第22話 夏祭りのゆめまぼろし

 祇園祭。


 休日ということもあって祭りの中心である四条烏丸は人でごった返していた。

 コンチキチンという祇園囃子が、波のような人の群れにもかかわらず絶えず響いており、うだるような暑さの真夏の京都と人々に活気を注ぎ込んでいるようだ。

 道行く人たちは誰も彼も祭りの空気に酔っており、大通りから上下に伸びる通りに入っては、目玉である山鉾や出店の前に群がっていた。


 たいそうな賑わいである。


 とはいえ祭りの本番は宵々山と宵山、そして山鉾巡行のある前祭と明日以降。

 また、本格的に人が集まってくるのは、大通りを歩行者天国にする18時――つまり夜になってからである。


 これらはまだ、本番前の予行練習のようなもの。


 とはいえそれがなかなかどうして侮れない。


 僕と千帆、そして相沢の三人は、そんな祭りの賑わいの波の中に混じると、そのハレの日の空気にどっぷりと浸かった。

 親に前借りしたお小遣いと、辞書の間に挟んでおいたお年玉を惜しげもなく使い、僕たちは好きな物を食べ、遊び、時々立ち止まり休んでは、京都の町を練り歩いた。


 僕たちは京都に住んでいた――というかこれから住むのだけれど――こともあり、何度か祇園祭に来たことがあった。そのため、祇園祭の楽しみ方はよく知っている。はじめて祇園祭に来た相沢に、山鉾を案内したりだとか、名物をたべさせたりだとか、いろいろと解説して回っているうちに、あっという間に時間は過ぎた。


「この頃はまだ、宵々々山でも歩行者天国やってたんだな」


「だねぇー。今じゃ考えられないねぇー」


「え? 未来だと宵々々山は歩行者天国じゃないんですか?」


「そうだねぇ。いつからだったかは覚えてないんだけれど」


「時代の流れよねぇ。出店も宵々々山なくなっちゃったし」


「そんな。ちょっとそれは、さみしいですね」


 そうかもしれない。

 けど、街も人も変わっていくものだからねと、僕は相沢に諭す。


 変わらないものなんてないのだ。

 僕も、千帆も、そして相沢も、時間と共にどこかで何かが少しずつ変わっていく。人間の集合体の街もそれは同じ。僕たちはそんな些細な変化を、可能な範囲で許容して受け入れていくしかない。それが人生であり生きることなのだ。


 真面目で頭が痛くなるようなことを言ったからだろうか、ちょっと重苦しい空気が僕たちを包んだ。近くにあったボールすくいを指さして、競争しよう――なんて咄嗟に誤魔化す。まだ僕は人に人生を説けるほどに成熟した人間ではないみたいだ。


 とんだ赤っ恥である。

 もう少し、日が翳っていれば誤魔化せただろう。いかんせん、千帆と相沢が「やらかしましたね」という視線を送ってくるので、隠せきれなかったようだ。


 そんなこんなで。


 時刻は、17時を回ろうかという頃。

 僕たちはほぼ半日、祇園祭を楽しんだのだった。


 道の端にある縁石やポールに腰掛ける。

 いよいよ祭りを楽しんだ僕たちは、帰る前にちょっと一休み。

 自販機で買ったジュースを飲みながら、しばし何もせず祭りの空気に耳を傾けた。


 いよいよ本番の夜に向けて活気を取り戻しつつある四条烏丸。

 祭りの目玉である山鉾の周りには、昼頃の倍は人がひしめいている。人の波はいよいよその濃さをまして、何か巨大な生命体のようにも見えた。


 そんな四条烏丸の光景を遠目に眺めて一言。

 

「あの人混みの中に今から突っ込んでいくのはちょっと勇気がいるよね」


「もぉーっ、くたくただよぉーっ! あーちゃーん、おんぶしてぇーっ!」


「センパーイ! おんぶしてくださいよぉー!」


「君ら、ほんと今日は僕に容赦ないよね?」


 まぁ、今日は罰ゲームであり償いの日でもある。

 このデートで彼女たちに何を言われても、僕にそれを拒否する権利は基本的に存在しない。なので、これはおんぶするしかない流れかな――。


 半ば本気で思ってから、僕は自分の脚が棒みたいなこと、そして、体格的に千帆をおんぶするなんて、今のヒョロチビガリな僕にはできないことを冷静に悟った。


「残念ながら、君たちの彼氏にはそんな筋力がないんだ、すまない」


「えー! ちょっとあーちゃーん! それはひどいよぉー!」


「そうですよぉ! 男らしくないですよぉ! 今日は一日、あたしたちの彼氏になってくれるんじゃなかったんですか! こんな、ヘトヘトになった自分の彼女に、真顔で歩けって言うような鬼畜彼氏、あたしは嫌ですよぉ!」


「無茶いうなよ、ほんとにもう。僕もヘトヘトなんだからさ」


「郁奈ちゃーん、いいー、これがぁー、自分勝手な男って奴よぉー? こういうのに限ってぇー、自分のことをー、上手だと思い込んでるのぉー!」


「酷いですね! 許せませんね! この下手くそ!」


「酷いのは君たちの下ネタだよ!」


 どうしろって言うんだよと怒鳴る僕に、悪い笑顔を向ける千帆と相沢。すると、彼女たちは少し顔を見合わせてから、何かを話し合いはじめた。

 またろくでもないことを考えているらしい。


 はいはいわかりましたよ。

 今日は一日、僕は君たちの彼氏でおもちゃね。


 それならとことん付き合いますよ。

 青少年の取り締まり事案にならない範囲で。


 空になったペットボトルを、僕は自販機の前にあるゴミ箱へと捨てに行く。

 へとへとだ。本当にへとへとだが、まぁ、悪い一日ではなかったように思う。


 こういう日も、あっていいかもしれないな……。


 そう思った時、ひんやりとした感触が、後ろに回していた僕の手に伝わった。

 反射的に振り返ると、僕の手を握りしめて浴衣姿の女の子が立っている。


 水色。

 水面の中を白い金魚の影法師が泳いでいるような浴衣の柄。


 狭い肩幅と低い背丈を包み込むそれは真新しく、つい最近新調したのだろう事がうかがえる。はたして、これを着て彼女が、誰とどこにいくつもりだったのかは分からない。ただ、今日、僕とのデートに選んできたという事実だけを知っている。


 相沢は、さっきの僕もかくやという感じに顔を赤らめると、おずおずとその小さな手を僕の甲に重ねた。


 いつものように、僕をからかっているようには見えない。

 その証拠とばかりに、彼女の見開かれた瞳には四条烏丸にビルの合間を縫って差す太陽の光が映り込み、まるで夜空に瞬く星のように静かな光を放っていた。


「……センパイ、あの」


「……相沢?」


「……よかったら、その、駅まで手を繋いでいただけませんか?」


 そんな真剣な顔をして、男にねだることがそんな些細なことでいいのだろうか。

 僕は先ほど彼女に向かって吐き出した言葉を少し後悔した。こんな風にねだられたなら、僕は相沢のためになんだってしてあげるべきじゃないのだろうか。


 もちろん、僕の心は千帆の元にあり、どう間違っても相沢の下に転がり込むことはない。けれど今日僕は、彼女の人生においてただ一度だけ、たった一日だけ許された恋人になったのだ。


 なら、彼女の些細な我が儘をなんだって聞いてあげるべきだったのではないか。

 それが彼氏の役目ではないかと、激しい後悔に飲み込まれた。


 千帆の方を見ると、彼女は黙って僕たちのやりとりに頬を向けている。

 可愛い後輩が、自分と一緒にいることで、一日限りの彼氏に対して遠慮していることを、彼女は気づいていたのだろう。だから彼女は今日という日の終わりに、すべて不問にするとでもいいたげに、その視線を僕たちから逸らしたのだ。


 ありがとう、千帆。

 僕と相沢のためにここまでしてくれて。


 嫉妬深い彼女が、このようなことを言い出すことが異例だということを僕は知っている。彼女は決して、僕に触れようとする女子を許すことはない。

 今日に至るまで、彼女はそんな女性達を例外なく追い払ってきたし、僕のことを愛らしい素振りと言葉で束縛してきた。

 それを嫌とは思ったことはないが、間違いなく事実ではあった。


 そんな千帆が、ここが過去の世界とはいえ、相沢にだけはそれを許した。

 それだけ彼女にとっても相沢はかけがえのない友人であり、そして、おそらくその恋の苦しみを分かち合うことができる、相手だったということだろう。


 千帆の有沢への想いの深さを、僕はまざまざと思い知らされた。


 応えてあげてと、妻は無言で語っていた。

 叶えてあげてと、彼女は僕に願っていた。

 許してあげるからと、女はさみしく横顔で微笑んでいた。


 いいよ、と、僕が呟くにはそれで充分だった。

 僕は相沢の小さな左手を優しく握りしめる。吐息に合わせてかわいらしく震えるその指先を、また僕の無神経で傷つけないよう慎重に指を絡めた。


「分かった。手を繋いで駅まで行こう」


「……ありがとうございます!」


「他に、まだ、僕にして欲しいことはないかい? 遠慮せずに、言ってごらんよ?」


「……え?」


「いいからさ。ほら、今日は祇園祭だから。特別な日だから」


 正確には宵々々山。

 ちっとも特別な理由になんかなっていない。

 自分の想いを表現するのに臆病な、相沢をたきつけるための口実にしては、ちょっと弱い気もした。けれど、よっぽど僕と手が繋げるのが嬉しかったのだろうか、彼女はもうてんで舞い上がってそんなこと分からない様子だった。


 こんなにも僕を想ってくれていたのか。

 男として、それはとても嬉しい。


 それに気づいてあげられなかったのは悲しくもあり、妻を選んだことが申し訳なくもある。けれど、そんな感情を今日は忘れる。


 今日一日だけは、僕は西嶋千帆の旦那ではなく、高校二年生だった鈴原篤なのだ。

 そして、相沢郁奈の彼氏なのだから。


 相沢は何度か視線を上下に振って考え込み、それからようやく決心したように僕の方を向いた。さっきより、また少し、赤みと喜色が増した頬が僕に向く。

 いい笑顔だった。彼女によく似合う笑顔だった。


「じゃぁ、名前で呼んでもらっていいですか?」


「いいよ、郁奈?」


「あ、えっと。そこは、その、郁奈ちゃんで」


「遠慮しなくてもいいのに」


「あ、や、違うんです! そう、呼んで欲しいんです! 個人的に!」


「……分かった、郁奈ちゃん」


「……はい! 篤先輩!」


 そのとき、千帆が少しだけこちらを見た。

 どんなに空気になろうと徹しても、その台詞にだけは反応してしまったようだ。


 何が彼女の琴線に振れたのか。


 たぶん、呼び方だろう。


 だって、心底うらやましそうに、彼女は僕たちの方を見たのだから。


 そうだよな。

 名前に先輩を付けて僕を呼べるのは、郁奈だけだもんな。


 ずっと、君は僕のことを、そう呼べるようになりたかったんだろう。

 過去の君にとっては、数ヶ月のことかもしれないが、未来の君にとっては十数年間。ずっと、ずっとそう呼ぶことを耐え続けてきたのかもしれない。


 センパイなんて小生意気な呼び方、ずっと続けていたのはそれだったのか。


 僕の勝手な――そしていささか童貞っぽい――解釈ではあるけれど、そう思ってしまうと、郁奈のことがとてつもなく愛おしく、そして大切に思えた。


 郁奈が僕の指先を強く握りしめる。

 並んで僕と郁奈はこの儀式が終わるのを待ってくれている千帆の方を向いた。

 ありがとうございますと、僕の隣の恋人が満面の笑みを向ければ、一時的にその場所を譲った幼馴染は、少しさみしそうに笑った。


 透明なペットボトルに黄色い帯が入ったラベル。

 先ほどまで彼女の喉を潤していたキリンレモンを手にして、千帆は僕たちに背中を向ける。じゃぁいこっかーと、言った彼女の左手に握られて、道路側に放り出されるそれに僕は千帆のなんとも言えないいじらしさを感じた。


 けれども彼女は、きっと駅に着くまで振り返らないだろう。

 一度言ったことを彼女は絶対に守る。


 そういう女だ。


 祭り囃子がいよいよ濃くなり、それに合わせて人の声も大きくなる。そんな、祇園祭という特別な夜の空気を生み出す祭りの中心地に向かって、僕たちは歩き出した。


 ほんの、それは一瞬だった。


 雲が遮ったか、それとも飛行機か、あるいは皆既日食がこの日、なんの前触れもなく、天文学の原理を否定して起こったのか。

 一瞬、視界が黒く染まった。


 次に僕が目を開けた瞬間。

 世界は相変わらず祇園祭の熱気に包まれていて、昼から連綿と続くコンチキチンの音が耳に響いていた。


 けれども、そこに、千帆の姿はなかった。


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