梅雨空の下で2
手島君枝は自己紹介を終えた優子を家に上げると
「はい、はい」
とただ従順に話を聞いていた。二人とも顔色が優れないので病人同士が向かい合っているようにも見える。
優子よりも一回りほど年上のように見える君枝だが、実際はそれよりも若いのかもしれない。だが果てどなく消耗するだけの毎日は、君枝から生命力と思考力を根こそぎ奪っているように見えた。
「3年間、お二人の介護をされてますよね。お父様が要介護4、お母様が要介護3……」
要介護3は自力で立ち上がることや歩くことが難しく、認知症の症状が見られる場合があるなど、食事や排泄など身の回りのことほぼ全てに介護が必要な状態。そして要介護4とは食事、排泄、入浴といった日常生活において全面的な介助が必要な状態を指す。
「そうですね、ええ」
「お休みになる時間はありますか?」
「ないですね、ええ」
君枝は優子の言葉にひたすらうなづいていた。間違いなく疲れ切っている。今最も助けが必要なのは、両親でなく君枝だろう。介護者が倒れた状況を想像しただけで優子の胸には不安が湧き上がった。
「君枝さん、ご両親の入所という選択肢はお考えですか?」
「考えてはいますが、いかんせんお金がかかるでしょう」
そう言われては押し黙らざるを得ない。介護には確かにお金がかかるのだ。看護師やケアマネも善意のみで動いているわけではない。
「前のケアマネさんは『初期費用払えますか?』の一点張りでした。何でも300万円ほどかかるとかで」
「それは弊社が経営している老人ホームに入所した場合です」
君枝が前のケアマネと話が出来なかった理由が分かった。前任者は入所させるなら自社が経営している老人ホームしか考えていなかったのだ。利用者の都合や経済状況よりも自分の実入りを優先していたのだろう。
優子は資料を思い返しながら提案をしてみた。
「特別養護老人ホーム、特養と呼ばれている所でしたら初期費用、いわゆる入居一時金はかからないところが多いです。それに、年金の合計年収が160万円以下なら1割負担で済みます。考えてみませんか。まずはお父様から」
「ですが、二人が何て言うか……」
「お二人の前に君枝さんが倒れますよ、このままでは。特養もなかなか入れないんです、順番待ちで。お母様ももしかしたらお泊りできる施設があるかもしれませんし」
「でも……」
優子の目線を受けた太蔵が何も言わずバットを振るい、君枝の頭を打ち抜いた。半年ほど前の冬に聞いたような断末魔が、優子と太蔵の耳にのみ届く。
「……そうですね……。検討してみたいですね……」
君枝の目に少しだけ光が戻ったような気がした。
「まずは空室状況と、24時間ケアをしてくれる特養を探してみます」
救出した手応えを感じた優子は、書類をまとめながら話を振った。
「差し出がましいのですが、介護される方、ケアラーの方が『楽をしたらいけない』っていうのは間違った思い込みだと思うんです」
君枝は黙って話を聞いている。
「昔は介護保険がなかったから今の方が楽だって言う人もいますけど、そんな人の言うこと聞かなくていいです。どうせ今も昔もやってないんですから」
「あの」
「はい」
「ケアラーってなんですか」
説明をした優子に対し、君枝は初めて積極的に意見を投じた。
「ケアする人だからケアラーですか」
「そう……だと思います」
「なんだかすごく軽んじられている気がしますね。国というか、世間から。介護してる人がそんな呼ばれ方をされてるということに驚きました」
怨念のこもった雑談は根が深い。慎重に答えを選ばなくてはならない。
「そ、そうなんですよね。私の部署も最初はオールピープルとかスーサイドワーカーとかなんか変な横文字で……」
「ちょっと理解できませんね。介護
「そ、そうですよね」
「自殺対策室本部でいいじゃないですか」
君枝の口調は笑っているが、顔は笑っていない。恐らく数年の介護疲れで表情がうまく作れないのだろう。
困り始めた優子の耳に高い音色のチャイムが届いた。
「あ、父が便をしたようなので片付けてきます。ありがとうございました」
優子は何も言わずかばんの中からゴム手袋を取り出した。ここまで話をしてくれたのだから、更に信頼されるように手伝うべきだと考えたのである。
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