死生観三様
16時からのリハビリ室に、服部光男はやはり現れなかった。
薄々とは言え分かっていたことだから、と優子は自分を納得させようとする。もちろん本人が「やりたくない」と言い張っている以上、リハビリを無理強いすることはできない。ただ退院した後、後遺症により苦しむのは目に見えている。
トッドクーゲルに取り憑かれていないとはいえ、病院からスーサイド対策室に寄せられたデータによれば服部は自死を望んでいる。プライバシー保護の観点からは考えられない情報だが、国は人権よりも人命を優先する。近く法律改定の議論もされることだろう。
服部は恐らく自宅で死ぬつもりだ。その為に早期の退院を希望しているのだろうと優子は考える。
「今回はわしは何もできないからな」
太蔵の言葉を受け、ため息で返す。服部の病室へ向かう足取りが重い。
「どうすれば考え直してもらえる……まではいかないけど、この先のことを考えてくれるかな?」
「わからん」
「やけっぱちで死にたくなるなんて、誰でもあるのかな?」
「知らん」
もう一度深いため息をついた優子に物言いがついた。
「お前、今わしのことを『使えない奴』とか思ったろ」
「うーん、そんなことはないけど」
「お前が許可さえ出せば、あのジジイを安らかに死なしてやる。わけのわからねえ暴力沙汰からも守ってやる。それだけ覚えておけ」
気負うこともふざけることもなく、太蔵ははっきりと言い切った。
「なんか変に優しくない?」
「お前に何かあったら室長が怒る」
声に恐れが含まれているのを優子は聞き逃さなかった。
「これはお前の仕事だ。お前が判断しろ」
目を伏せながら病室のドアを開けようとした時、言い争いが聞こえてきた。急いで入室すると、服部を中心としたいざこざが起きている。
「ちょ、ちょっと、皆さん、どうしたんですか!?」
「このジジイがよ、落ち込んでるから励ましてやろうって……」
同部屋の三人がリハビリに誘ったところ、服部はやはり無視で応じた。それにもめげずに励まし始めた三人を、あろうことか手でしっしっと追い払ったとのことだった。
「自分だけが大変だと思ってやがる!」
「ならとっとと退院しろよジジイ!」
男たちは口々に服部を非難する。当然と言えなくもない。みんな同じような病状で頑張っているのだ。この世の不幸を一人で背負ったような顔をしている服部に対して苛立ちを覚えるのは決して不思議なことではなかった。
「すみません、皆さん落ち着いてください」
優子は服部と男たちの間に割って入った。このままではナースコールを押され大事になってしまう。どうか穏便に、どうかここは一つとなんとかその場を収集し、優子はベッドに寝転がったままの服部に話しかけた。
「服部さん、向かいのベッドの方のお名前はご存知ですか?」
何も言わず、視線も合わせない服部に優子は小声で語り続ける。患者の情報を漏らすことなど本来の看護師や理学療法士ならあり得ないが、本職がそもそも違うのだ。
「山口さんといって、同じく脳梗塞で利き腕と利き足が動かなくなってます。お隣は蓮田さん。大腸ガンです。斜向かいの大島さんは」
「黙れ」
至近距離から水の入ったプラスチックのコップが優子の顔に投げつけられた。当たる寸前で太蔵がそれを受け止める。だが当然のことながら中の水は動きを止めず、あっと思った時には優子の顔は水浸しになっていた。
太蔵の手が見えない服部からは、コップが優子の顔に当たったようにしか見えない。流石に動揺を隠せず眼を見張る服部は
「お、お前がしつこいからだ!」
と不条理にも優子を責めた。
下を向き、しばらくそのまま固まっていた優子がゆっくりと顔を上げる。服部が見たものは水浸しの笑顔だった。
「それだけお元気なら、リハビリも出来ますね」
バッグからフェイスタオルを取り出し顔を拭き、抑揚に乏しい同じ口調で同じ内容を繰り返した。
「リハビリ出来ますね。お元気ですもの」
テレビ台の方に歩み寄り、写真立てを眺めながら同じ口調で言う。
「リハビリで忙しいですよ。私も被害届を出す時間がなさそうです。ああ忙しい忙しい」
ついに抑揚が全く無くなった。そのまま明日の13時にリハビリを行う旨を伝え、静かに部屋を出たのだった。
〜 〜 〜 〜 〜 〜
廊下に出ると、興奮気味の太蔵が話しかけてきた。
「お前、よく我慢したな」
「まあ、今の私は理学療法士。患者さんに仕えるのが仕事だからね」
「その割には患者の病状をバラしまくっていたが」
「あ、あれは仕方ないじゃん」
思い返してみれば仕方なくもないな、名前だけ言えば良かったなと後悔していたところ、一枚の写真が脳裏に浮かんだ。
「あのテレビの前にあった写真、奥さんとの写真だよね」
「ジジイの嫁はもう5年前に死んだと聞いたが」
写真立ての中の二人は、とてもいい笑顔で映っていた。服部も病気を起こすまでは普通の高齢者だったのだろう。そう思わせるような一枚だった。
「むしろ嫁以外と撮った写真だったら笑えるが」
悪趣味な笑いに片頬を上げた太蔵をジロリと横目で見やり、優子は深く考えず思ったままを口にした。
「奥さんの位牌なり仏壇なりがある家で亡くなりたいってことだよね」
「知らんが」
「奥さんは目の前で死なれたら嫌じゃないかな」
「さあな」
「自然に亡くなるのならともかく、ましてやそれが自殺だったら、きっと泣くよね。怒るよね」
あまりの興味のなさゆえか、遂には宿主の問いかけを無視してバットを振るい始めた太蔵に、優子はまたも深く考えずに話しかける。
「太蔵」
「あ?」
「あなた死神よね」
「ああ」
「亡くなった人を蘇らせることなんて」
「ああ!? できるわけねえだろ!!」
どういうわけか激怒した太蔵は怒鳴り散らした。
「てめえだって注文して出された海鮮丼を見て『上手に貼り合わせてもう一度海で泳がせよう』なんて思わねえだろ!?」
「そ、そんなサイコな……」
「買ってきた豚肉に水と飼料と名前を与えるか!?」
「い、いや……」
「だったらなあ、その手のふざけた話は二度とするな」
質問のどの部分が太蔵の逆鱗に触れたものだったのか、今ひとつ理解できない。だがなおも太蔵が睨みつけてくるので何か考えるふりをして逃げようとした優子は、最後に食べた海鮮丼の具を思い出そうとした。ボケっとした宿主に、死神は問いかけを続ける。
「もしもだ、不遇な人生を送った奴を甦らせることができるとしたら、お前はそれをするのか。病気で苦しんだ奴をもう一度苦しめるのか」
「……」
「どうなんだ。それをするのか。助ける振りしてまた苦しめるのか」
「ごめん、深く考えなかった」
人の命を終わらせる職務を負った死神へ、ひどい侮辱を吐いたのかもしれないと優子は気づいた。確かに海鮮丼のくだりは正しいのかもしれない。調理してくれた板前に丼を突き返し「もう一度泳がせて」と言うのは常軌を逸した無礼そのものだ。
ただ、普段の太蔵からは職務への誇りといったものは感じ取れない。殺したくて仕方がないから殺したい、といった雰囲気ですらある。そう感じさせる太蔵にも原因があるのではないかと思ったが、優子は口をつぐんだ。
居心地の悪い空気を割くようにPHSが鳴った。スーサイド対策室の電話番号が表示されている。電話をしてきたのは室長の粗神だった。
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