第11話
遠くに聞こえる怒号をきっかけに、意識が浮上した。
「……っくしょおおお!もう死んでやるっ殺せえ!ほら殺せえ!」
「死ぬなら家賃を払ってからにしやがれ!」
わあわあわあ。
……今日も元気だなあ。
目覚めのBGMは守衛と滞納者の揉める声。起きたら自宅のベッドという展開じゃないことを理解してがっかりする。
ここは『塔』管理部の守衛宿直室。ランギーに許可されて宿泊し、やっと三日目の朝を迎えたところだ。
まだ寝ていたい気分ではあるが、壁の時計は7時近くを指している。
仕方なく、毛布を剥いで起き上がった。
くっさ。宿直室の寝具には野郎の体臭が染み付いている。俺だけじゃなくて、多分何年も蓄積されてるやつだ。三晩にわたって使っているが、全然慣れない。
簡易ベッドがきしみ、ペラペラのマットレス越しにスチールの骨組みの感触が尻に伝わってきた。
疲れが溜まりつつあるが、我慢だ。
立ち上がり、同じベッドが四つ並んでいる隙間を通って、突き当たりの小さな洗面台に向かった。
蛇口の横の小さなスペースに無理やり置かれたプラケースから、石鹸を取って泡立てる。
しかし気をつけないといけない。
これは初日の夜、誰かが荒事の後に手を洗ってそのままにしたのか、赤黒い血が付着してマーブル模様になっていたのだ。今朝は大丈夫。
手と顔を洗い、髭をあたって、歯も磨く。
カミソリや歯磨きセット、タオルなどはコンビニ(素晴らしいことに、ここにもあるのだ)で買った。安っぽいものだが、滞在がどのくらいになるのかわからないので、ランギーがくれるバイト代を必要以上に使うのは怖い。
正面の水垢だらけの鏡をのぞくと、冴えない顔をした中年男がこちらを見ている。
床屋に行ってからそんなに経っていないので、髪は手櫛でなんとか整う。
服は登山していたときと同じだ。紺のTシャツにカーキ色のトレッキングパンツ。そろそろ臭う気がする。
上に着ていたウインドブレーカーはハンガーにかけ、壁のフックに吊るしてある。管理部は空調が効いていて、上着はなくても問題なかった。
俺。
現在、遠くの惑星(多分)にて遭難中。帰る方法、大募集中。
◇◇◇
「おはようございます……」
朝からトラブっているエントランスは避け、管理部に顔を出した。
『塔』管理部は11時から15時をコアタイムとするフレックス制だ。
大体9時から10時あたりが皆の出勤のピークらしく、8時前の今、予想通りオフィスは無人だった。
窓際の管理職席のほか八つのデスク、この部屋は管理部滞納課のオフィスだ。
ランギーとの約束では『管理者さま』と会える(可能性のある)三日後まで俺を保護してくれる、ということになっていた。
今日がその待ちに待った三日目。
この三日、昼間はアミアについて滞納者との訪問と面会をして過ごした。何件かさほど難しくないケースで取り立て完了し、日当も無事支給された。
業務時間外は管理フロアに滞在して、ちょっとした買い物や食事は、仕事のついでに済ませるか、滞納課の誰かの出入りに便乗して乗り切った。
保護とは単にこれだけの話なのだが、実際非常にありがたかった。
なぜなら例の、俺が一人で歩けば数分で死ぬという件、最初の日の夜のうちに身をもって体験したからだ。
アミアとランギーにくっついて、昼食の屋台よりはややお高めの、カフェっぽい店で夕食をとった後のこと。
もちろん俺も自分の身の安全のために、女性二人が昼間話題に出していたブランドのショップに同行した。
件の30%オフのバッグとやらを買うのに、二人は店の外で、整理券配布の行列に並んだ。俺には購入意思がない以上、そこに混じるのは良くない。
「あんた、絶対にあたしとアミアの目の届く範囲から出ちゃダメよ。この通りは割と危なくない方ではあるけど……」
「まだご飯どきですからねえ」
二人はそんなことを俺に言い含めた。
彼女らの口ぶりからすると、俺も豚忌族のように他の種族から捕食対象として見られているっぽいんだよな……。
かくして、俺はブランドバッグを求める行列の周囲をうろちょろしている連中の一人となった。
並んでいる女性の付き添いと思しき男や、行列の理由を確かめに来ただけの野次馬なんかに混じり、俺も狭い通りの反対側に立っていた。アミアとランギーは、おしゃべりで待ち時間を潰している間も、俺に注意を払ってくれている。
いよいよ整理券の配布が始まり、列が動いた。多分その時、二人の目線はわずかの間、誘導する係員に向いたのだ。
一瞬で、俺は頭の上から伸びてきた腕に掴まれて、引っこ抜くようにして近くの路地に連れ込まれた。
悲鳴を上げる間もない早技だった。
地面に投げ出され相対したのは、大きな丸い二つの目、逆三角形に見える顔。フェミニンな花柄のワンピースが巻き付いた細長い胴、前方に曲げた二本の腕。
俺の頭を掴んでいた手は、見る間に渋い緑色の鎌に姿を変えた。
そこでやっと相手が何に似ているのかわかった。カマキリだ。
「いただきまぁす」
女性の可愛らしい声と共に、口が上下左右にぱかりと開いた。
『塔』に着いた直後の、大きな顔の化け物との邂逅がフラッシュバックし、体が硬直する。
あっダメ食われる――
「逃げるとか抵抗とか、してくださいよう」
重たい衝撃音は、呆れたような声と同時だった。
カマキリ女性は頭を蹴られて横に吹っ飛び、叩きつけられた地面を数メートル滑って止まった。
「痛い!何よあんたぁ!」
「ごめんね、一応このおじさんは管理部で保護してるから」
意外と元気に起き上がった女性に、着地したアミアは素直に謝った。
「あのね、確かにおいしそうな匂いするけど、よく見て。おじさんだよ。やめとこ?」
「はあ……そうだね、お腹すいて血迷ってたかも。悪かったわね、おじさん」
カマキリ女性は二足歩行の姿になって、気まずい様子で去って行った。
助かった、食われなくてよかった。
なのに、なんだか貶されたような気分になるのはなぜだ……。
その後、アミアがバッグを買うチャンスを逃して一悶着あった。結果的にはランギーが確保した分を譲る形でおさまったが。
それまで半信半疑だったが、さすがに信じざるを得ない。どうやら俺は、保護者つきでも油断すると腹を空かせた住人に捕食される立場らしい。
ここは正しく弱肉強食の世界で、俺は群れからはぐれた草食動物のようなものなのだ。
一日目の夜のことをひととおり思い出して、切なくなった。
それでも、朝日の差し込む管理部滞納課の無人のオフィスは、今現在の俺の貴重な癒しの空間だ。
窓のない場所が多いだけに、今までの人生であまり意識したことのない、日の光のありがたみを実感する。
デスクのうち、廊下から手前の二箇所は空席だ。俺はこの三日、その一つを使わせてもらっていた。
実を言えば、この部署は扱う事業の規模の割に少人数すぎる。どうもそこには、単にシステムで効率化されていること以上の事情があるようなのだが、今のところ尋ねてはいない。
「そなたが拾われた男とやらか」
なんの前触れもなく、背後から低く艶のある女性の声が聞こえる。
驚いて振り向くと、そこには非常に大きな人物が立っていた。
大きいというのは文字通りの意味で、身長は目測でも軽く2メートル半はある。しかし全体のバランスで見れば華奢に見える体型で、声で予想した通り女性だ。
この『塔』に来てから色々な種族を見たが、二足歩行の姿でここまで身長のあるヒトとは初めて会った。滞納課のオフィスは三階分くらいの天井高があるから問題ないが、一般的な高さしかない廊下ではかなり窮屈なはずだ。
衣服は細身のシルエットの白い長袖ワンピース。緑がかった黒髪を肩のあたりでゆるくまとめてある。
年齢は、若いようにも見えるし、俺と同年代かそれ以上であってもおかしくない。整った顔立ちと穏やかな表情なのに、不思議な威圧感がある。
「儂がこの『塔』の管理者じゃ。他の者に見つかると色々うるさいのでな、先に確認しておこうと思ったのだ」
古風というより、フィクションに出てくるような老人風の話し方で、女性はあっさりと種明かしした。
「あっ、あの、わざわざ来ていただいて、ありがとうございます。幸田次年といいます。アミアさんが、俺の置かれている状況は『管理者さま』でもなければ解決できないだろうと」
今回は名乗り遅れなかったぞ。
「よい、大体事情は把握しておる。そのまま座って、じっとしておれ。すぐに済む」
『管理者さま』は大きな体を屈めて、俺の方へ手を伸ばした。
額に指先が当てられる。
とたん、嗅いだことのない、何かが焦げるようでもあり、かすかに甘くもあるようなにおいが周囲に広がったのを感じた。
「……ふむ。まさかとは思うておったがのう」
ひどく複雑そうな顔で、そんなことを言われる。
「少し、考えをまとめる必要がある。ランギーには今日中にこちらから連絡すると伝えておくのじゃ。ではな」
俺の額から離した手をそのまま軽く振り、『管理者さま』は背を向けた。
「え、あ、はい」
返事を言い終わらぬうちに、彼女の姿は溶けるように消えてしまった。
「ええ……?」
消えたって。何だそれ。
光学迷彩的なやつか?それにしたって、きれいに消えすぎだろう。
夢を見ていたのか、それともこのところのストレスで俺の頭はついにイカれてしまったのか。
どっちもあり得るから困る。
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