梅雨空の下で3
事業所から引き上げるやいなや、優子は自室のちゃぶ台でパソコンを広げた。今夜も外は雨。傘でなくかっぱと長靴という手もあるかと考えたが、その二つを買うお金がもったいない。
片っ端から入所できそうな候補を上げていく過程で、優子は県外にまで範囲を広げていた。第一優先は君枝の救済である。距離よりも金額を優先して候補を絞っていく。
その作業は深夜24時にまで及んだ。塩コショウとケチャップを和えスライスチーズを載せた自称「イタリア風スパゲティ」をちびちびとつまみながら情報を整理していく。
「その犬のエサは人間が喰って大丈夫なのか」
太蔵がイタリア風をしげしげと眺めながら苛烈な一言を放った。
「時間とお金がないのは、私もよく分かる。だからこういう食事になるんだよ」
「お前の場合、時間とカネがあっても同じもの喰ってるだろ。下手な言い訳すんな」
言い返そうとした優子だが、腹部の鈍痛に顔をしかめるのみ。その様子に太蔵は舌打ちで応えた。
もちろん候補となる特養の情報も把握しておかねばならない。人手は足りているのか、近隣の病院は設備が整っているか、なにより過去に問題を起こしたことがないかどうか。
特に虐待に関しては注意を払った。一度虐待を起こした特養は何度でも同じことを繰り返す場合が多い。介護士個人の問題ももちろんあるが、組織の傾向も利用者を軽んじているのだ。
翌朝出勤後、リストアップした数件に電話での聞き込みを行った結果、県境の山沿いにある特養に目処を立てることができた。こういう時、受け持ちが少ない優子のような立場だと都合がいい。すぐさま君枝に電話をかけ、午後の約束を取り付ける。
窓の外は暗い雨。やはりかっぱと長靴を買っておくべきだったかと優子は後悔した。
〜 〜 〜 〜 〜 〜
「遠い場所だと会いに行くのに大変じゃないですかね」
やはり君枝からは不安の声が寄せられた。
「それは確かにありますが」
用意していた答えを優子は返す。
「それでもご自宅にお母様がいらっしゃるので、会いに行くのは時間的に難しいですよね」
「まあ、そうですね」
「でしたら、お二人とも同じところに入所されれば、会いにも行きやすいのではないでしょうか」
一月あたりの概算を記載した用紙を差し出しながら、優子は君枝に近づいた。ここは押すしか無い。迷っている時間を与えれば与えるほど利用者はためらいはじめるという情報を、優子は資料で目にしていた。
「けど……両親がどう思うか……」
「君枝さんはよくやられてますが、ご自身の今後も考えないと」
君枝は黙ってうつむく。その姿勢のまま、さも以外なことを言われたような声で返答した。
「今後って、私のですか」
「はい」
「もう30なんですが」
「まだ30です」
25歳の自分より一回りは上と見ていた君枝が、思ったより若いことに目を見張りながら優子は応える。
「まだまだこれから楽しいことが待ってますよ」
前日、太蔵による祓いも終わっている。優子は楽観的に考えていた。
「ですけどね、結構そうでもないと思うんですよ」
人生に希望が差して来たのを感じたのか、君枝は少し笑いながら愚痴をこぼし始めた。光が差し込んだことにより暗がりの細部がよく見えるようになってしまうのはよくあることだ。
「ずっと引きこもって介護をしていたので友人もいませんし、この歳までお付き合いした男性もいません。すこしだけ働いた後、生活は両親の年金で賄っていたので、社会に復帰できるのかも不安です」
その愚痴を笑顔で受け止めていた優子は、表情のみを顔にとどめたまま返答した。
「私も友達いませんよ。まったく。ここ数年、同僚としか話をしてません。恋とか愛には縁がないですし」
「え、八重咲さんなら彼氏ぐらいいるでしょう」
ヘラヘラと笑いながら優子は手を振る。死神に取り憑かれた時点でまともな生活が送れるとは思ってもいないのである。
その後も二人は時に笑いながら、時に憤慨しながら会話を続けた。徐々に口が軽くなってきている君枝に比べ、優子の顔色は優れない。腹痛が続いているのだ。その様子に気づくも君枝は何も言えない。太蔵は険しい表情で優子と君枝を見比べていた。
〜 〜 〜 〜 〜 〜
結果的に、君枝の両親は難色を示すこともなく特養ホーム行きを受け入れた。自分の娘の限界が分かっていたのかもしれない。
両親を乗せた2台のバンを、優子と君枝が乗った軽自動車が追いかける。優子はケアマネとして契約に同席する必要があったが、当事者の君枝は車も免許も持っていない。なら一緒に行きませんか、ということになったのだ。
小雨の中、ハンドルを握る優子に君枝が話しかけた。
「免許、あるといいですよね」
「あると便利ですよ。なくてもそれほど不自由はないかもですけど」
「いつかお金が溜まったら、教習所に通おうかな」
とりとめもない話は尽きることがない。車が施設に到着する頃、二人は好きな映画の話に花を咲かせていた。
数時間に及ぶ契約を終え、両親は穏やかな表情で君枝と話をしていた。夫婦で入所するのだから、一人で入るよりも精神的にはかなり楽なはずだ。
帰りの車の中、君枝は静かに涙を流していた。ハンドルを握りながら横目で様子を伺う優子に、照れくさそうな顔で話し始める。
「ここまで親身になって考えてくださったケアマネさんはいなかったですよ」
「いやあ、仕事ですから」
「これからもお願いしますね」
優子は苦笑いを浮かべていた。君枝の精神が安定した時点でケアマネージャーから通常業務に戻されることは分かっている。ためらった末、優子は曖昧な言葉を口にした。
「はい、わかりました」
〜 〜 〜 〜 〜 〜
事業所へ戻ると同時に、優子の携帯電話が鳴った。まるで動きを見ていたかのようなタイミングである。スーサイド対策室からの連絡は「本日付で復職するように」とのことだった。
君枝に携帯電話の番号を教えておくべきか迷ったが、卓上の電話がその考えを止めた。市内の総合病院からの連絡だった。担当のケアマネに回線を回しながら、優子は慌ただしく整頓を始めた。
〜 〜 〜 〜 〜 〜
スーサイド対策室に戻り2週間ほど通常業務をこなしていた頃、優子は室長の粗神から呼び出された。
粗神は、手島君枝が自殺したことをいつもと変わらぬ口調で告げた。内容を理解できない優子が何かを言おうとした時、腹部の痛みが限界を超えた。優子が最後に見たものは、床に激突しないように優子の頭部を抑える太蔵の両腕だった。
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