人生は短い。だが一月は長い
「あいたたたたたっ!」
自らの右腕に突き刺さった注射針に顔を思い切り近づけ、超近接距離で確認しつつ優子は悲鳴を上げた。霊の黒いドイツ語の奴、トッドクーゲルと接触したスーサイド対策室職員は採血検査を受ける規定になっているのだ。
接触そのものに肉体的な変化はない。だがそれを証拠として残すには検査数が足りない。職員の血は国民の安全を確実に保証する為の重要な材料となる。
顔を近づけすぎて作業しづらそうな看護師を見やりつつ、太蔵は気の抜けたような声で言う。
「寿命は取られるし血は採られる。この職場でいいのかお前は」
「いいんだよ。給料いいもん」
まだ注射針の感覚が残っているのか、顔をしかめて腕をさすりながら優子は元も子もないことを言った。
「室長にも報告したし、帰ろうか、太蔵。もう20時だよ」
今は冬。夜のとばりはとっくに下りていた。
〜 〜 〜 〜 〜 〜
アパートに戻りシャワーを浴びる。外は寒いが風呂桶にお湯を張るのはそう頻繁にできることではない。
タオルで髪を拭きつつ鍋に水を入れ火にかける。缶のまま発泡酒を飲もうとした優子は、なんとなく台所を眺めてガラスのコップに発泡酒を注いだ。そしてちゃぶ台の上に静かに置き、しばしコップを見つめながらため息とともに言葉を吐き出した。
「今日も一日があっという間だった……」
「一日が短く感じるなんて、まだお前が若い証拠だよ。わしなんか長くて仕方がない」
「けどね、発泡酒の泡がきれいに映る夜は、きっといい一日だったんだよ。そう思う」
ガラスの中に弾ける発泡酒の泡をしみじみと眺めながら、優子は太蔵の言葉を無視した。会話が若干噛み合っていない。アルコールに弱い優子は一口で酔いが回るのだ。すでに今日の出来事は優子の中でいい思い出になっているのだろう。
「歳を重ねると、一日はどんどん長くなる。だが一年はあっという間に感じるようになる」
自らの記憶をたどるように、太蔵を遠い目をしながら話を続ける。もともと優子に聞かせようと思ったのではないのかもしれない。
「まあ、そうだと思うよ」
急に同意を示し、優子はチビリと黄金色の液体を一口舐めた。
「一年なんかあっという間だよ。それは実感してる。一日の早さにもついて行けない。勤めだしてから本当にそう思ってる」
「おい、お湯が湧いたぞ」
「けど一週間は割と長く感じるし……」
「お湯」
「『人生は短い。だが一月は長い』。私はサラリーマンとしてこの言葉を後世に残したい」
優子は踊るような足取りで立ち上がり、スパゲティを鍋に投入。
「太蔵。4分、計ってて」
「てめえでやれや。そんなことに死神使うな……。いや、わかった、数えておくからやめてくれ」
優子の腕が雑巾を絞る形になったのを見た太蔵は、慌てて時計に目をやった。
「酒乱かよ、この女……」
「今日は和風スパゲティです」
全く噛み合わない会話の中、優子はめんつゆを右手で高く掲げた。スパゲティを茹で、めんつゆをかけただけのものを優子は「和風スパゲティ」と恥ずかしげもなく言い張っている。
なるべく気持ちが表情に出ないように、太蔵は客観的な感想を口にした。
「前から思っていたが、お前は野菜を買わないな」
「食べる分はあるよ?」
日の当たる窓際に置いてあるプランターからリーフレタスを数枚引っこ抜き、水で洗ってもしゃもしゃと食べ始めた。
「新鮮で美味しい」
「わしですら目頭が熱くなってくるわ……」
太蔵はため息を漏らしつつ、人の死を願う死神とは思えないアドバイスを送る。
「あのな、お前な。無駄かもしれないがな。一応言っておいてやる。そういうズボラさは、他人には見せねえことだな」
「大丈夫、こまめに水はやってるから」
台所で混ぜ終えたスパゲティをちゃぶ台の上に置き、優子は箸でそれを食べ始める。これが優子の食事スタイルだった。
これは、25歳の八重咲優子が自分の生命の終わりを認識し、逃れることのできない死を受け入れるまでの一年間の記録である。
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