委員会編10

「本当にあったんだな、温泉……というより大浴場か」


 草木も眠る丑三つ時。そんな深夜に、俺は一人大浴場の前で感嘆していた。


 穎稜学院の寮は大きく四つの建物が並んで正方形を作る形になっており、東西南北の順に男子寮、女子寮、共用棟、事務棟となっている。出入口が事務棟になっているのに対し、ここは真向かいの共用棟、その2階だ。普通にコンクリートに囲まれた廊下を進むと暖簾が掛かっているのだからその存在感は凄まじい。


 そもそも引きこもり体質の俺は基本的に一度部屋に入ると出てこないので、共用棟は一階の食堂以外は初見だ。


 恐る恐る暖簾をくぐるとそこには教室二つ分程度のスペースに長椅子が並べられており、奥で男女を分ける暖簾がかけられていた。立札を見るに早朝3時になると清掃が入り、終わり次第男女の浴場が逆になるらしい。


 俺が暖簾を潜ろうとしたところで、ふと背後から物音がした。


 繰り返すが、今は丑三つ時である。要するに、まあ、不気味なのだ。


 振り返り警戒していると、少しずつ足音が近づいてくる。


 土日はどうか知らないが、明日も普通に授業があるにもかかわらず、この時間に起きている生徒はかなり少ないだろう。まして大浴場に来る奇特な人物は少ないはずだ。やはり本命は警備員か、またはこんな時間まで残業に追われている哀れな教師という生き物だろう。


 足音が近づくにつれて何やら鼻歌らしきものが聞えてきた。それにしてもこの声は聞き覚えがあるような……。


 そうして、ついに部屋に入ってきたのは。


「哀れな生き物だったか」


 日中のスーツの代わりに薄手のシャツとパーカーにジーパンという極めてラフな格好をした月野先生だった。


「前から思ってたけど、何かと失礼だよね、東雲君」


「ああ、すいません。お疲れ様です」


「素晴らしく感情のない謝罪と労いの言葉ありがとう。もっとも君が今日連れ回してた琴乃ちゃんが原因だけどね」


 そう言えばこの人は理事長や探偵会社の支部長も兼任しているんだったな。元々多忙なのに気分で担任なんか引き受けたことが原因なので自業自得と言える。とはいえ、


「琴乃を待っている間に他の仕事をしたら良かったのでは?」


「いやー、ちょっとC組の先生とコピー機談義で盛り上がっちゃって……。しかも教頭先生に放任主義過ぎるって怒られたし」


 理事長に物申すとは……。どうやら教頭には逆らわない方が良いらしい。


 俺がまだ見ぬ教頭に戦慄していると、月野先生が珍しく目を潤ませて肩を落としていた。


 どうやら本当に参っていたらしい。


 と同情したのも束の間、月野先生はケロッとして顔を上げると獲物を見つけた肉食獣のようにこちらに歩み寄ってきた。


「こっちの事情は話したとして、東雲君はこんな時間まで何してるの? 覗き?」


「いや、こんな時間覗く相手もいないでしょう」


「まさか、狙いは私⁉」


 冗談で言っているのだろうが、自分の身を抱くような仕草が妙に色っぽく腹が立つ。


 俺はこの発言を無視し、最初の問いに答えることにした。


「放課後、珍しく歩き回ったんで、夕飯食べてから疲れて寝ていたんです。先ほど起きて、琴乃が今朝言っていたことを思い出してここへ来たという流れです」


「ほう。狙いは琴乃ちゃんか。今日も一緒だったしね」


 まったく、いい加減にして欲しいものだ。ここで否定すると「それはそれで怪しい」とか難癖をつけられて無限ループになる。


 俺は抗議の意を含めて軽く睨み返すと、月野先生はワザとらしく肩をすくめた。


 そして、先程までと声音が変わり、やや冷たいものとなった。


「それはそうと今日は琴乃ちゃんと何をしていたの? 聞いても教えてくれなくてね」


 琴野が言わなかったのは恐らく学校側からの介入を遅らせるため、できるだけ情報を与えたくなかったからだろう。だが、犯人を特定するにはこちらの情報はまだ足りていない気がする。


 情報交換をするなら今か。


「先生もすでにご存じかと思いますが、橋本さんの件を調べていました。ちょうど今朝現場にいたので」


「ほう、君たちが関係者だったんだ。で、犯人は?」


「情報不足で容疑者が三人に絞れたところまでです」


「ふーん。なるほどね」


 月野先生の鋭い眼光に見つめられ思考が鈍るが、情報を与え過ぎないように言葉を慎重に選ばなければならない。


 普段あれほど適当な雰囲気をだしているが、こうして対面すると表情からは何も情報が読み取れない。おそらく、ここまではこの人にとって新規性のある情報はないのだろう。


 緊張で冷汗が伝う。


 俺が次の言葉を待っていると、唐突に月野先生が頬を緩めた。


「ふふ、ごめんごめん、そんな警戒しなくていいよ。思っていたよりも捜査が進展しているようでなにより。これならブラフはもういいかな?」


「……ブラフ?」


「そう。この際だからハッキリ言うけど、学校側は全然情報を掴んでないんだよね」


「そんなバカな。保健室で休んでいた間に教員がカウンセリングを行ったのではないですか? 話をはぐらかしていた点といい、その言葉を信じるのは……」


「だから、それがブラフなんだって」


 この時、俺は思考を走らせるのに必死で間抜けな顔をしていたかもしれない。


 月野先生に笑われながらも俺はこのブラフをするメリットについて、ようやく一つ思い当たった。


「もしかして、俺達を焦らせて早々に解決させるため、ですか?」


「うーん、50点」


「赤点は回避したので答えをお願いします」


「もう少し向上心を持とうね、学生君」


 呆れた笑みを向けられ、仕方なく思考を巡らす。


 メリットデメリットは本人の主観によって変化する。日頃は水を買うことを躊躇う人でも、砂漠へ行けば数万円を払ってでも買いたくなるようなものだ。


 この人は担任としての印象が強いが、ほかにも探偵会社アネモネの支部長、穎稜学院の理事長という顔を持っている。


 ……理事長、か。


「外部に露見した場合に早期の対応をしていたことをアピールする必要があるんですか?」


「うん、99点。最近はマスコミやら教育委員会が五月蠅いからね。リスクマネジメントが必要なの。もちろん大事にならないのがベストではあるんだけどね」


 疲れた顔の月野先生を見るに、今日の残業の理由はこれなのかもしれない。


「ちなみに残りの1点は同情、だよ。完全な利益主義者の君なら分からないかもしれないけど、人間は99%の打算と1%の感情で動いているんだ。人と猿の違いが1%のDNAのなら、人とロボットの違いがこれだと私は信じてる」


 そう語る月野先生はいつの間にか疲れを感じさせないような、しかしどこか遠い目をして語っていた。


 1%の感情。


 確かに俺の主義主張とは一致しない。俺は人の行動は全て本人にとって最大の利益になる様に定められていると考えている。感情も打算も全て直感的な最大利益の結果に過ぎないというのがこの世の真理だと信じている。


 だが、何故か月野先生のこの言葉は、居心地よく俺の心に収まった。


「と、まあ教師らしい発言はこれ位にして、そろそろお風呂入ろ。一緒に入る?」


「俺の感心を返せ。というか発言が教師のそれじゃないですよ?」


「同僚には言わないでしょ?」


 俺はこのくだらないやり取りを紛らわすため、こちらに歩いてくる月野先生に適当な話題を振った。


「それにしても、こんな時間まで残業なんて大変ですね。なにか問題があったんですか?」


 正直、話題が逸れればそれでよかった。が、月野先生は何やら顎に手を当てて考え込む素振りをするとニヤリと笑みを浮かべて告げた。


「いやーね、昨晩うちの学校の生徒情報を管理してるデータベースに侵入があってさ。最近話題になってるでしょ? いろんな学校から生徒の個人情報が流出する事件」


 そう言えば昼休みに捲っていた新聞に何か書いてあった気もする。


「最初が一昨日で、応急処置として被害を受けた図書の情報だけ独立させたら今日は諦めたみたいなんだけどね。そもそも今回は手口が違ったし、図書室の情報だけだったから大丈夫だったけど、一部の先生が紙媒体にしろって騒いで大変だったのよ。あ、これはオフレコでよろしくね」


 随分と軽い機密情報ですね、とは言わなかった。


 脳内でいくつも情報が繋がっていく。


 そんな俺を置いて、月野先生は


「考え事してのぼせないようにね」


 とだけ告げて浴場の方へ向かって行った。


 暖簾の向こうに消えるその姿に俺は小さく会釈をした。

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