降り続く梅雨空の下で

 白ともクリーム色ともつかないあやふなや色の天井を見上げながら、優子は目を覚ました。点滴のパックがすぐそばにぶら下げられている。どうやら自分の腕にそれは注入されているようだ。

 ゆっくりと感覚を取り戻した優子は、どこかにあるはずのナースコールを手で探した。どこにもないようだ。代わりに看護師が入室してきた。


「どうですか、八重咲さん。意識は戻りました?」

「えっと……」

「ここは病院。あなたは……えっと……急性虫垂炎、盲腸で運ばれたのね」


 看護師はカルテに目を落としながら説明する。


「いつ頃退院ですか。盲腸ならそんなに時間はかからないですよね」

「うーんと、それは主治医の先生と話をしながらね」


 まだ何かを聞こうとする優子をなだめながら、看護師は点滴や手術痕のチェックを行った。まるで聞く耳をもたない。

 看護師が去るのを待ち、太蔵に呼びかけた。静かに空間に現れた死神の顔は、不機嫌そのものといった様子だ。


「私が入院してから何日?」

「10日」


 え、と優子は跳ね起きかけた。だが手術後と思しき痛みがそれを許さない。腹部を押さえてベッドに横たわる。


「なんで盲腸でそんなにかかるの?」

「知らんが。何にせよお前が我慢して招いたことだ。自分の行動を少しは省みるんだな」

「何をそんなに怒ってるの?」


 無視を決め込む太蔵から視線を外し、優子は記憶を探り出した。確かものすごくお腹が痛くなり、我慢できなくなった。その時は誰と話していたんだっけ。誰の仕事を担当していたんだっけ。記憶の糸が密集する。


「手島さんだ。そうだ手島さんの仕事を」

「で、手島が自殺した」

「いや、そんなことはないでしょ?」

「事実だ」

「なんで? だって、黒いのは太蔵が祓ったし、両親も……」


 太蔵は何も言わず封筒を優子のベッドに放り投げた。手島君枝の遺書の写しだった。

 そこに書かれていたのは、両親を入所させてから一週間後、自由を手に入れてからの心境だった。


 お金がないこと。相談する相手もいないこと。自由な状況が足かせになってしまっていること。何より介護をしない今、何をしていいのか分からなくなったこと。

 そして、親身に相談に乗ってくれた優子へのお礼とともに、短いお詫びが書かれていた。


「もしできることなら、私の命を八重咲さんに分けてあげたい……か」


 傍から見てもそんなに体調が悪そうだったのかと、優子は今更ながら痛感する。天井を仰ぐ。相変わらずあいまいな色のままだ。


「出かけるよ」


 悲しんでいる場合ではない。優子はゆっくりと起床を試みた。何度も試みた。だが立てなかった。


「太蔵、手伝って」


 応える者はいない。声は所在なさげに天井と床の間に浮かんで消えた。



 〜 〜 〜 〜 〜 〜



 優子が退院したのはそれから5日が経過してからだった。次の検査日を知らせる主治医に疑問をはさむ。


「盲腸なのに検査するんですか?」

「ああ、福利労務省勤務の方はそうすることになっているようです」


 ふむ、と腕組みをして首を捻る。


「悪いんですかね、私」

「順調です」


 医者はカルテから目を外すこと無く応えた。


 雨は続いている。このままずっと降り続けるのではないかとさえ思えるほどに。

 病院を出た優子は、車を走らせて君枝の自宅へ向かう。まずは事実を確認しないと納得ができないのだ。玄関の前に立ち、言葉を発した。背後を振り向くことなく。


「開けられるよね」


 カタリという音と共に解錠された扉を優子はくぐった。


 人の気配は無い。この家に誰かが戻ってくることはもうないのだろう。線香を上げると火事の恐れもある。優子は仏壇に手を合わせた。


 音を立てないように表へ出る。雨足が強くなってきた。傘を差しても意味が無いような土砂降りの中で太蔵に話しかける。


「私、盲腸じゃあないんだよね」

「言うなと言われている」

「誰に」


 太蔵は無言で優子を見つめる。軽いため息をつき、優子は太蔵を睨み返した。


「命令なんだけど。宿主の。要救助者を自殺に追い込んでしまうような宿主だけど」

「『死神は宿主に残りの寿命を示してはならない』。そこに触れる恐れがある」


 問答を諦め、車へ急ぐ。全身がずぶ濡れだった。


「泣きたい気分だよ」

「そうか」

「雨には濡れるし、手当てはつかないし」

「つかないだろうな」

「けど、泣く資格が私には無い」


 タオルで顔を拭く。何度も拭いた。しばらくの間エンジンをかけず、優子はタオルで顔を覆っていた。

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