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晩夏の一杯
周りが何も見えない白いもやの中、優子のすぐ目の前に太蔵が現れた。
「どうしたらいいのって、そりゃお前……」
なぜ水が透明なのかと聞く子供に対応するように、太蔵はそういうものだという口調で決めつけた。
「死ぬんだわ」
「そうなんだ。あっちゃー。良くないな」
「……お前、緊張感ねえなあ」
「死ぬんなら、今更緊張する必要ないじゃん」
優子は太蔵と対峙した。真正面から目を見て問いただす。
「結局私は盲腸ではなかったと。誰かに騙されたということだよね」
「そういうことだな」
「あの病院の医者と看護師め……!」
思い出してなんとなく腹が立ってきた優子は、想像しうる限りの悪行を予告した。
「夜な夜な枕元に立って皿割って人形動かして水出しっぱなしにして冷房14度にした後、テレビから這い出て泣くまで追い詰めてやる!」
「落ち着け」
「井戸をよじ登ってきたた私がテレビに映ってる、ってのが一番怖いと思うんだ。なぜか知らないけど」
「医者どもは関係ない」
「完全に私のオリジナル。天才かな死んでるけど。そうだビデオ経由で」
「ちょっと黙れ」
「この辺にいい感じの井戸ない?」
すっと視線を外した太蔵を見て、優子は眉間にしわを寄せる。
「何か言いたそうだね」
「別に」
「なんか私に土下座したそうな顔っていうか」
「いや、お前がわしに土下座するなら受け入れてやらんこともないが」
「なんでよ」
〜 〜 〜 〜 〜 〜
退院してから約一ヶ月、内勤となっていた優子は地下室で事務作業をしていた。勤務し始めて最初に入った部屋である。冷房はないが夏でも涼しい。
スーサイド対策室員は、まずこの地下室に監禁される。2時間ほどで退室した時に死神に取り憑かれていれば外勤の職員になる権利が与えられる。取り憑かれていない場合は内勤となり、恩恵を受けることがない。
最大の恩恵は給料である。外勤、つまり死神を使役して寿命を縮める者の給料は、内勤の3倍以上。また、普通自動車免許証取得における全額補助や自家用車購入の補助も用意されている。
もちろん取り憑かれた場合でも外勤を拒否することは可能である。命と金を比べて命が大事だというまともな考えの持ち主であれば概ね拒否する。その際は死神を祓い内勤に移るのだが、その死神を祓う役割を担っているのが室長の粗神だった。
〜 〜 〜 〜 〜 〜
地下室の優子から離れ、太蔵は室長室に突っ立っている。普段よりも静かな声で太蔵は話を切り出した。
「室長、優子の病気、本当はなんですか。祓ったごとに血液検査だなんだやっていて、本当に今まで何も発見できなかったんですか」
粗神はこともなげに応える。
「大腸ガンは2ヶ月前に見つかってました」
「ならなぜ治療を受けさせなかったのです」
「恐らく休まなかったでしょう。給料に反映されますから。今は痛みもないでしょうし」
「あんたの想像など聞いてませんが」
腕組みをして太蔵は片眉を釣り上げる。
「奴は病院にも行きたがらない。病状についても言えない」
「そうですね」
「奴を殺すのは病気ではなく、わしです。だから黙って使われてやってるんです。喰い物が目の前で腐っていくのをあんたは放置しますか」
粗神は肩をすくめながら返答した。
「まあ、彼女は優秀ですから。勝手に最善の選択をするとは思いますがね」
〜 〜 〜 〜 〜 〜
晩夏の夕方、厳しい陽射しを浴びながら優子は通りをのんびりと歩いていた。久しぶりの外勤だ。体は重いが、やはり事務作業よりもこちらの方が性に合う。
日傘を持ち歩かないのは荷物になるからという理由ではない。買うのが勿体無いからだ。建物や樹木の影から影へとジグザグ移動を繰り返している為、普通に歩くよりもかなり歩数がかさむ。
「暑いのは好きだから、まだいいけど」
額の汗を手の甲で拭いながら次の影を探す。
「もっとタワーマンションとかガンガン建てた方がいいと思う。例えばあの墓地とか公園を潰して……」
太蔵はギロリと優子を睨みつけた。
「冗談だって」
「お前の冗談は冗談に聞こえないことがある」
「あ、次の角曲がったとこだね」
話を逸らしながら優子は目的の居酒屋に到着した。赤い提灯には「美味処
「ここだね。ご主人の壱岐さんが最近危ういって情報。まずは入ってちょっと飲んで様子を見ますか」
「お前、外食するカネがあるのか!?」
かつて聞いたことがないような声を出した太蔵を無視して、優子は暖簾をくぐった。領収証を切る話は通してある。
「らっしゃせ」
歓迎する気があるのかないのかさっぱりわからない初老の男の声が、優子に届く前に床に落ちた。客は他に誰もいない。
「えっと生ビールください」
暑い中を歩いて来たので喉が渇いている。目の前に音もなく置かれたジョッキを煽ると、優子の目から輝きが消えた。小声で感想を述べる。
「ぬるい生ビールって、せつないんだね」
枝豆を注文すると調理場の奥からチンという音が響き、鯖の味噌煮は全国共通の缶詰風味。鳥の唐揚げに至っては火が通り過ぎて消しゴムのような歯応えになっており、刺身の盛り合わせを頼む勇気が湧かないので締めの焼きそばを注文したところ、流しからべコンという音が聞こえてきた。
「すみません、店長さん」
口から焼いていない焼きそばを垂らしながら、優子は店長を呼んだ。
「おいやめとけ。お前目が座ってるぞ。あいつ黒いのに取り憑かれてるし」
「店長、ちょっといいですか」
厨房から出てきた男は会計と思ったのか、一言も無しにレジスターへ向かう。
「お酒にしろお料理にしろ、もう少しどうにかならないんですか」
「どうにもならんですわ、はあ。6800円ね」
今にも舌打ちをしそうな顔で立ち上がった優子は、背後を振り返ることなく「3ヶ月」と口にし、太蔵に祓いを命じた。だが太蔵は動かない。
「足りない?」
「いや」
太蔵はバットを店長の頭に振るった。
「2週間でいい」
優子は
「そう……」
とだけ返し、小声で
「わかった」
とつけ加えた。「死神は宿主に寿命を知らせてはならない」という縛りが、優子に答えを与えていた。
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