花火の音は、もう止んだ。


 気まずげに逸らされた彼の顔が、頭から離れなかった。


 あれから、どうやって過ごしたろう。心に巣食う不安と疑問に支配され、朱華が答えのない迷宮を彷徨っている内に、花火はもう終わってしまっていた。気が付けば、いつの間にか帰りのバスに乗り、電車で最寄りの町まで戻ってきていた。

 家まで送る、と砂音に付き添われ。朱華は現在、一人暮らしのアパートへの帰路を歩いている所だった。双方、口数は少ない。他愛のない会話を成してはいるけれど、彼が何を言って、自分が何と答えているのかも、あまり理解出来ていなかった。


 朱華の脳裏を占めていたのは、やはり先刻の砂音の態度への違和感だった。思えば、花火の時だけではない。行きのバスの中でも、何処か様子がおかしかった。

 窓の外。遠くを見つめる彼の表情は、何かを思い詰めているようで。あの時も。朱華の方を見ないように、敢えて顔を逸らしていたのではないかとも思えた。

 それに、同じような違和感は、ここ最近ずっと抱いていたのだ。彼が時折、何だかよそよそしい。自分を避けているような気がする。……そう友人に相談したのは、たった昨日の事だ。


 友人達は、この夏祭りデートで、それらが全て朱華の思い違いであると。彼の朱華への気持ちを、きちんと再確認すべきだと提案してくれた訳だが。


 ――本当に、思い違い、か?


 またぞろ、顔を逸らす彼の記憶が脳内再生される。もう何度目かも分からない。

 勘違いを晴らして安堵を得るつもりが、逆に藪をつついて蛇を出してしまったのではないか。


 ――いや、でもまだ、そうと決まった訳でもないし……。


 避けられている気がする。キスを拒まれた気がする。といっても、まだ決定的な証拠はない。全ては朱華の考えすぎという可能性だって、まだあるのだ。


 ――確認、しなきゃ。


 そうだ。今度こそ、しっかりハッキリ、白黒つけようじゃないか。曖昧なままだから、こうも不安になるのだ。

 でも、どうやって……?

 そこでまた思考が堂々巡りを繰り返し掛けた所で、ふと前方を行く砂音が立ち止った。


「それじゃあ、俺はここで」


 ハッとして顔を上げると、そこは自分の住む古いアパートの前だった。考え事をしている間に、もう着いてしまったのだ。残された時が無いと知り、朱華は慌てて呼び止めた。


「ま、待って、音にぃ!」


 引き留めておいて、次に何を話すのかまでは考えていなかった。キョトンと見つめてくる彼の視線に一層慌てて、しどろもどろになる。


「きょ、今日! 楽しかった! ありがと!」


 最終的に、破れかぶれにそう告げて。ああ、そうじゃない、と己に内心ツッコミを入れた朱華だったが。砂音の方は得心がいったように、ふわりと相好を崩して見せた。


「こちらこそ。数年ぶりに朱華ちゃんと地元のお祭りに行けて、嬉しかったよ」


 それから彼は、「来年もまた、行こうね」と。確かにそう言った。


「来年も……一緒に居てくれるのか?」 


 思わず目を丸くして意外そうに訊ねてしまった朱華に、「勿論だよ」と彼は微笑わらう。その表情は、いつものように優しくて。

 見ていると、自分の悩みなどやはり気の所為ではないかと思えてきた。


 ――でも。


 それだけでは安心出来ない。――証が欲しい。少しの事ではもう揺るがないような、確たる証が。


「音にぃ……」


 相手の顔をじっと見据えて、意を決したように。再度、瞳を瞑った。――口付けを乞う仕草。流石に今度は、いくら鈍い彼だって、気が付くだろう。

 お願いだから。拒まないで欲しい。受け入れて欲しい。そうすればきっと、不安なんて、全て立ち所に吹き飛んでしまう筈なのだから――。


 肩にそっと、彼の手が触れる。軽く添えられた感触に、鼓動が跳ね上がった。間近に彼の呼気を感じる。期待と不安に、閉ざした瞼が震えた。喉元のものを、ごくりと嚥下する。

 彼との距離は、あと何センチ? 確かにそれは、縮まっていくように思えたが……しかし、次の瞬間。不意にその気配が、遠ざかっていった。


 え? と思った直後には、彼の手は朱華の頭を撫でていた。あくまでも優しい手付きで。いたいけな子供をあやすように。


「おやすみ、朱華ちゃん」


 暇を告げる合図の言葉に、朱華は目を見開いた。ハッキリと分かった。今のは、絶対――わざと、誤魔化されたと。

 実際には撫でられた頭だが、朱華はガツンと強く殴り付けられた気分になった。また目の前が暗くなる。ショックで戦慄わななく唇から、ぽろりと言葉を漏らした。


「……何で?」


 砂音の笑顔が消える。朱華は衝動のまま、疑問をぶつけていた。


「何で、キス……してくれないんだ? 音にぃ、最近何か……変だぞ。あたしの事、微妙に避けてるよな?」

「違」

「違わないだろ! 今だって、わ、分かってたよな? わざと誤魔化しただろ!」


 すると砂音は言葉に詰まる様子を見せた。それが、答えだ。息が苦しくなる。彼は何か言いたげに口を開いたが、躊躇っているのか、そこから続く言葉は出て来ない。


「あたし、何か……したかな?」


 その間にも朱華の口からは疑問が溢れ出ていた。一度堰を切ったそれは、自分でも止められなかった。


「やっぱり、あたしじゃ……駄目なのか?」


 知っている。彼には、大切な人が居た事。そして、それを残酷な形で失っていた事。それでも彼は、前を向こうと。共に未来を歩もうと。朱華の手を取ってくれた筈だった。

 そんなにすぐに忘れられる筈も無い。だから、焦らず、ゆっくりでいいと思っていた。……でも。こうも明確に拒まれてしまうと。


 思い知らされた気がした。


「あたしじゃ、音にぃの本当の彼女には、なれないのか?」

「違う!」


 思い掛けず砂音が大きな声を出したので、朱華はハッとして顔を上げた。彼は、至極真剣な顔をしていた。


「朱華ちゃんは何も悪くない。俺が……俺が臆病なだけなんだ」


 怖いんだ。――砂音は、そう言った。


「触れるのが、怖いんだ。俺は……これまで、沢山の人とをしてきた。……汚れてるんだ」


 でも、朱華ちゃんは、まっさらで。綺麗だから。――触れたら、穢してしまう気がした。


「怖いんだ。君を傷付けるんじゃないかって。君に触れたら……汚してしまうんじゃ、ないかって」


 君に触れたいと思う度。自分の穢れを思い出して、手が止まった。――でも。傷付ける事を恐れるあまり、逆にこうして、傷付けてしまっていたなんて。


「ごめん。……俺は、どうしようもない意気地なしだ」


 吐き出すと、砂音は痛むような表情を隠して、俯いた。そんな彼を見て。明かされた胸の内を聞いて。朱華はまた、苦しくなった。

 ああ……この人も、ずっと悩んでいたんだ。こんな、思い詰める程に。自分を責め続けて――。


 次に朱華が起こした行動は、無意識の産物だった。俯く砂音の襟に掴み掛かると、ぐいと引き寄せて――唇を重ねた。

 不意に得た柔らかい感触に。突然の事態に把握が追い付かず、砂音は虚を衝かれたように固まった。


 軽く触れただけですぐに離すと、朱華はそのまま、至近距離で砂音の榛色ヘーゼルの瞳を見つめた。意思の強い、燃える茶褐色アンバーの瞳で。じっと、逸らす事なく見据えて。


「音にぃは、汚れてなんかない」


 きっぱりと、そう告げてやった。


「それでも、汚れてるって言うんなら……いいよ。汚してよ。あたしの事」


 音にぃになら、構わない。そう続けると、彼は瞠目した。


「だから、そうやって自分を追い詰めるな。すぐ自罰的になるの、音にぃの悪い癖だぞ」


 悩みがあるのなら、話し合おう。ちゃんと。――もう、一人ではないのだから。


 最後に説教するように締め括ると、依然として硬直したままの彼の反応に気が付いて。ふと朱華は、寸の間時を止め己の今しがたの言動を思い返した。そうして、その大胆過ぎる内容に改めて自覚が湧くと――一気に、耳まで真っ赤に染め上げた。


「わぁあああっ⁉ ごっごめん‼ その‼ なんていうか‼」


 ――あああたし、音にぃの唇、奪っ奪……⁈


 今更ながらに大いに慌てて、掴んでいた浴衣の襟を離し。ついでに思い切り顔を逸らして身を捩り、「おやすみ‼」と叫んで、勢いでアパートの方に逃げ込もうとした朱華だったが。がしりと、その腕を掴まれて引き止められてしまった。

 びくりと身を竦め、恐る恐る振り返ると。切なげに柳眉を寄せ、真っ直ぐにこちらを見詰める彼と目が合った。ほんのりと色付いた頬。僅かに開いた艶めく唇。昂ぶりを示すように濡れたヘーゼルの瞳に搦め取られ、身動きが出来なくなる。


「お、お、音にぃ?」

「本当に……いいの? 朱華ちゃん」

「い、いい、って?」


 やばい。これは非常にやばい。初めて見る彼の雄の顔に、朱華の本能は危険信号を発していた。何とか話を逸らそうとするも、彼は至って真剣だ。


「――足りない」


 次の刹那、朱華は彼の方に引き寄せられてしまった。気が付いたら、腕の中。すぐ傍に、砂音の顔がある。ヘーゼルの瞳の奥には、静かな情熱が宿っていた。


「あれっぽっちじゃ、足りないよ。俺が、これまでどれだけ我慢してきたか、知らないでしょ?」


 プールの時の水着も。今日の浴衣も。いつもの私服だって。――君は、魅力的で。


「本当は、ずっと触れたかった」


 バスの中でも、堪えるの大変だったんだからね、と。そんな事を言われてしまっては、朱華はもう頭の中がパニック状態で。何も言えなくなってしまった。

 自分は今、どんな情けない表情をしているのやら。それすらも、もう考えられない。心臓がどくどくと、激しく鳴り響いている。こんなに近い距離では、彼に伝わってしまうかもしれない。


 頬に彼の手が滑り、ぞくりと背筋に甘い感覚が走った。見上げる先、長い睫毛が、伏せられて。ゆっくりと、二人の距離が縮んでいく。熱を孕んだ吐息と吐息が重なり合い、やがて、一つになる。

 花火の音は、もう止んだ。鼓動の音は、隠せない。



 (了)

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花火の音は、もう止んだ。 夜薙 実寿 @87g1_mikoto

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