23時のスパゲティブルース
服部は日々少しずつ体力と元気を取り戻していった。もちろん自由に歩けるようになるわけではなく、何かに捕まらずに立てるようになるわけでもない。それでも真摯な態度でリハビリに取り組み続ける姿は、入院当初から比べれば別人のように思えた。
脳梗塞などの病気で性格が豹変することはしばしば見受けられる。肉体と精神は結びついているのだ。今まで朗らかだった老人が急に自己中心的になったり、周囲に当たり散らすようになるのは特別珍しいことではない。人格を構成している脳に神経情報が伝わらないのだから当然のことともいえる。
だがそこからの回復は極めて珍しい。ほぼないといってもいい。徐々にではあるが、服部が本来の性格を取り戻しつつあることには主治医も多いに驚いていた。
態度を改めた服部は、まず同室の患者たちに頭を下げた。患者たちもその謝罪を受け入れたようで、和やかな雰囲気の中で入院生活は過ぎていった。
午前10時、服部のバイタルチェックを済ませ、廊下に出た優子は独り言をつぶやいた。
「いやらしいものって偉大なんだね」
「わからんな」
「デスモンドさん達が言ってた『ドエロい夢』の向こうに奥さんが待ってたんだよ。ロマンチックだよねえ」
「そうなのか」
太蔵の声には理解できないものに対する距離感が感じられる。
「インターネットの発達だって『いやらしいもの見たさ』が原動力になったって言うじゃん」
「だからわからんが」
「死神にはそういうのないもんね」
「そういうのとは」
「生殖本能とか恋愛感情とか」
「必要ないからな」
PHSが鳴った。本日正午で理学療法士としての勤務は終了、スーサイド対策室に戻るようにとの粗神からの連絡だった。
「どこかで見てるのかな? 室長は」
「……わっかんねえな……」
太蔵の声に緊張が宿る。
取り急ぎ服部に挨拶だけは済ませておくつもりで、優子は売店へ寄ってから病室のドアを開けた。
「あ、また来た。何かあったのかい?」
「ちょっとご報告がありまして……」
担当直後からは信じられないほど極めて普通の会話を少しだけして、優子は本日で退職する旨を伝えた。
一瞬間が空き、服部は残念そうな顔で言う。
「けど、13時からのリハビリはやってくれるんだろう」
「すみません、実は正午までしかいられないんです」
ため息をつき、万感の思いが詰まった言葉が服部の口からゆっくりと吐き出された。
「残念だ……。せめて退院までは見届けて欲しかったが……」
「そのご様子ならだいじょぶ。もう退院間近ですよ。これどうぞ」
目の前に差し出されたペットボトル入りのお茶を受け取り、服部は一口飲んだ。
「そうか、次の職場は決まってるのかい」
「はい。決まってます。気にしていただいてありがとうございます」
服部は黙って安らかな顔で頷いた。
「じゃあ、そろそろ巡回に行きますね。リハビリがんばってください」
手を振りながら踵を返した優子はドアを開けた。そして立ち止まる。大事なことを忘れたかのように服部の元へ急いで戻ってきた。
「すみません、140円でした」
手を突き出しながら言う。服部はあっけにとられている。
「何が」
「お茶……。売店で買ってきたので……」
目を瞬いた服部は、笑いながら小銭入れのチャックを開けた。
〜 〜 〜 〜 〜 〜
「私はよくやったと思う。太蔵の手助けも無しに」
「夢魔がいただろ」
「まあそうだけど。私がドエロいことをするっていうのが呼び水になったんだよ」
「ふん」
「奥さんが嫉妬したのかもしれないね」
久しぶりに戻った自分の部屋で、優子は腕をぶるんぶるんと振り回しながら言った。すでに23時、発泡酒の缶が2本転がっている。顔も赤い。あと3分ほどでスパゲティが茹で上がる。
「これで再来月まで仕送りができることが確定したよ。飲まずにはいられない」
「毎月まあまあの額を送ってるようだが」
「まあまあっていうよりは、なかなかっていうかどうしてどうしてっていうか……。高校卒業から大学進学はどうしてもお金がかかるんだ」
優子はしばらく会っていない妹のすみれの顔を思い浮かべていた。たまに電話で話す程度だが、順調に進学できそうなことを言っている。本当はもっとたくさん話したいが勉強の邪魔をするのも悪いし、何よりうざったがられるのはまっぴらごめんなのである。
「お前はあれか、妹の親代わりなのか」
「お母さんの遺言でもあるからねえ」
「親は死んでるのに、守る必要があるのか」
「亡くなってるから守ってるんだよ」
少しだけ気色ばんだ優子を眺めつつ、太蔵は「わからんな」とつぶやき煙管に火を着けた。
「自分の生活を切り詰めてまで仕送りをする。その考えがわからん。人間はまず自分が報われるべきだと思うんじゃないのか」
優子はその声に目の動きだけで返す。
「お前のその考えは、要するに、死んだ親に取り憑かれてるってことだろ」
部屋の空気が張り詰めた。太蔵に悪気などかけらもない。ただ思ったままを口にしているだけだ。だがその言葉は優子の琴線をでたらめにかきむしっていた。
不機嫌そのものといった様子で立ち上がった優子は、太蔵の方に目をやることもなくスパゲティを湯から上げた。マーガリンと醤油をかけ、何も言わずに立ったまま黙々と食べている。
隣の部屋で流れていると思しきFMラジオから、小音量のブルースが響いてきた。心を優しく包むような嘆きの歌を聞きながら、優子は心に若干の落ち着きを取り戻す。しばらく太蔵に背を向けた後。
「やっぱりどう考えてもムカつく。喰らえ」
両手を雑巾のように絞ると、太蔵の頭がひょうたんのようにひしゃげた。誰にも聞こえない悲鳴が夜に響き渡る。
「貴様な、何をする!」
「いや、ムカついたから」
「何にだ!」
「分からないならいい。やっぱ死神だ。人間じゃないんだ」
少しだけすっきりした表情を取り戻した優子は、水道の水を飲み、太蔵の方を見ることなく「おやすみ」とだけ告げた。
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