第15話
「ええと……きみのパパは今日、漁はお休み。でも用事があるとかで、きみにここで待っているように言って出かけてしまった。そういうことかな?」
あれから。
子供ニガテ、と腰がひけているアミアに代わり、俺は女の子から色々と事情を聞きだした。
「うん。パパぜんぜん帰ってこないの」
そんな風に言いつつも、さほど気にした様子もなく、宿題のノートを埋める手をちゃかちゃか動かしている。
「ほかの社員さんは?」
「おやすみ。いつもは、おばちゃんと、おねえちゃんがいるよ。おっちゃんたちはパパとおしごと。海に行くんだって!」
女の子が行ってみたいなぁー、なんて笑うのを見ると、まるで海水浴にでも行くみたいだが、おそらくそれ食うか食われるかのマグロ漁船(的なもの)だからな……。
「きみは、誰と住んでいるの?」
管理部のシステムによると、ボラクの家族構成は確か「契約者のみ(別居家族あり)」だ。その情報が正しければ、この女の子がまさに別居家族にあたる。
「今はパパ。……まえは、ママと住んでたんだけど」
そこで女の子は表情を曇らせた。
「ママは、おじさんと住むようになってから、あたしのこときらいになっちゃったみたい」
ああ……なんとなく状況が把握できてしまった。
「いもうとが生まれてから……いろいろあって、パパが来て、これからはパパといっしょに住もうねって」
いろいろあっての中身は、尋ねるのも憚られた。
家は男やもめ丸出しの、仕事は危険で留守がちな男が、一度は手放したこの小さな女の子を母親から引き取ろうとするくらいだ。おそらくそれなりの出来事があったのだと推測できる。
「今はじゃあ、毎日パパの家に帰るの?」
「ううん。おうちは、あぶないから帰れないんだって。夜はホテルってところにいるよ」
「危ない?」
「おじさんがくるから」
つまり……彼女の言う「おじさん」は、母親の恋人か再婚相手で、そいつに出くわさないようにボラクは娘と二人でホテル暮らしをしている。
「それって、いつ頃からかな?」
「うんと……学校が夏休みになったとき」
アミアを見ると、多分2ヶ月くらい前かな、と教えてくれた。
俺たちが立ち寄るずっと前から、ボラクは家には郵便物を取りに行く以外、寄り付いていなかったのだ。
だが彼の滞納は20週、約4ヶ月だ。ホテル暮らしの負担は間違いなく家賃滞納に影響しているとは思うが、支払いが滞りはじめた発端は別にあるとみるべきだろう。
「ここで、パパが戻るまで待っていていいかな?お嬢ちゃんの邪魔はしないから」
幸い、女の子はいいよ!と元気なお返事をしてくれた。
嫌と言われれば表で待つだけだが、事務所に居座る許可がもらえるならそれに越したことはない。ボラクやほかの社員が現れた時に、子供を人質に取ったと思われても困るしな。
……と、いうようなことを考えていたところ、視界の隅、床のあたりで何かが動いた。
何気なくそれに注視すると、事務所の中央に四つ、向かい合わせに並んだスチール製の事務机の足元に、土色の水たまりがあった。
表の道路は濡れていただろうか?
一瞬考えたが、道といっても『塔』では室内だ。雨は降らないし、第一地面ではなくて床のはず。
「ラッチャ!融けろ!!」
聞き覚えのない男の声が響き、女の子が弾けるように立ち上がった。
状況を正確に把握したわけではなかった。しかし俺は咄嗟に女の子の手を両手でつかみ、それでも痛くない程度に手加減しながらきゅっと包んだ。
同時に彼女の背後に、土色の肌の全裸の男が床から生えるように立ち上がる。
こいつ、さっきの水たまりだ!
「ボラクか!!」
「む、娘を離せええ!」
べしゃ、と水っぽい泥のような音を立てて男の手のひらが俺の額を叩いた。そのまま女の子から引き離そうと、ぐいぐい押してくる。
「泥鎮族って、そういう特技があるのかあ。斬っても元に戻れるのかな?」
ボラクの手が目の周りも覆っていてよく見えないが、隣のアミアから恐ろしい殺気が放射される。
「ああもおお、アミアさんダメ、我慢!子供の前でしょ!ボラク、あんたも落ち着いてくれ!危害は加えないから!」
必死で叫ぶ間も女の子の手を離さないようにしていたのだが、だんだんそれがぬるりと水気を帯びてきて、思わずのぞきこんだ。
「パパ……」
ンーっ、と全身に力を入れて、女の子がぷるぷる震えていた。
俺が握っている手と手首、肘のあたりまでが、陶芸で使う土みたいにじわじわと濡れていくのだが、そのスピードはとても遅い。
「パパみたいに早く融けられないよお」
女の子は涙目で背後の父親を振り返った。
「とりあえず、いきなり殺したりはしない。あんたの状況を確認して、滞納を解消する手立てを探すのを手伝うだけだ」
すっかり乾いて、娘と似た素焼きの陶器みたいな質感の肌になったボラクが疑わしげな目つきでこちらを見る。ちなみにもう裸じゃなくて、ロッカーから出してきたシャツと作業ズボン姿だ。
「本当だな?俺にもラッチャにも、手を出さないな?」
「家賃を払っていく意思があんたにあるなら。踏み倒す気なら……仮にも狩猟船の乗組員なんだ、滞納者がどうなるかは知ってるだろ?」
いかにも海の男らしい締まった体つきと素朴な顔貌のボラクは、隣に腰掛けたラッチャ――女の子の名前だ――の肩を抱き寄せて、ため息をついた。
「ああ。こんなに長いこと滞納するつもりじゃなかった。元嫁のことで、トラブっちまって……今日のところは、手持ちで少し払いたい」
「そいつは助かる。たとえ分割でも、払うって話になら乗れるからな。だが、あんたの収入なら本来は家賃に苦労しないだろう?どうしてこんなことになったんだ」
ボラクは考えながら、訥々と話し始めた。
ボラクと元妻……ラッチャの母親が別れたのは一年半ほど前のことらしい。
元妻はそれよりもかなり前から今の再婚相手と不倫をしていて、相手の男のところに入り浸っていた。
いざ別れることが決まった段階で、ラッチャをどちらが引き取るか、少し揉めた。双方が自分が育てると主張したためだ。
この時すでに元妻は不倫相手の子を身ごもっていた。そうでなくても、その相手の人柄に問題を感じていたボラクは、当然譲るつもりはなかった。
しかしラッチャはその頃はまだ優しかった母親に懐いていたし、男親ひとりで娘を育てる難しさ、自分の仕事の危険さなど、諸々を考え、迷いが生じた。
そこで、ラッチャ本人に尋ねてみたのだ。パパとママ、どちらと暮らしたいか?
ラッチャは迷った結果、ママと答えた。
ママと住んでもパパは会いにきてくれる。でもパパと住んだら、ママとは会えなくなるかもしれない……そんなことを言ったのだ。
ボラク自身は、母親にラッチャを会わせないつもりなど毛頭なかったし、なんならどうしても仕事の都合で帰れない時など、母親に預けることも視野に入れていた。
だが、妻の恋人はどうだろう?彼女が娘に会うためにボラクと関わるのを歓迎しないかもしれない。
ともあれ、ボラクはラッチャの意思を尊重して元妻に委ねた。
別れる時には、当然とばかり、養育費としてかなりの額をむしり取られた。なにしろ元妻の再婚相手は他種族、強面の武闘派で、ヤバい生業を主としていると噂の部族の構成員でもあったのだ。
ここでまず、ボラクの資産状況は一気に傾いた。それでも狩猟に出ていれば収入が途切れることはないし、家賃を払えなくなるまでにはまだ至らなかった。
悪い方への転機は、元妻の出産、つまりラッチャの妹が誕生したときだ。
違う種族同士でも、子供を作ることはできる。生まれる子供は、両親のいずれかの種族になるが、ほとんどの場合、どちらになるのか誕生までわからない。
ラッチャの妹は、泥鎮族だった。
夫婦関係が冷めて久しかったのもあって、ボラクには身に覚えがなかったにも関わらず、元妻は産まれた子供がボラクの種であると主張した。
元妻も泥鎮族なのだから、再婚相手との子が泥鎮族になってもなんら不思議はない。しかし彼らの主張いわく、肌の色が元妻よりもボラクに似ている、覚えがないのは酔っていたからだ――とか。なんとも理不尽である。
そうして、ボラクはさらに産まれた赤ん坊の養育費まで要求されるようになったのだ。
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