149

梅雨空の下で1

 棺桶からゆっくりと立ち上がった優子は、足の向きを変えて周囲を見渡した。首だけを動かしたら痛めそうなほど体が硬直しているのは自覚している。


 ここはどこなのだろう。この世かあの世かも分からない。白いもやに遮られた視界が何メートル先までを見通しているのかも分からなかった。


「ここが三途の川だ。お前の寿命はそろそろ尽きる」


 太蔵の声が聞こえた。なるほどここがかの有名な。もともと死んでいるのだから恐怖はない。

 現世にも三途の川のイメージは伝わっていたが、これほど殺風景なものだとは思いもしなかった。彼岸花も咲いてなければ渡し船もない。


「これからどうしたらいいの?」


 優子は太蔵に問いかけた。返事は返ってこない。代わりにどこかで水の滴る音が聴こえた。

 音を頼りに進む。気づくと足元には水たまりがあった。どこからか水が垂れてきており、その水たまりに時々波紋を起こす。どこから垂れてきているのかは見通すことが出来ない。

 水たまりを覗き込む。そこには傘を差してうなだれる優子の姿が映っていた。



 〜 〜 〜 〜 〜 〜



 5ヶ月ほど前。正確には149日前。

 じめじめとした梅雨空の下、優子はスーサイド対策室で介護支援専門員・実務研修試験問題集とその参考資料に目を通していた。次の現場で必要な知識が詰まっているらしい。時折片目を閉じ、その状態で読み進める。左右の目でそれを繰り返す。学生の頃から行っている優子なりの集中法であった。

 顔色が青い。ここ数日、謎の腹痛に悩まされているのだ。だが休まない。職務の責任よりも査定に影響が及ぶことを恐れている。


 数時間前、室長の粗神に呼ばれ、次の現場の内容を説明された。


「ケアマネージャーになるんですか? 私が」

「そうです。今回の八重咲さんはケアマネになってください」

「というと、救助する方は要介護者ですか」


 優子の脳裏にリハビリの痛みに耐える服部の姿が蘇ってくる。


「……すると今回も長丁場になりそうですね」

「長丁場は合ってますが、対象者は違います」


 粗神の言葉を待つ。雨は一向に止む気配がない。


「要介護者の在宅看護をしている方です。ご家族です。今で言うケアラーと呼ばれる方ですね」

「ケアラーと呼ばれる方がドイツ……黒……トッドクーゲルに取り憑かれたと」


 頷いた粗神は優子に2冊の分厚い本を差し出した。


じまきみさん。お一人でご両親の介護をされてますが、現ケアマネとの感覚の乖離も大きく、老人ホームへの入所なども検討できないらしいですね」

「で、私が新しいケアマネになってご両親を各サービスに送り出し、陽子さんを助け出す、と」

「そういうことです」


 だが難問が立ちはだかっている。


「なら今のケアマネから都合よく私に変更してもらう必要がありますが、それはどうしたら」

「それはもう手配しました」


 冷たい笑顔を浮かべ粗神は話を終えた。



 〜 〜 〜 〜 〜 〜



「どっちみち、黒いの憑いてるなら太蔵が祓ってくれれば楽勝だよ」


 2時間ほどで問題集と資料集を読破しつつある優子は、背後の太蔵を振り返った。太蔵はニヤニヤと笑いを浮かべながら舌なめずりをしている。


「なにその下品な感情表現は」

「だってよ」


 バットを振り回しながら太蔵は、薄墨色の雲が割れ光が差したような爽やかな口調で


「三人もぶっ殺せるなんてボーナスステージもいいとこだろ!」


 と言った。


「ジジイとババアと死にたがり。そんな据え膳、喰わなかったらバチが当たるわ! ようし殺す、我慢していた分入念に殺す、折ってから啜りだし溜めて一気に飲み干し髄まですするわひゃひゃひゃひえいぎぎぎぎぎぎいいいあがががが」


 狂笑は途中から悲鳴に変わった。もちろん優子が絞り上げたせいだ。


「分かってるよね」


 頭を落花生のように潰されのたうちまわる死神に、優子は左目を閉じながら釘を刺した。腹部の鈍痛に、一瞬顔が歪んだ。



 〜 〜 〜 〜 〜 〜



 指定された老人ホーム内の事業所へ到着すると、すでに優子の席が用意されていた。人々はみな慌ただしく電話をしたり利用者の応対にてんやわんやである。軽い挨拶を済ませた後、すぐに実務にとりかかった。

 書類をまとめ、机を整理しながら通りかかった看護師に話を聞いてみる。


「あの、前任のケアマネさんはどうされたんですか?」

「それがね」


 なんでも利用者からのクレームが急に増え、入れ違いで退職したとのことだ。サボり癖も発覚したという。粗神の冷たい笑顔が一瞬脳裏をよぎった。

 引き継ぎも何もあったものではない。人手は足りないが新任ということで担当は手島以外に2件のみ。なお、事業所内では30歳と偽っている。ケアマネになるには実務経験が5年は必要だからだ。


 昼食時、誰もいない休憩室で食事をしながら優子は浮かぬ顔をしていた。


「疑われないのはいいことだけど、それはそれで寂しいものがある。5歳ごまかしてバレないという事実が、私の精神を鋭くシャープにえぐってくるのだ……」

「お前にかまっているヒマがないんじゃないのか。それか、いい方に考えれば貫禄がついたってことだろう」

「それもう一度言ったら絞るから。キツく」


 言っても仕方がない愚痴をこぼしつつ、連絡を入れた後優子は手島君枝の家へ向かった。

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