だろう。


 その考えが、男の傲慢であり、女が抱く理想とは異なっているのは承知だ。

 だが、それでも僕は、彼と彼女がお互いのはじめての存在であって欲しいと願う。たとえそれが、どんなに彼らの世界を狭める結果になってしまったとしても。妻あるいは夫ではない異性を知ることが、その絆を深める結果を呼ぶとしても。


 既婚者とは思えない潔癖な願いだ。

 もしかすると、僕の倫理観まで肉体と共に若返っているのかもしれない。


 天道寺さんの動きが止まる。

 僕のうなじを悪戯っぽく弄っていた指さきが離れると、背中に感じていた彼女の重みが少し軽くなった気がした。


 静寂が部屋の中に響き渡る

 覚悟の重さを偲ばせるには充分な沈黙の後、彼女は僕にこう言った――。


「鈴原はさ、分かるんだね。私が本当はこんなことしたくないこと」


「……わかるさ」


「千帆と結婚したから? 夫婦になったから? 女を知っているから?」


「君を知ればそんなのは誰だって分かる。君は、そんな女の子じゃない。君の中にある大切なものは、こんな悲しい経験を欲してなんかいない。君が本当に求める経験は――もっと異性に対する希望に満ちたもののはずだ」


「……そうだよ。私はそうありたいと望んでいるし、そうできるならそうしたい」


 けどね、と彼女は言った。


 確かに彼女は僕に向かって言った。


 けどね、と。


 その言葉が出た瞬間、僕は何かとてつもなく醜悪な形をした鈍器により、身体をしたたかにうちのめされた気分になった。自分の無知さあるいは盲目さ、表面的な物しか見ていない視野の狭さを思い知らされた気分になった。


 違うのだ。


 僕は、彼女をこの世界で最も完成された女の子だと勝手に思っていた。思い出の青春時代の中、天道寺文はいつも輝いていた。その姿を、僕は勝手に神格化していた。これこそ本当の乙女の姿、少女性の象徴だと、勝手に思い込んでいたのだ。


 けれどもその女の子の内実は違っていた。


 彼女の中に巧妙に隠されていて決して露見しなかった、愛くるしい少女性はいったいどうして育まれたのか。話せば話すほど愛おしくなる、その天与の無垢さはいったいなぜ保ち続けることができたのか。


 外見から窺うことができない内面性を彼女が持っていた時、僕はかわいいと感じたがそれは間違いだった。僕はそのとき、彼女に危うさを感じるべきだったのだ。


 すべて持ちうると思っていた彼女が、その実、その懐に何も持っておらず、強くその欠乏をなにかで埋めようと足掻いていることに気がつくべきだったのだ。


 彼女を整った美しさの持ち主だとか作れらた美人だと感じる、その正体に。


 僕の喉が鳴る。

 その反応を待っていたように、再び僕の背中に彼女の存在感が戻る。


「私はね、きっと誰からも女の子として愛してもらえないの。だからせめて、女の子として誰かを愛したいの。それなら、女の子じゃない私でもできるから」


「天道寺さん、君は……」


「男の子に好きって言いたかった。ありのままの自分を見て欲しかった。運命の人だと信じたその人に、身体を抱きしめられて優しく口づけてして欲しかった。何もかもすべてその人に捧げて、私の身体に思い出を残して欲しかった。たとえそんな行いがいつの日か、世間を知って女になった私に笑われたとしてもいいの。だって、その時、その瞬間に、私はたしかに少女だったのだから。本当の少女だったのだから」


 背中で着崩れの音がする。

 フェイク・レザーが折れ曲がる肉感的な音色に交じって、何か多くの房を持った物が揺れる音がした。また微かに僕の背中に伝わる重みが減ったかと思うと、今にも泣き出しそうな天道寺さんの声が響く。


「……鈴原、ごめんね。お願いだから、私を見て」


 心底、それは自分の身勝手を悔いている声だった。

 自分を制御することができず、分別の足りない純粋で幼稚な感情に、為す術もなく振り回されることを恥じる声色だった。いや、むしろそれが許されない身であることを恨めしく思い、押しつぶされてしまいそうな――とでも言えばいいのだろうか。


 とにかく、僕を襲ったはずの少女は、その行いを深く恥じていた。

 それがいよいよ息づかいに現れ、嗚咽と共にあふれ出るより前に、僕は彼女のその不安に向き合うべきだと感じた。


 一人の男としてではなく、彼女の友人として。


 はたして僕が身を捩って仰向けになる。

 明るい蛍光灯の光を背にして、僕に馬乗りになった彼女は、その双眸を瞬かせては涙を掻き出して、口に当てた手で嗚咽を喉奥に押し込めていた。


 臍の下までずり降ろされた光沢ある合成皮革の衣装。

 露わになった二つの膨らみはしかし、おおよそ少女的とは言いづらいほど小さい。その原因は、おそらく彼女がふくらみの前に置いた腕の下から、痛々しく伸びている縫合痕にあるらしかった。


 肋あるいは腹腔に沿って、いくつもの縫合痕が刻まれたその身体は痛々しく、どこを触るにも繊細な気遣いが必要に思えた。縫合痕に沿って盛り上がった白い肌は、関節でもないというのに節くれだっている。まるで足の踵のように硬質化したその膨らみは、まるで無駄と知りつつ行ったかのように、表面を微かに削り取られていた。


 涙と嗚咽がしとどと落ちる。その源泉に目をやれば、そこに金色の髪はない。あるのはまばらに生えそろった短い髪だ。毛が生えている場所とない場所が渦を巻いているその頭こそ、彼女にこれまで多くの絶望を与えてきた諸悪の根源に見えた。


 僕の上に今居るのは間違いなく少女であった。

 誰よりも普通の少女にあこがれている、泣き虫で痛がりな少女であった。


 けれども、それを世間は認めない。

 きっと、表面的には認めて、社会に受け入れた振りをすいるだろう。

 けれど、決してその無意識に作られた仲間の輪の中に迎え入れることはない。人類がその廃絶を掲げなければ、抑えられない原始的な負の価値観が、彼女を無自覚かつ自動的に傷つけることになるだろう。あるいは既に、彼女は傷つき果てている。


 自分が少女であると、信じられないほどに。

 白馬の王子が現れることを諦めるほどに。


 そう、天道寺文は美少女などではなかった。

 誰よりも美少女でありたいと願い、そのために今の彼女ができるすべてのことを尽くした、臆病な女の子であった。


 ただ一心に、普通の女の子のように生きたいと願う娘であった。


「……ねぇ、どうかしら。何か言ってちょうだい」


「……その姿が君の価値にどれだけ影響するっていうんだい」


「そんな言い方ってないわ。私が人生を賭けて追い求めてきたものを、そんな風につまらない物みたいに言わないでよ」


 嗚咽を堪えて、天道寺さんが笑う。

 痛々しい笑顔には人を安心させる効果なぞ微塵もなく、よりいっそう彼女の身の上の痛々しさと、その心を蝕んでいる呪詛の重さを痛感した。


 天道寺さんとその名を呼んで、僕は瞳を何度か瞬かせる。

 痛々しさよりも目の前の少女の心のいじらしさに、熱くなった目尻から涙が溢れ出していく。喉が空気を求めて膨らんで、ヒュッとマヌケな音を出した。


「小学四年生の頃に小児がんになったの。色んな箇所に転移したわ。幸いなことに、臓器にそれほど深刻な被害は出なかった。けれど、二つの乳房と頭部の皮膚は、永遠に私から切り離されてしまったの」


「……それが、その姿の原因なんだね」


「分かったでしょう、鈴原。これが私。女の子になりたいと渇望するバケモノ。決して、本当の意味でかわいくなることができない、惨めな私なの」


「……そんなことはないさ。だって君は、誰よりも」


「ありのままの私を愛してくれなければ意味がないの! きつくその腕で抱き寄せて! その唇でぬくもりを求めて! 夢中になって私を傷つけてくれなければ、そんなのは、いくらやったって、何をやったって私にとって無意味なの!」


「……天道寺さん!」


 それは心の底からの叫びだった。

 彼女がその身にため込んで、吐き出すことができなかった、想いの澱だった。


 両手で彼女は顔を覆う。けれども、一度堰を切った感情を、再びその身体の奥底に押し戻すことはできない。激しくなる涙の流れと嗚咽の音。どれだけそうしても、決して癒えることのない、回復不能の絶望が彼女を覆い尽くしていた。


「だから私は少女になれない。醜い私を、誰もそんな風に扱ってくれない。それならせめて、誰かを私は愛したいの。少女の瞬間がなくてもかまわない。女になって、誰かを愛せるなら構わないの。だからお願い、鈴原。私に必要ないそれを奪って。友達の貴方にしかこんなの頼めないの。だって、誰も私を愛してくれないって分かってるから。私のことを傷つけてくれないって知っているから」


「……無理だよ、天道寺さん」


「千帆には黙ってるから。きっと誰にも話さないから。だからお願い。話せば話すほど感じたの、貴方はきっと優しい人だって。貴方なら私の願いを叶えてくれるって」


 いやよ私、誰かに傷つけられる痛みも知らないまま女になるのだけは。


 自分で傷つけることと他人に傷つけられることは違う。


 少女たちは皆、その価値を理解していた。

 傷つけることしかできない、少年たちと違って、彼女たちは理解していた。


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