第33話 女の子たちだけのネヴァーランドでエロい

 2007年7月14日土曜日14:49。

 京都木屋町通り恵美須町。弥次郎兵衛ビル3階。


 京都一の夜の街。昼間から酒と女とたばこの匂いでむせかえる通りに、僕は足を運んでいた。木屋町というと、場所によってはすぐさま補導されそうな趣があるが、そんな地域の中でも北に位置する恵比寿町はそこまで猥雑でもない。

 夜の街というより飲み屋街の風情が強いそこは昼間はほとんんど機能していない。電気の切れたネオン看板が並ぶ通りを抜けて、僕は誰にも邪魔されることなく目的のビルまでたどり着くことができた。


 町の風情と変わりなく飲み屋が多く入店しているビルだった。一階は当時の居酒屋チェーン店。二階は少し高級感がある日本酒専門店。四階より上は、業態について詳しく看板には書かれていないが、おそらくバーの類いだろう。


「やっぱりいかがわしい店なんじゃないの?」


 その三階に、天道寺さんが勤めているという仕事場はあった。

 名刺に書かれていた「March Hare」がてっきりと店名かと思ったのだが、どうもそうではないらしい。ビルに入店しているテナントの看板には、三階の箇所に黒地にウサギのマークが描かれているのみ。まったくもってなんの店か分からなかった。


 ぶっちゃけ、入店するのが怖い。

 だが、迎えに行くと言った手前、それを反故にすることもできない。


 そう、訳あって僕は天道寺さんのバイト先に急遽訪問していた。


 発端は先ほど僕にかかってきた電話である。


「ごめん鈴原。ちょっとバイト先に重めの荷物が急にできちゃって。持って帰らなくちゃいけないんだけれど、運ぶの手伝ってくれない? お礼はするからさ?」


 電話の主は天道寺さん。

 彼女は待ち合わせの時間に先立って、僕にヘルプの電話をかけてきたのだ。


 ちょっとタイミングが悪かった。

 なにせ、つい先ほどまで目の前で、彼女の未来の旦那(と思われる男)と、彼女についての話をしていたのだ。そして、ようやく彼が未来を受け止めた所に、その未来の嫁(と思われる女)から、僕に電話がかかってきたのだ。

 気まずいったらないよね。なに、なんでそんな親しげなのってなるよね。


 彼女と知り合ったことは伝えたが、昨日の濃厚なやりとりは伏せてある。

 なので、携帯電話から漏れる、僕と彼女の妙に親しげな語り口に、杉田がちょっと気の早い嫉妬を顔に浮かべるのは仕方なかった。


「別に、僕は行ってもいいんだけれど」


「いいんだけれど?」


「ちょっと恋人に聞いてみないとまずいかなぁ……」


「千帆に? それなら大丈夫よ、ちょっと彼氏借りるねって言っておいたから!」


 いや、聞くのは君の彼氏なんですけれどね。


 行ってよろしいですかと杉田に尋ねる。少し眉根を顰めた彼だったが、力ない息を吐き出すと、仕方ないだろそういうことならと許可してくれた。


 まだ二人が恋仲と確定した訳でもないのに、気の早い束縛系彼氏だ。

 もしかしてそういう所が結婚に踏み切らせなかったのかな。


 なんにしても彼氏の許可が無事に出た。僕は喫茶店を後にすると、駆け足で新京極を突っ切って木屋町まで。夏場のダッシュは帰宅部員にはなかなか堪えるものがあったが、十分ほどで僕は名刺の地図の場所にたどり着いた。


 しかし、たどり着いたはいいが、これである。

 この通りを移動するのにもなかなか勇気が要ったわけだが、そのビルに入るのも、そして該当する階に移動するのも少し気が引けた。それこそ、もう一度天道寺さんに電話を折り返して、ここで本当に合っているのかと問い合わせたいほどだった。


 ゴタゴタ言っている場合じゃない。確かに僕は今高校生だが、中身は成人した大人じゃないか。千帆に迫られるのと比べれば、なんだこのくらいの怪しい店。


 謎の鼓舞を心の中で自分にかける。

 はたして僕はビルの中央にあるエレベーターに乗り込むと、その天道寺さんが勤めている店がある三階のボタンを押下した。

 幸いなことに、エレベーターに乗り合わせる人間はいなかった。


 三階。

 黒いマジックミラーで出来た扉の前に僕は立つ。扉は施錠されているらしく、また外からは鍵が開けられないらしい。外には取っ手はおろか鍵穴すらなかった。

 かなり異質なテナントだ。ますますなんの店だと不安になる。

 というか、建築基準法的に大丈夫なのだろうか。


 なんにしても、これでは中から開けてもらうしかない。


 僕はその扉を静かに手でノックした。

 しかし、僕のノックに応えてくれるものは中にいないらしく、ノック後しばらく沈黙が場を支配した。


「……すみませーん」


 声をかけても、応える者は誰もいない。


 はたして、これはどういうことだろう。


 というか本当にいかがわしくない店なのだろうか。

 まだ時刻は15時前だというのに、何かいけない店に来たような気分だ。

 つい、周りの目を気にして浮ついてしまう自分がいる。


 そわそわと当たりを僕が見回したそのときだった。マジックミラー製の扉、その左端――僕の胸より少し下くらいの高さに緑色の光が灯った。

 四角形、名刺一枚分の光の枠が突如そこに現れる。


 まさか、とは思うが。


 天道寺さんの名刺を取り出すと、僕はその光の枠に収まるようにそれをマジックミラーに押しつけた。すると、カチリという音がして、扉が内側に向かって開いた。


 出迎えてくれたのは銀色の長い髪のおばあさん。白とくすんだ紅色をした布でできた、ヨーロッパの民族衣装のようなものを身に纏った彼女は、いらっしゃいませとしわがれた声で僕に言った。


「えっと、このお店はいったい? というか、ここで働いている天道寺文という娘に呼ばれてきたのですが?」


「三月ウサギですね。出勤しておりますよ。どうぞ奥へ」


 そう言って、おばあさんが指を鳴らす。

 しわがれた手からは想像つかないほどの甲高い音がした。


 指の音で呼ばれたのだろう、すぐさま奥から赤ずきんのような女性が出てきた。

 年齢は分からない。顔がフードによって隠されており、体つきもぶかぶかとした衣装に隠されていて判別がつかなかた。身長から言って、中学生くらいだろうか。


 年齢不明の赤ずきんが、こちらですと言って手招きする。

 少し戸惑ったが、いかがわしい店でないのならば問題なんて無いはずだ。僕は彼女に誘われるまま、店の奥へと続いているだろう廊下へと歩み入った。


 店内は薄暗いが、不思議といやらしい感じはない。打ちっぱなしのコンクリの壁に、燭台を模した電灯が通路には等間隔で設置されている。不思議な店だ。


 どうやら客席は完全個室らしく、通り過ぎる通路の途中に何個か扉があった。しかも、そのすべてが入り口の扉と同じく内側からしか開けられない造りになっている。

 おそらく部屋に入るのにも先ほどのようなやりとりが必要らしい。となると、各部屋にその部屋を仕切っている人がいるのだろう。


 やはりいかがわしいお店ではないのか。


 いまさら後悔して歩いていると、こちらの部屋ですと言って前を歩く女性が立ち止まった。木製の扉がしつらえられたその部屋。やはり扉にドアノブはない。


 どうぞと言われるが、どうしていいか分からない。

 仕方なく、扉をノックしてみれば、はぁーいという間延びした声と共に、扉が内側に開いた。途端、薄暗い通路にまぶしい光が差し込む。


 天井から降り注ぐのは陽光を思わせる温かい光。

 草原を思わせるまばらな緑色をしたカーペット。

 四隅にうずたかく積まれているうさぎのぬいぐるみ達。そして中央にはテーマパークのカフェテリアにでも置かれているような丸テーブルと、四つ足の椅子。

 足が十字になっているテーブルは、縁に丁寧な模様が彫り込まれている。その前に置かれた四つ足の椅子は、種類は分からないが木製。よく磨き上げられており、光沢のある表面が、天井からの光を反射してまぶしかった。


 ここはいったい、と、思っていた所を、横から伸びた手に引っ張り込まれる。


 そのまま、つんのめるようにして部屋の中へ。バネ式あるいはダンパー式なのだろう、僕が入ると扉はもとの位置に戻った。


 扉の振動が収まる前に僕の前にある人物の顔が飛び込む。

 金色の髪に白い肌、ブラウニークッキーのような瞳。いつもは凜とした顔立ちを今日は喜色で緩めている彼女は、間違いなく僕を呼び出した張本人。


 天道寺文。


 しかし彼女は、僕が思いもしないような格好をしていた。


「……て、天道寺さん、その格好は?」


「あ、これ? ごめんごめん、着替えるの忘れてた! 君と入れ違いで帰ったお姉さまのリクエストでね! じゃーん! バニーガール! どう、似合ってるかな?」


 黒く輝くしっとりとした質感のボディスーツは、彼女のスレンダーな身体にフィットして、その整った身体の稜線をさらに鮮烈に強調している。


 もしそのまま着用したら正視できなかったであろう腰回りは、黒いストッキングに脚を通すことで健全に保たれている。だが、その代わりに、よりくっきりと彼女の引き締まった脚のラインを浮き上がらせていた。光沢のある黒いハイヒールによってつま先立ちとなった天道寺さんの脚が怪しい色気を放つ。


 弓なりに反った彼女の背中は、ボディースーツには覆われておらず、綺麗な柔肌が露わになっている。金色をした糸のカーテンがかかったそこから、時々覗ける肩甲骨やうなじ、黒いマットなボディースーツと白いポンポンによって装飾された小ぶりなお尻が、僕の胸の鐘をより早く突くように急かす。


 再び、ブラウンの瞳がこちらを覗く。

 同じ目線。金色の豊かで長い髪の毛の上に、拳の付け根から肘くらいの長さがある大きなウサ耳のカチューシャを乗せた天道寺さんは、にかっと健気に笑った。


「や、やっぱりここやらしいお店じゃないか!」


「失礼ね。そういうお店じゃないわよ。やらしいとかやらしくないとか、人を見た目で判断するのよくないと思うわ、鈴原」


「いや、こんなの見た目が十割でしょ! というかなんか羽織ってよ!」


「いいじゃん、鈴原ってば既婚者なんだし」


「それは未来の話であって、今の僕はただの高校生なんだから! だから、その、早くしまってくれよ! でないと……」


 でないとなに、と、悪戯っぽく口ずさむ。

 なにってと言い返そうとして僕は気づく。目の前の黒いバニーガールの目が、草食動物のそれではなくそれらを狩る側のものになっていることを。目を細め、その瞳の中に獲物を捕らえた黒い捕食者は、いきなり僕を部屋の隅に突き飛ばした。


 さまざまなウサギのぬいぐるみがうずたかく積まれた部屋の隅。

 白いボールのようなウサギの群れに顔から飛び込んだ僕は、すぐに起き上がろうとした。けれどもそんな僕のふくらはぎに冷たい感触が走る。フェイク・レザーだろう、すべすべとした肌触りが、穿いているジーンズ越しにも分かった。

 僕の脚に馬乗りになった何か、その影がゆっくりと僕の頭に降りてくる。汗で湿ったポロシャツ越しに、背中に合成皮革特有の冷たさを感じた。


 天道寺さんは僕の耳裏に息を吹きかけるように、か細い声を発する。


「ここはね女の子たちのネヴァーランドなの。訪れた女の子達は、現実の世界で何歳だろうと、ここでは少女になれるの。社会の汚さや生きる痛み、女としてのしがらみや絶望。そんなこと少しも知らない無垢な少女に戻って夢を見ることが出来るのよ」


「……なんだよ、それ」


「そういうお店ってこと。大丈夫、そういうサービスはしてないわ。あくまで、やってきた女の子――お姉さんたちと遊ぶだけの場所。こんな風に、自分の中の少女な部分を曝け出すような場所、この国にはどこにもないからね」


 うぅん、世界にもないかしら、と、言って天道寺さんは僕のうなじを突いた。


 柔らかな指の感覚に思わず身体が跳ね返りそうになる。

 同時に、僕の身体のどうしようもない男の部分が、押しつぶされた状態から反発しようとしているのを感じた。


 膨れ上がる感情と身体を押さえ込まれて息苦しくなる。


 千帆を裏切る訳にはいかない、そう必死に自分をなだめようとするが、身体に伝わる天道寺さんの体温や息づかい、甘い吐息にどんどんと精神が酩酊していく。

 ウサギの人形の海に沈みながら、僕は正気が遠のいていくのを感じていた。


「本当はお店は男子禁制なんだ。けどね、キャスト――私たちみたいにお客さまと遊ぶ少女の名刺があれば、特別に入ることができるの。ごめん、ちょっと貴方を罠に誘い込んだの。許してね、鈴原。けど、私たち、もう友達だからいいわよね?」


「……なにを、言ってるんだ、天道寺さん」


「貴方にお願いがあるってこと。ねぇ、鈴原」


 君って、童貞?


 そう訪ねながら、彼女はゆっくりと僕の脚の上から身体を移動させた。より強く、僕のどうしようもならない部分が緑色をしたカーペットに押しつけられる。


 苦しさと切なさ、そして、妻の親友に迫られるという背徳的なシチュエーションの中にあって、自分を見失いそうな僕の頬を、ねばっこい汗が流れていた。

 そんな男の劣情を汚れない指先で掬いとると、天道寺は水っぽい音をたてる。


 何をしているのか、何を僕に訴えたいのか。

 分かりたくもないが、理性を越えて本能がその音に反応していた。


「だったら私にくれないかしら。代わりに私も、貴方にあげるから。ね?」


「……何を言っているんだ。ふざけるなよ、天道寺さん」


「ふざけてなんていないわ。あぁ、言い方が悪かったのかしら」


「だから、いったい、何を」


「私の処女を奪ってちょうだい」


 お願い鈴原と、彼女は僕の名を呼んだ。

 こんなこと貴方にしか頼めないわと、切ない声で妻の親友は言った。


 けれどもそれは、僕を求める声ではなく、別の何かを求めていた。


 僕ではない何かを。


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