第参章 ヘルト・ザーゲ・前編

 あまりの事に目を丸くする私に大僧正様はまるで子供のようにお腹を抱えて笑われた。


「影を媒介にして、影から影へと瞬時に移動する『影渡り』の秘術ぢゃよ。元々は魔族が操る魔法であったが、流石はクーア、とうに自分の物としておったか」


 私はいつ皿になった目を元に戻せるのだろうか。


「魔族ですか? 五十年前に地上へと現われて人々を恐怖に陥れた、あの?」


「そうぢゃ。クーアはな、五十年前、異世界より召喚された勇者を助け、魔王に戦いを挑み、魔界へと追い返した魔法使いだったのぢゃよ」


「副ギルド長が勇者様の仲間……って事は英雄じゃないですか!」


「そうなるのぅ」


 そうなるのぅ、って……


「かく云う愚僧も勇者パーティの一員だったのぢゃよ。あやつと愚僧は戦友、故に公式の場でない限りは五分の付き合いを続けておるのぢゃ」


 だからこそ副ギルド長は大僧正様にあれだけ気安い態度を取っていたのか。


「もっともクーアは初めから仲間だった訳ではなかった。お嬢ちゃん、確かシャッテと云ったかの?」


 お嬢ちゃんて、私はもう二十八歳なんですけど……


「愚僧やクーアから見れば十分お嬢ちゃんぢゃよ」


 快活に笑う大僧正様に私の頬が熱くなってきたのを感じた。


「話を戻そう。シャッテ殿はヘルト・ザーゲという書物を読んだことはあるかの?」


 ヘルト・ザーゲ。

 この世界の冒険者及び冒険者に憧れる者達にとって聖書に匹敵する物語だ。

 五十数年前、突如現われた魔王の侵攻に苦しめられていた人々によって最後の希望として異世界より召喚され、激戦に次ぐ激戦の末に魔王と魔族の軍勢を魔界へと追い返すことに成功した勇者様の冒険を、当時の日記や各地に残された伝説を元にして英雄譚にしたものである。

 幼い頃、父より買い与えられてから表紙が擦り切れるまで何度も夢中になって読み返し、寝る時も枕元に置いていたくらい大好きな物語だ。


「ならば話は早い。そなたはヘルト・ザーゲの第三巻と第四巻の内容を覚えておるかな?」


 当然です。

 この全二十五巻からなる壮大な物語を私は初めから最後まで諳んじてみせる自信がある。

 第一巻は魔王が現われ地上侵攻を始めてから、神官達が神託によって異世界より勇者様を召喚するまでが書かれた序章と、魔王が存在しない平和な世界からいきなり我らが世界へ召喚されて混乱の極みにあった勇者様が、周囲の説得と現在進行形で迫る魔界の軍団を目の当たりにした事で危機感と使命感に目覚め、神から与えられた聖剣を手に取って旅立つまでを書いた第一章が収められている。

 第二巻は元いた世界とは異なる文化に戸惑う勇者様の様子がユーモラスに描かれている前半部と、王宮から護衛として派遣されたものの、得体が知れぬと勇者様を認められない騎士達との軋轢を生々しくスリリングに書かれた後半部のギャップが読み手を戸惑わせる。

 しかも、その護衛として参加していた騎士の一人が若かりし頃の大僧正様であったというのだから驚きを隠せない。

 そしてラスト、魔族に与する豚面の亜人オークの集団が街を強襲するが、勇者様の機転によりオーク達を追い返したことで騎士達との和解の糸口が見出されて、読者は胸を撫で下ろす仕組みだ。

 勿論、実話が元になっているが、多かれ少なかれ脚色が混じっているだろうから実際にはもっと苦労されたであろう事は想像に難くない。

 そして大僧正様の示す第三巻は、時の聖帝が発令した魔女狩りによって起こる悲劇が話の根源にあった。


「くだらぬわい。待てど暮らせど魔族を退けられぬ事実に民衆の怒りが自分に向くのを恐れた聖帝が、魔王の眷属でありながらも心穏やかで人間に対して敵対感情が薄い魔女達に矛先が向くよう仕向けたのが魔女狩りの真相よ」


「大僧正様……もしかして怒っていらっしゃいますか?」


「ああ、怒るとも! アレが原因で死ななくてもよかった者が幾千、幾万と出たのだからのぅ。魔女狩りに遭った者は冤罪も含めて三万人にも及ぶ。否、冤罪と云えば魔女達とて罪は無かった! そして、その怨念が後に云うユームの魔女戦争を引き起こしたのぢゃ」


 魔女の谷と呼ばれる鳥も通わぬ死の谷にユームという名の魔女が暮らしている。

 彼女は聖都スチューデリアの大臣と恋に落ち、身分違いから結婚こそ出来なかったものの沢山の子供に恵まれ平和な日々を過ごしていた。

 しかし、平和な時間は長続きせず、彼女は魔女狩りのターゲットとなってしまう。

 子供達とその父親の命と引き替えに出頭を決意するユームだったが、その決意も虚しく、逆にユームを救わんと直談判をした大臣が聖帝の怒りに触れて処刑される。

 更には父と共に母親の助命を訴えていた長男と次男も縛り首にされてしまったことで魔女と残る子供達は聖都スチューデリアへの復讐を決意するのだった。


「その魔女ユームの三男こそがクーアだったのぢゃ」


「何ですって?」


 衝撃の事実に私はまともな思考が出来なくなってしまった。

 いや、今日はサラの一件からこっち、ずっと白昼夢を見ているかのようで自分自身が何とも頼りなく感じている。


「ヘルト・ザーゲでは復讐を決意しながらも、思いつく作戦に必ず穴があって失敗を繰り返す魔女一家と勇者の戦いがユーモアたっぷりに書かれておるが、実際は悲惨で酸鼻極まる凄まじい戦いであったわ」


 大僧正様のお話では、民衆から罵声と石礫をぶつけられながら首を絞められて死んでいく兄達を助ける事ができず、斬首され晒された父親の首すら風化するまで取り戻す事が出来なかった副ギルド長の怒りと絶望は母親以上であったという。

 確かにこれでは星神教に帰依することなんてできやしないだろう。

 むしろ嫌悪を抱くに留まっている副ギルド長に賛辞の言葉を贈りたいくらいだ。


「クーアは幼い頃から魔法の才能を開花させておってのぅ。いつも母親から魔法の手解きを受けていたそうぢゃ」


 魔女達の集会・サバトにも小さい頃から参加していた副ギルド長はユームの魔女仲間から猫可愛がりに可愛がられていたらしい。

 彼が普段から使っている『浮遊』の魔法も、魔女から伝授された箒で空を飛ぶ技術の応用であるという。


「恐ろしい事にサバトに出席していた魔王からも孫のように可愛がられていたそうでな。当時のクーアは魔王の事を、お菓子とおもちゃをくれる優しいお姉さん、と認識しておったそうぢゃよ」


 魔王は勇者様や聖職者を堕落させる為、見目麗しい両性具有の魔神の姿で現われると伝承に記されているが、幼かったクー坊(魔女達からの呼び名)にとっては、股間に自分と同じモノがある綺麗だけどちょっと変わったお姉さんでしかなかったそうだ。


「クーアは疾うに還暦から十年以上過ぎて生きておる訳ぢゃが、見ての通り幼く愛らしい姿のままでおる原因は、魔王から貰った魔界の菓子を食い、魔王より与えられたおもちゃ……実は魔界でも貴重な魔装具(魔王の為に作られた武具らしい)だったそうぢゃが、それで遊んだ影響らしい」


 そして副ギルド長の魔法の才能は、復讐戦争でも遺憾なく発揮されてしまう。

 幼きクーアは滅多に逢う事は叶わなかったが、逢えば自分を優しく抱き締め、時間が許す限り遊んでくれたり知識を授けたりしてくれた父を殺した聖帝だけではなく、自分を可愛がってくれた優しくも頼もしかった兄達に唾を吐きかけ縛り首にした民衆をも復讐の対象とした。

 まず幼きクーアは魔法で蝗を手懐けると、スチューデリア中の畑を襲わせて深刻な飢饉に陥らせたそうだ。

 ヘルト・ザーゲでは勇者様が聖剣の力で魔女ユームの魔力を断ち切って蝗を霧散させる事に成功しているが、実際は蝗の駆除までには至らず蝗害は続き、苦肉の策で官庫を開いてその年を凌いだに過ぎなかったらしい。

 次いで鼠を操って疫病を流行らせようとしたが、これは急に街から姿を消した鼠に不審を抱いた勇者様が蝗騒動を思い出して街を挙げての害獣駆除を提案、すぐに街の清掃が始まり、殺鼠剤が撒かれた事で未遂に終わった。

 その後、邪魔をしてくれた奴の顔を拝んでやろうと街へ乗り込んできた幼きクーアと勇者様は邂逅を果たす事になる。


「罪の無い魔女達を迫害し、裁判とは名ばかりのおぞましい拷問の末、火炙りにしてきた星神教の人面獣心けだもの共……今度はこちらが裁く番だよ」


 見た目こそ幼い子供だが、彼から放たれる濃厚な殺気に民衆はおろか百戦錬磨の護衛騎士達でさえ恐怖に身を竦ませたという。


「判決。スチューデリア人は全員死刑。地獄に堕ちた後、獄卒共から受ける呵責が慈悲深く感じられるほどの苦痛と恐怖を味わわせながらゆっくりと滅ぼしてあげるよ」


 私の知るほんわか副ギルド長からはとても想像できない言葉である。


「それと星神教に与する勇者様? 今なら見逃してあげるから、とっとと自分の世界へと還るんだね。退くも勇気、逃げるも勇気。君は勇者を名乗る者だ。真の勇気と偽物の勇気即ち無謀や蛮勇などとの区別がつくだろうと信じているよ」


 そう云い残して幼きクーアは夜陰に融けるように姿を消したそうだ。


「愚僧もその時、居合わせておったのぢゃがな。あの鮮やかなグリーンの瞳が夜の闇よりも昏く見えてのぅ。ぞっとしたのを覚えておるわい」


 こうして当時の話を聞かされると、副ギルド長の怒りの凄まじさが伝わってきて背筋が寒くなってくる。


「その後、魔女ユームと子供達は敗北を繰り返すようになるのぢゃが、その本当の理由は分かるかの?」


「ええ、物語では作戦に穴があっただけでしたが、実際は敢えて敗北を繰り返す事で勇者様達を勢いづかせて自分達の本拠地である魔女の谷へ誘導していったのですね」


 頷かれる大僧正様に私は、結局あのユーモラスな魔女一家との戦いは子供向けに書き換えられたフィクションであったのだと悟らざるを得なかった。

 しかも勇者様に敗北はしているものの、標的である魔女狩りの実行者や教会に魔女を売った密告者への復讐は確実に遂行していたそうである。それも魔女裁判すら比較にならない程に残酷で無慈悲な手段を用いて……


「全身を無数の毒蟲や蛞蝓に集られ喰い尽くされた差別主義者の尼僧、触れた途端に食べ物が腐る呪いをかけられた大食漢の密告人、人に与えた痛みが数倍となって自分に返ってくる体にされた拷問官など魔女狩りに携わった者は例外なく地獄に堕とされたわい」


 魔女を畏れるが故に行われた蛮行が逆に魔女の怒りに触れて自らの危難を招いた半世紀前のスチューデリア人……同情する気にすらならないのは、私が他国の出身だからであろうか?

 さて、物語も魔女一家を魔女の谷に追い詰めたところで第三巻が終了する。

 初めて読んだ時はドジな魔女達にクスクス笑っていたものだが、今となっては笑えなくなっていた。況してや当事者の一人が冒険者ギルドの仲間だと知ってしまっては……

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