第陸章 錆ついていたのは

 四日後。

 私は訓練場にて長年愛用してきた樫製の棍を振るっている。

 怪我が元で現役を退いてから早十年。自己鍛錬こそ欠かさなかったが、それでは現場に出るには心許ないので訓練場を利用して心身共に鍛え直しているところだった。

 あの日の翌朝、私は副ギルド長に談判して対怪盗パーティの一員に加えて頂いた。

 ギルドのみんなは驚いていたけど、副ギルド長は私の額に指を触れて魔力を流し、


「うん、怪我が原因で引退したって聞いていたけど、その傷も完治しているみたいだし、参加自体は歓迎するよ。ただし、ブランクだけはちゃんと埋めて貰わないと困るからね」


 と、念押しされたものの同行を許可して頂けた。

 それにしても流石は世界でも有数の治療術師、相手の体に魔力を流しただけで健康状態を知る事ができるとは……


「おら! 鍛錬中に考え事たァ余裕だな!」


「はぐっ! 申し訳ありません!」


 そして私の再修行に付き合って下さっているのがギルド長だった。

 何だかんだ云っても現役・退役も含め、ギルド最強である剣士直々に稽古をつけて頂くのはありがたいし畏れ多い事である。

 しかし、逆に云えばそれだけの事をしなければいけなかったのだ。


「さっさと立ちゃあがれ! 実戦じゃ休ませてくンねぇぞ!」


「は、はい!」


 まずはなんと云っても体力の衰えであろう。

 いくら自己鍛錬をしていると云っても、飽くまで趣味や健康法の域を出ていなかった私の体力は、加齢を考慮しても現役と比べもようもないほど衰えていたのだ。

 ついでに白状すれば、現役時代の防具を物置から引っ張り出して着てみたところ、お腹周りが苦しくなっていたのである。

 プロポーション、特に腰のくびれの維持には命をかけていたつもりだったけど、やはり事務職に就いてからの十年間はボディラインを崩すには十分な時間だったようだ。

 もっと白状すれば、何と云うか、若さ故だったと云うか、当時の防具とセットだった肌着はレオタード状だったのは良いとして、こんなのを着ていたのかと愕然とさせられるぐらい切れ込みがキツいハイレグだった上に、後ろに至ってはお尻が完全に見えていた。

 いや、昔から生きの良い、悪く云えば粋がった冒険者は総じて露出度の高い装備を好む傾向にあったのだ。それというのもガチガチに防御を固める事は自身の動きを妨げると考えられていたのもあるが、鎧の防御力に頼るのは未熟者、臆病者の証拠という風潮が冒険者達の間にあって、必要最低限の防具で戦う事が粋とされていた。

 御多分に漏れず現役時代の私もそうした流行りに乗って自分から防御力を落としていった愚か者の一人であり、エスカレートしていくうちに、この通り痴女の如き有り様を晒して世界中を肩で風を切って練り歩いていたのだ。

 そんじょそこらの男に負ける私ではなかったが、今にして思えば、よくも現役を退くまで無事でいられたものだと我ながら感心する。私が引退を決意する切っ掛けとなった大怪我を負わせた対戦相手が純粋に己を高める事に命を賭けるストイックな武芸者でなかったらあの後どうなっていたか背筋が凍る思いだ。

 とまれ、着てしまった以上、処理をすることになったのだが、これがまた情けない気持ちにさせられたのである。

 何の処理かですって? 察して頂戴……

 余談だけど、新しい防具は兎も角、戦闘用の肌着だけでも新調しようと思ったけど、どこの防具屋も仕立屋も予約がいっぱいで、とても怪盗のアジトへ乗り込むまでには間に合いそうもなかった事を明記しておく。


「何やってやがる! 攻撃が始まったのを見てから躱せる訳ねぇだろ! 構え、腕の振り、相手の目線、それらの情報を統合して予測を立てねぇと防御はできねぇよ!」


 次に自覚した衰えは、動体視力に始まり、敵の動作予測、状況把握能力、空間認識能力などなど戦闘に必要なスキルが物の見事に錆び付いていたことである。

 先程からギルド長の木剣の動きが読み切れないばかりか、切っ先だけを目で追い続け、敢えてばらまかれた小石に足と取られて躓くなど、およそ現役時代では考えられないミスを連発していた。


「テメェの棒術は「突き」「払い」「殴る」を組み合わせ、状況に合わせて変幻自在に姿を変えるのが極意だろうが!」


 ギルド長に云われるまでもなく、私は何度も攻撃パターンを変えて攻めるのだが、その悉くを弾き返され逆に撃ち込まれる始末だった。

 現役時代では千変万化する私の棒術に敵は翻弄され、気が付けば『幻惑』のシャッテと異名を取るまでになっていたのだが、今ではギルド長の木剣に私の方が翻弄されている。


「泣いてる暇あるか! テメェは親父さんから受け継いだ棒術を百姓武術と馬鹿にされンのが嫌で究めたンじゃねぇのか? それが今じゃ百姓武術どころか腰抜け武術だろうよ! 『幻惑』のシャッテが聞いて呆れらぁ!」


 私は溢れる涙を拭ってギルド長に打ちかかるが、とうとうギルド長は木剣を交えることなく無造作な前蹴りで迎撃し、私はそれをまともに受けて倒れ伏してしまう。


「やめだ、やめだ! これじゃいつまで経っても現役時代に近づきゃしねぇよ!」


 そして、ついにギルド長は匙を投げたのだった。


「テメェ、巫山戯るのも大概にしろよ? お前はいつから相手を気遣いながら戦えるほど強くなったンだ?」


「ど、どういう意味です? 衰えたと自覚しているからこそ稽古しているというのに……」


 意味が分からずギルド長に問うと、胸倉を掴まれ持ち上げられてしまった。


「自覚がねぇンじゃそれまでだな。今度の作戦は辞退しろ。この事は俺からクーア君に伝えておくから後の事は心配すンな」


 ギルド長が手を離すと、私は無様に尻餅をついた。


「寛猛自在……これで分からにゃあテメェはこれまでだ」


 ギルド長は木剣を肩に担ぐと、振り返る事無くギルドの事務所に入っていった。


「寛猛自在……この言葉の意味は……?」


 私は膝を抱えると子供のように泣きじゃくるのだった。









 翌日。

 私は昨日のショックから立ち直れずにいたものの、何とか書類を片付けていた。


「あの事務長? ここの決済が間違っているみたいなんですけど?」


 否、そうでもなかった。

 検算を頼んでいた部下が書類を遠慮がちに差し出してきた。

 いけない。これで今日は三回目のミスだ。


「事務長……今は大変な作戦を抱えて大変なのは分かりますが、お体が思わしくないようならお休みになられた方が宜しいのでは?」


「ありがとう。でも大丈夫よ。私だって人間なんだもの、失敗はするわよ」


 笑顔を作ったつもりだったけど、どうやら失敗に終わったらしい。

 私の顔を見た事務員が痛ましそうな顔をしていたからだ。


「副ギルド長、大丈夫ですかね? あの人が前線に赴くのでしょう? 強いと聞いてはいるのですが、どうにもあの見た目がねぇ……背丈は子供並だし、目こそツリ目勝ちだけど全体の作りは女の子っぽい柔和な童顔だし、そもそもあの人って治療術士でしょう? 本当に凄腕の戦闘員なんですかね?」


 そう、昨晩、ついに怪盗フォッグ&ミストの居場所が判明したのだ。

 やはり副ギルド長の予測通りアジトは変えていなかったのだが、周囲を覆っていた霧が俄に晴れ現われたのは、要塞というべき武装された砦だった。

 元々は没落貴族が捨てた屋敷を乗っ取ったものらしいのだが、今や窓という窓から大砲が顔を覗かせて、屈強な武装集団が守りを固めているらしい。

 ギルド長の見識では、フォッグとミストの名を出しているのにランクの低い冒険者を送り込んでくるような冒険者ギルドでは副ギルド長が読んだ思惑は通らないと踏んで実力行使に出たのだろうとのことだった。


「作戦放棄。聖帝陛下に軍の派遣を要請して。負けを認めて僕とギルド長が土下座すれば溜飲を下げると思うから、僕が王宮に連れ戻される心配はないよ」


 そうは云っていたけど、話に聞く限りではそのような保証はどこにもなかった。

 しかし軍が出るとなれば副ギルド長の安全は約束されたようなものだろう。

 そう安堵する私だったけど、午後になって凶報がもたらされるとは思いもよらなかった。


「邪魔するぞい」


 お昼休みも終わって、さあ、午後も頑張ろうという時にとんでもないゲストが現われた。


「だ、大僧正様? どうしてここへ? 護衛の方々は?」


 狼狽する私達への大僧正様のお返事は、


「喝っ!」


 というありがたいものだった。


「シャッテ=シュナイダー!」


「は、はいっ!」


 思わず私は直立不動の体勢で返事をする。


「愚か者め! クーアを見殺しにする気か!」


 大僧正様が何をおっしゃっているのか分からず私は呆然としてしまう。


「パテールの奴め。スチューデリア軍が来るまでの時間稼ぎをクーアに命じおった。軍隊が到着するまで盗賊共に悟られぬよう囮になれとよ!」


 何故、副ギルド長が? あの人は確かに絶大な魔力を持つ魔法使いだけど、百戦錬磨の武装した盗賊に囲まれては一溜まりもないはず。


「大方、ビェードニクル伯爵領での一件を根に持ってのことであろう。ギルド長には待機している冒険者達を下がらせるよう命じておる。表向きは軍が到着した後、戦闘の邪魔になると申しておるが、裏ではクーアの助太刀をさせまいと目論んでおるのぢゃろう」


 そ、そんな……副ギルド長が死ぬ?

 私は目の前が真っ暗になっていくのを感じた。


「戯けっ! 気をやっておる場合ではないわ! 良いか? お主は最早冒険者ではない。よって聖帝の命に従う謂われはない。そこが落としどころぢゃ! 実を申せば現役時代のお主を愚僧も存じておったのよ。昔は百姓武術と馬鹿にされておったが、今こそあの変幻自在の棒術が必要な時なのぢゃよ! あの外道共を成敗し、クーアを救えるのはお主だけぢゃ!」


 私だけが副ギルド長を救える?

 僅かに芽生えた希望だったけど、私はその芽を育てる事が出来ない。


「私の棒術はギルド長に見限られています。そんな腑抜けの私が副ギルド長を救うだなんて無理に決まっているじゃありませんか!」


 俯く私に大僧正様は怒るだろうか?

 しかし、私の頭の上に優しく乗せられた温もりにハッと顔を上げる。

 あの日のように大僧正様が微笑みながら私の頭を撫でて下されていた。


「お主は腑抜けてはおらぬ。現役から退き、戦いから離れた事でお主は優しさを手に入れたのぢゃ」


「優しさ?」


 大僧正様は力強く頷かれた。


「若き頃のお主は棒術を天下一の武術にせんとギラギラしておった。それが悪いとは云わぬが、非情しか持ち合わせぬお主は危なっかしくて見てはおれんかった。しかし、今のお主は怪我で引退を余儀なくされた事で挫折を知り、人の心の痛みが分かるようになった。それがお主の優しさの根源である」


 確かに父さんから伝授された棒術を天下に知らしめる野望が潰えた時は絶望したけど、それからは同じ絶望を知る者達の痛みが分かるようになっていた。

 現役時代の私は敵を只打ちのめす事しか頭に無かったのに……


「ぢゃが、その優しさがお主に無意識のブレーキをかけさせておるのもまた事実よ。ギルド長はきっと本気になって打ちかかる事が出来ぬお主が歯痒かったに違いない」


 そうだったのか。

 思えば、ギルド長は真剣に私の稽古に付き合ってくれていたのに、私は無意識とはいえ命中の寸前に勢いを殺すなんて武術家として無礼な事をしていたのだと思い至った。


「怖いか? 人を傷つけることが」


「怖いです。大きな傷によって夢を打ち砕かれた私は……私の一撃で人の夢を破壊する事になるのではと恐ろしくなったのです」


「怖いか? クーアを、大切な人を失うことが」


「怖いです。副ギルド長は只厳しく部下に接する私に、厳しいだけじゃ人はついてこない。けど優しすぎても堕落させると教えてくれました。あの人のお陰で私は恐れられるだけでなく慕われるようになりました」


 そこで私は漸くギルド長の言葉の意味を悟った。


「寛猛自在……そうか! ギルド長が何をおっしゃりたかったのか分かった!」


 そう、私が引退から最も錆きっていたのは精神、心の在り方だったのだ。

 人は厳しすぎても付いて来ないように、優しさのみでも駄目なのだと副ギルド長から教わったのにその真意を、極意を得ることはなかった。


「人の貴賤を問わず優しくするのも美徳であるけれど……哀しいかな。その優しさに付け込むのもまた人。父さんの棒術はそんな外道から弱き人々を、そして自分をも守る為の武術だったのに、名声を追い求めるあまり私はその極意を忘れていた」


「さて、お主はどうしたい? 何をすべきか?」


 決まっています。


「我が家に伝わる棒術をもって悪しき輩を粉砕し、守りたい人を救います!」


「迷いは去ったな。お主の大悟、この大僧正マトゥーザが見届けた!」


 私はスーツとスラックスを脱ぎ捨てる。

 未練がましく下に例の肌着を着けていたのが皮肉にも手間を省かせてくれた。


「事務長、行かれるのですね?」


 プロテクターを装着しながら私は頷く。


「ええ、やっぱり体調が悪いから早退させて貰うわね」


 ぶんと力強く棍を振るうと事務員達ばかりか、この場にいる冒険者達からも歓声が上がった。


「ほっほっほっほ……確かにお嬢ちゃん、もといシャッテ殿は病に罹っておる。どんな医者でもどれほどの名湯といえども治せぬ病にのう」


 大僧正様……やはりこの御方には敵わないみたいだ。


「さあ、行くか! 怪盗を名乗る外道共の元へ送って進ぜよう」


「はい! 今、行きます! 待っていて下さい、クーアさん!」


 私は現役時代でも感じ取ることがなかった躍動する肉体をはっきりと自覚する。

 私の動きを妨げていた錆は今や完全に落ちていた。

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