第23話 四条烏丸テレフォン・バニー・ガールでエロい

 千帆が左手に握っていたキリンレモンのペットボトルが、突然虚空に放り出されたかと思うと、祇園囃子の音にまじってカコンカコンと間延びした音を立てた。


 白線の内側。

 歩道の緩やかな傾斜にそって転がったそれは、側溝に落ちて停止する。

 緩く閉めていたのだろう。落下した際の衝撃で外れたペットボトルの蓋。こぼれ出す、透明の液体が泡をたてる。


 けれども、それを眺めて「あぁー、もったいないよぉー」なんて、泣きべそをかく幼馴染の姿は、この通りのどこにも見当たらなかった。


 なにが起こったのか。

 それを整理するよりも早く――。


「千帆!」


「千帆さん!」


 僕と相沢は、彼女が持っていたキリンレモンのペットボトルに駆け寄っていた。


 なにが起きた。

 いったい、千帆の身に何が起こったのか。


 分からない。まったく何も分からない。

 彼女の身に何が起こったのかも。そして、どうしてそれが起こったのかも。


 室町通り山王町。

 四条烏丸へと上るその途上で、千帆は突然その姿を消した。


「なんで! どうしていきなり千帆が! どうなってるんだ、いったいこれは!」


「センパイ! 落ち着いてください!」


「落ち着いてなんていられるもんか! 人が――人が突然、消えたんだぞ! 千帆が! さっきまで僕らと一緒に歩いていた千帆が、突然いなくなったんだぞ!」


「それでも、落ち着いてください、センパイ! 取り乱してどうなるんですか!」


「けど!」


 相沢が僕の掌を強く握りしめた。

 まるで、千帆のように消えてしまわないように、僕をこの場にとどめようとするように、彼女は僕を握りしめた。


 一瞬、僕は相沢がもしかして、本当はこの一連の不可解な体験の黒幕ではないかと疑った。彼女のこれまでの献身や、未来の彼女の苦悩を忘れて、相沢を疑った。


 彼女の恋の最大の障害である千帆が、この世界から姿を消したのだ。

 未来を変えるどころか、過去からその姿を消してしまえば、彼女の恋は成就するかもしれない。


 けれど、僕を見る彼女の顔には、僕と同じ不安と悲しみが満ちていた。

 彼女は、突然いなくなった、かけがえのない年上の友人を心の底より案じていた。


 そうだ、違う、相沢はそんな娘じゃない。

 彼女はこんな時でも、やはり周りをよく見渡していた。

 どんなに深い悲しみや絶望の中にあっても決してぶれない、己を律する強さが彼女の中にはあった。未来の彼女ならばともかく、高校生の彼女がそれを発揮したのはやはり生来の気質なのだろう。


 彼女は僕の身体を引き寄せると、両手でその左右の二の腕をそれぞれ掴んだ。

 千帆という大切な人を失って、もろくも崩れそうになる僕を、彼女はそうやってこの世界になんとかとどめようとしてくれているように思えた。


 深呼吸して、と、相沢が言う。

 彼女のかけ声に合わせて、僕は息を吸い込む。

 二、三、それを繰り返して、落ち着いた所で彼女はようやく僕から手を離した。


「センパイ。まずは、今いるセンパイの身の安全を確認しましょう。何か、妙な感じはありませんか? 身体に違和感のようなものはないですか?」


「……分からない。普通だと思うけれど」


「……じゃぁ、たぶん、センパイは大丈夫ですね」


「けど、千帆が。千帆が消えて」


「落ち着いてくださいセンパイ。まだ、千帆さんが消えたとは限りません。まず、あたしたちが千帆さんを覚えているじゃないですか。タイムリープもので、もし歴史が改変されたなら――千帆さんの記憶があたしたちにあるのはおかしいでしょう?」


「そう、だけれど……」


 迂闊だった。

 相沢が未来人でないと知り、千帆の言葉に従って、僕は完全に自分たちが置かれている異常な状態を軽視していた。


 僕たちがタイムリープしているということをすっかりと忘れて、暢気に祇園祭デートなんて、くだらないことにうつつを抜かしていた。


 そんなことをしている場合じゃないだろう。

 高校生になってデートするために、未来からタイムリープしてきたなんて、そんな眠たい話を本気で信じていたのか。もし、それが本当なんだとしたら、この神様って奴はとんだおとぼけやろうだよ。


 僕たちは何かしらの理由があって、ここに戻って来ているのだ。

 それこそ、千帆の存在が消えてしまうような、そんな危険性を孕んだ理由があって2007年の高校生の夏に戻って来ているんだ。


 なのに、こんな、バカみたいに浮かれて。


 投げやりになりそうな僕を、千帆の代わりに相沢がなんとか現実につなぎ止めてくれた。また、彼女は僕の手を強く握って、僕が祇園祭の人混みの中へ、千帆を探しに駆け出すのを止めてくれた。


 本当に、僕のようなバカには、もったいない後輩だ。


 ごめんな相沢。

 ほんとうにごめん。

 ろくに償いもできないっていうのに、君は――。


 感謝と後悔に揺れる僕に向かって、相沢は落ち着いた顔つきを向ける。

 僕と千帆の代わりに、急遽、この過去の世界の謎に立ち向かうことになった後輩は、何かを思いついたように、いいですかと僕に声をかけた。


「たぶん、千帆さんは大丈夫です。さっき言ったみたいに、あたしたちの記憶に千帆さんがあるということ。そして、千帆さんがここに居ないことに、納得できる理由が頭の中に上書きされていないこと。これら二つを考えると――千帆さんは消えたのではなく、あたしたちのいるこの過去の世界を抜け出たんじゃないでしょうか?」


「抜けた? 世界線を跨いだってことか?」


「……すみません、あたしはタイムリープモノそこまで詳しくないので、厳密な言葉の定義はわかりません。けど、たぶん、そういうことだと思います。千帆さんは、センパイのいるこの世界から、違う過去の世界に移動したんです。あるいは、千帆さんだけ、タイムリープを終えたのかも」


「……どうして?」


「それは分かりません。センパイと千帆さんでタイムリープの条件が違うのか、あるいは千帆さんが、違う未来を望んでもう一度タイムリープをやり直したのか。それは判別つきません。ただ、なんにしても、私たちは千帆さんに置いていかれた。誰かにその存在を消されたのじゃなく、千帆さんの意思や彼女にまつわる何かしらの理由でこの世界から居なくなった。だから私たちは、さっきまでの千帆さんのことを覚えていられるし、千帆さんについての記憶を失っていないんじゃないでしょうか?」


 少し、強引な理論には感じた。


 それは推測を多く含んでいる。

 素直に信じるのには勇気がいる話だった。


 そして、僕をこれ以上傷つけたくないという、優しさという名の希望的観測が理論の強度を下げているものだった。


 けれども、混乱する僕たちには、何かしらの行動の指針が必要だ。

 なにも分からないこの状況下で、闇雲に動くことは愚かでしかない。

 たとえそれがどんなに頼りなくても、どんなに怪しげでも、人間には行動するために信じられる何かが必要だった。


「分かった。相沢の言葉を信じる」


「センパイ!」


「そうだとして、いったい僕はどうすればいい? どうすれば、千帆を、そして僕たちの未来を救うことができる?」


 間違っていてもいい。

 まずは千帆が無事だということを信じて、やれることをする。


 僕は相沢の手を握りしめると、彼女の顔を真っ直ぐに見つめた。


 もう狼狽えたりしない。

 大丈夫だという想いを込めて彼女を見た。


 僕たちのことを心の底から案じてくれるできた後輩は、僕のそんな顔を見ると少し安堵した。けれど、その口から、次の行動を示す言葉は出てこなかった。


 だって、僕たちは結局、この世界の真実を一つだって見つけていない。タイムリープという理不尽な現象の根源を、少しだってこの手の中に握っていなかった。


 それでも、何か僕たちにできることがあるのだろうか――。


「……まずは、千帆さんを探しませんか?」


「千帆を?」


「これも仮定ですけれど、先ほどまでの千帆さんがこの世界からいなくなったのだとしたら、それを埋め合わせるための存在が、この世界に現れるんじゃないですか? あるいは、私と同じように、本来この世界にいるはずの、過去の千帆さんがこの世界に戻ってくるんじゃないでしょうか?」


「……あり得るかもしれない」


「もちろん、先ほどまでの千帆さんを埋め合わせる存在と接触することで、何が得られるかは会ってみるまで分かりません。ただ、それがどういう状態なのか、どういう風にこの世界が、千帆さんがいなくなったことを処理しているのか。それを知ることは、謎を掴むための糸口になるはずです」


 そう、相沢が言ったときだ。

 彼女が持っている手提げ鞄から電子音が流れた。

 16和音。懐かしい、ガラケーのためにアレンジされた少し前の流行曲。


 そんな、と、相沢が顔を青ざめたことで、僕はそれが誰からのものか察する。すぐに鞄から携帯電話を取りだした相沢は、背面の液晶ディスプレイを眺めて戦慄した。


 表示されているのは――西嶋千帆。


 消えた妻の旧姓。


「……センパイ」


「僕が出る。相沢、貸してくれ」


 相沢に任せることはできない。

 もしこれが、僕と絶交していた、過去の千帆だったとしても、そんなことに構っている場合ではなかった。


 これは僕と千帆の戦いだ。

 相沢に知恵を借りておいてなんだけれど、僕が戦わなくてはいけないことだ。


 逃げてはいけない。


 妻からも、この謎からも。


 僕は覚悟を決めると、震える手で相沢の携帯電話を握り込む。そして、昨日彼女に貸して貰った時の要領を思い出して、通話ボタンを押下した。


「……もしもし?」


 沈黙。


 僕の言葉に、電話の向こうの何かは答えなかった。

 もう一度、声を出そうとして、何かを問おうとして、僕は少し考えた。


 考えて――。


「千帆、なのか?」


 僕は消えてしまった妻の名を呼んだ。


 はたして、それに対する電話の向こうの人物の応答は――。


『……ピョン!』


 意味不明の言葉。そして、天地をひっくり返るような、目眩だった。

 いや、違う、これは、実際に――。


「なんだ、これ? 世界が、回って?」


「センパイ! これ、いったい! 何が起こって! 視界が……!」


 相沢の声がする。

 内容から、彼女もどうやら僕と同じ状況に陥っているようだ。


 いよいよもって、まったく意味が分からないまま、僕はその意味不明な世界のシェイクに身も心も揺さぶられる。なすがまま。いや、人の身ではとても抵抗できない、何か得たいの知れない力がそこに働いていた。


 やがて、僕の身体と視界を襲う、正体不明の力が収まったかと思うと。


「……えっ? 南茨木駅?」


 僕は阪急南茨木駅、線路下に通っている薄暗い歩道の上に倒れていた。


 時刻は夜。

 だが、妙に静かだ。


 その視線の先、黒いアスファルトの上。

 暗闇の中に、微かに差し込む月明かりに照らされて、立っている何者かのシルエットが見える。


 真夏なのに白いパーカー、そして、闇に溶けそうな色味の細い脚。

 たぶん、女性。それも、華奢な女の子。


 彼女は、頭を覆っているフードの下から、こちらを興味なさげに見つめている。


 彼女がパーカーのフロントポケットから懐中時計を取り出した。時刻を確認するとまるで待っていた時間がきたとばかりに、おもむろにフードを後ろへと流す。


 白い頭巾に覆われていたそこから出てきたのは――金色の髪、完璧な形の顔、ブラウンの瞳、そして、闇の中でも輪郭の分かる黒いウサギの耳を模したカチューシャ。


 バニーガール。

 白いパーカーの中の少女は、黒のバニーガールだった。


 けれども、なによりも僕にとって衝撃だったのは、その少女が――。


「……なんで? なんで、天道寺さんが? えっ?」


 僕の妻の親友であり、僕もよく知っている女性。

 その高校時代の姿に、そっくりなことだった。


 彼女の姿は、天道寺文に間違いなかった。


 そう確信した時、また、バニーガールがあのフレーズを口ずさむ。


「ピョン!」


 それっきり、また僕の視界はシェイクされる。

 そして、今度はより深く、より暗い所に、僕の意識は落ち込んでいった。


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