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最期
「まあ、だいたい思い出してきたよ」
三途の川と呼ばれるにはあまりにも視界が悪い白いもやの中、優子は太蔵から距離をとりつつ話した。
「要するに、私は死んだわけだ」
「ああ、自分の部屋でおっ死んだ」
「……そう……」
「最期、自分が何を言ったか覚えてるか?」
「知りたくないからいい」
「『醤油が足りないな』だった。それで事切れた」
難しい顔で眉間に人差し指を当てつつ空を仰ぐ。相変わらず何も見えない。
「だから知りたくなかったんだよ、自分の死に様なんて」
「虫けら並に自然に死んでやがった。笑うわあんなの」
「せめていいもの食べておくべきだったなあ。いつもどおりのスパゲティだったもんなあ……」
ふと気づいたことがあり、太蔵に確認した。
「誰が私を発見しちゃったのかな?」
「お前の妹がさっき発見したらしい」
「太蔵はいなかったの?」
「なんでお前の死体を見守ってやる必要があるんだ?」
それもそうかと納得。妹には悪いことしてしまったと思う。
それはそうと、責務を果たした死神は、次の宿主が現れるまで、空のどこかで待機しているのだろうか。ふわふわと空を浮かんでいる死神たちを想像し、優子は口の端を軽く釣り上げた。
その様子から心情を察したのかどうかはわからない。太蔵が優子に質問を投げかけてきた。
「お前、これからどうするんだ?」
「どうするって?」
「素直に死ぬのかどうか訊いてる」
「死んでるじゃん、もう」
太蔵は頭をガリガリと掻き、懐から何かを取り出した。柔らかく光るそれを手のひらに乗せ、優子に差し出す。
「暖かい。なんだろう、これ」
「命」
「誰の?」
「手島君枝の」
首をかしげる優子に、太蔵は心底嫌そうな表情で説明を始めた。
「あの女が書き遺してただろ。『私の命を八重咲さんに分けてあげたい』とかなんとか」
「よくそういう労り方ってするじゃん。社交辞令だよ?」
わかってないなと肩をすくめて両手を広げる。太蔵は苛立ちを抑えきれない様子で更に優子へ手を伸ばした。
「自らの命を引き換えにして、お前を助けたいと願った女がいたんだ。あれが社交辞令でないことは本人と死神にしか分からんだろうよ」
「……ありがたいことだよね」
「他人事みたいに言うな。で、どうするか決めろ」
優子は棒立ちのまま、太蔵の手のひらで揺らめく明かりを見つめている。
「死神のわしがこの命を預かっていた。それほどあの女を侮辱する行為があるか?」
「……」
「こいつは死ぬまで苦しんだ。早く送ってやるのがわしの務めだ。良心とかそんなふざけたもんじゃねえ。ただの死神の務めだ」
「……」
「早く決めろ。お前の為じゃねえ。邪魔くさくて癪に触る小せえもんを片付けてえんだ、わしは」
優子は何も言えず、手を胸の前で組んだまま、ただ肩を小刻みに震わせていた。
〜 〜 〜 〜 〜 〜
優子は目を開けた。自室の天井が見える。目玉だけをぐりぐりと動かす。誰も見えないが、泣き声は聴こえる。医者と思しき男の声が、重々しい響きをもって部屋に響いた。
「では私の左腕に輝くロレックス・デイトナで確認します。15時25分、ご臨終です」
今起き上がったら怒られるだろうか。大の大人が死者ごっこなどするかと呆れられるだろうか。笑われるならまだいいな。そんなことを考えながら優子は目だけを動かし続けた。視野の外から妹のすみれが近づいて来ていることには気付いていない。
「おでえちゃん……」
優子の顔の上に、いきなりすみれの泣き顔が現れた。
目が合った。
無言のまま数秒見つめ合い、優子は申し訳なさそうにそっと目を閉じた。混乱を隠せないすみれの質問が医者に飛ぶ。
「あの、先生、お姉ちゃん、目が動いてるんですけど……」
医者は優子を確認すること無く、事務的な声をすみれにかけた。
「死後硬直です。よくあります」
「ぐりぐり動いてましたけど」
「しばしばあります。私のロレックス・デイトナによると15時25分に亡くなってます」
静かに起き上がった優子は、死亡診断書を書き始めた医者の肩に手を置いた。医者はその手をうさんくさげに見て面倒くさそうに振り仰ぎ、立っている優子を確認してから苦々しい顔で断言した。
「自立するタイプの死後硬直ですね」
意地でも診断ミスを認めたくない医者を突き飛ばし、すみれが優子に抱きついてきた。
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