284
素手でつまんでやれ
眼前が光で埋まり、思わず目を閉じる
「おい、起きろ」
そう言った死神の太蔵は、優子がもぞもぞとうごめいている棺桶を軽く蹴った。優子はまだ覚醒しない。2日以上身動き一つ取れなかったので筋肉が硬直しているのだ。
「いい加減にしろ、この野郎」
怒気を含んだ声と共に、先程よりも強い蹴りが棺桶の端に放たれた。その勢いでぐりんぐりんと横回転しながら壁に棺桶が激突。
「おあぎゃあっ」
炸裂したような悲鳴を上げて優子は飛び起きた。
〜 〜 〜 〜 〜 〜
10ヶ月と半月ほど前。正確には284日前。
優子は総合リハビリ病院に勤務する理学療法士として、患者のリハビリに甲斐甲斐しく付き添っていた。もちろん福利労務省、スーサイド対策室の職員から転職したわけではない。
一通りの座学と訓練は受けたものの、理学療法士としての資格は取っていない。だが名刺には恥ずかしげもなく理学療法士という肩書が記載されている。つまり国が堂々とモグリを行っているのである。
対策室が捉えた次の自殺候補者はこの病院に入院している。その為、死神憑きの優子が送り込まれたのであるが。
「おい優子見ろよ、ジジイもババアもよりどりみどりだぞ! たぶん死にたがってるんじゃないかなら殺してもいいんじゃないかそう考えるのが普通だろう。老い先短いのなら派手に散ったほうが本人どももニッコリだろ」
激しく興奮し、いつもよりも遥かに早口で喋り続ける太蔵を目線だけで抑え続ける毎日だった。
救助対象者の名は
22日前の朝に脳梗塞を発症、すぐに自ら救急車を呼び緊急搬送され、血栓溶解療法を受ける。意識は回復したものの、下半身不随の後遺症が残ってしまった。このことによりただ自死を望む日が続いているようで、リハビリを拒否し続けている。
「であるなら、助けてあげたいよね」
優子は短い髪を後ろで結び、光男の入院している4人部屋へと足を運ぶ。
「たぶん黒いドイツのアレが憑いてるから、いたら祓って」
かっこいいからという理由だけでドイツ語で命名されたトッドクーゲルだが、職員でそう呼んでいる者は一人もいない。恥ずかしいからである。
太蔵は無言でバットを奮った。任せておけの意思表示だ。よし、と扉を開けようとした時、バッグに入れているPHSが音を立てた。
「はい、八重咲です」
「あ、上島です。今忙しい?」
「うん」
スーサイド対策室同期の上島だった。
「ロリコンは薬で治」
「ごめんかけ直す」
この人のタイミングの悪さはなんなんだろう、と首を傾げながら優子は病室の扉を開いた。
〜 〜 〜 〜 〜 〜
「服部さん、お具合はいかがですか。13時のリハビリに見えないから心配になって迎えに来ましたよ」
渾身の作り笑いを顔に貼り付けながら、優子は服部光男に話しかけた。服部は顔だけを背け、しわがれた声で応じる。
「別に頼んだ覚えはない。どうせもう歩けないことはわかっている」
「けどこの先もまだ長いんですよ?」
「家に帰れれば、私は、それでいいんだ」
「なら、なおのことリハビリを」
「頼んだ覚えはない」
それきり何も言わなくなった服部を、太蔵がしげしげと眺める。その顔には大好物を前にした薄い笑いが見える。仕方なく優子は「時間なので」と言いながらバイタルチェックを始めた。
血圧を測りながら、優子が太蔵に目だけを向ける。太蔵は首を横に振った。自死に至らしめる黒い悪霊、トッドクーゲルは服部に憑いていないのだ。軽い失望を感じながら優子は体温計をアルコール綿で拭いた。
「36・3度。血圧も122の80、良好です。服部さん、次のリハビリは16時からですよ。待ってますね」
服部は何も応えない。
「来なければまた迎えに来ますよ。がんばりましょうね」
優子は服部に話しかけながら退室する。その声に服部は応える素振りも見せなかった。
〜 〜 〜 〜 〜 〜
リハビリ室に人が集中しているせいで、廊下には誰もいない。優子は太蔵に確認をする。
「憑いてないの?」
「いない」
「嘘じゃないよね?」
「『死神は宿主の命令に従わなくてはならない』」
太蔵は4箇条の1を口にした。
「つまり、わしがどうこうできる問題じゃない」
優子は押し黙り、太蔵の言葉を待つ。
「あそこにいるのはただの死にたがりだ。人生に絶望したただの老人だ。殺してやるのも救いだと思うが」
「それはできない」
「だが、わしは殺してやる以外に何もできないぞ」
こうなると優子はただの若者だった。トッドクーゲルに取り憑かれた自殺者に対する絶対的切り札、死神の力を使えないことに自分の無力を痛感する。それでも決意を小声で宣誓した。
「がんばりたい」
「ほう。どのように」
「えっと、学んだ理学療法とか、今までの経験とか」
腕を組んで無表情に見下ろす太蔵から目を逸らし、優子はもう一度小さくつぶやいた。
「がんばりたい。時間はかかるかもだけど」
「いいことを思いついた」
太蔵はなおも無表情で優子を見下ろしながら、珍しく真面目な口調で切り出した。
「色仕掛けだ」
「へ?」
「その薄っぺたい体を密着させてリハビリ室まで運んでやれ。率先して尿瓶を用意しろ。素手でつまんでやれ」
「なんで?」
「ジジイはそういうのに例外なく弱いからだ。もれなくほだされる」
何の遠慮も感慨もなく優子の全身を上から下まで眺めながら、太蔵は頷いた。悪気は一切無いようだ。
その頭部がひょうたん型に潰されたのは5秒後のことだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます