第10話

「……あらあらあら。何かあるとは思っていたけれど、やっぱりそんなことだったのね」

 おっとりした口調で言うのは、白い薄物のドレスに身を包んだ美女だ。

 夜会巻きの赤い髪に白目のない黒い瞳、ふっくらと巨大なバストにくびれたウエスト、ふくよかな腰。

 ただし背中では全長3メートルはある蝶の羽がゆっくりと羽ばたいており、腕は二対に脚が一対、要は全部で六本の昆虫と同じ数である。

 美女は頭の触角をゆらゆらさせながら、しどけなく脚を崩してくつろいでいる。

 彼女の座っているのは椅子ではなく、部屋の一段高い場所にある巨大なホタテの貝殻の中。貝柱の代わりに、ベルベットのクッションが並べてある。

 このヴィーナス誕生を悪趣味に再現したロケーションの中心にいるのが、マダム・バビ。高級娼館『蝶のまじわり』のオーナーにして、闇蝶族の大物でもある。


 俺とアミア、ザルケラに息子のワンビオ、そしてヌルムルは、『蝶のまじわり』のオーナー室に移動していた。

 マダムののインパクトに負けず、オーナー室自体もすごい。

 外に面する窓はないが、ガラスを嵌めたフェイクの窓枠を覆うのは重厚な金襴緞子のカーテン。壁には白いマントルピースに囲まれた暖炉(本来薪なんかを置いて火を焚く場所には、白いバラを活けた壺が飾ってある)、乳白色の大理石の床には細かい織柄のじゅうたん……

 要するに、俺のような庶民は滅多に足を踏み入れる機会のない、金のかかっていそうなインテリアの部屋だ。

「それで、黒幕の咬蛇族大幹部というのが、あなたなの?ヴィヘルさん」

 あくまでも優しく、可憐な笑顔で尋ねるマダムの視線の先には、優雅な曲線シルエットの家具で構成される応接セットがある。そこに掛けているのが、ザルケラの家から一緒にやってきた5人と……

「スービは幹部にしておくには問題の多い男でね、誰が殺るのか押し付け合いのような状態だったのですよ」

 たまたま、成功してしまったのが私というだけでね、と皮肉げに微笑むのは、針金のような質感の銀の髪をオールバックにし、眼鏡をかけた怜悧な印象の男だ。

 クチナワ・ファミリーのヴィヘル。結局スービの後釜に座ったのは、別の者であるらしい。

「そんなことに巻き込まれるのは迷惑ねえ。あたくしのお店は、まだ一年前の件のダメージから完全に回復したとは言えませんの。ことが明らかになったからには、なんらかのオトシマエをつけてくださるのでしょう?」

 ヴィヘルは長い脚を組み、ゆったりと椅子に掛けている。高級そうなスーツ越しにも、細身だがしっかりと鍛えられた体つきなのが見てとれた。

 こいつの隣に並んで立つのは嫌だなあ……。

「私どもも彼が大老の親族でさえなければ、事故など装わず、ただの権力闘争として内部で処理できたところなのです。結果的にそちらに迷惑をかけたのなら、それなりの補償はさせてもらいますよ」

「だ、だったら最初からあたしを陥れるようなマネしないでくれよ」

「あなた自身が、ヌルムルへの報酬だったもので。まあでもバレたなら仕方ない。こいつに全部かぶせて、店とザルケラ嬢に非はないと発表しましょう」

 親指で指されたヌルムルは絶望的な顔になってうなだれた。まだダクトテープでぐるぐる巻きのまま、応接セット横の床に転がされている。

「あー、それなんですが、なんとか全て不幸な事故だったって方向でおさめられないですかね?」

 ヴィヘルは片眉を上げて俺を見た。

 しかしスービ殺害はこいつが企てたことだというのに、当人の前で堂々とヌルムルに全部の罪を着せる発言とは……権力のある悪党って恐ろしい。

「一応、彼を生かす努力をするのを条件に、真相を話してもらったものですから」

「そんな口約束、守る必要などあるものですか。大丈夫、何か言う間もなく始末いたしますからね」

「ああいや、そういうことでもなく……」

 まずいぞ、ヴィヘルの言う通りにしたい気持ちになってきた。だってこの男、明らかにヌルムルよりも感じがいいのだ。

「一年前の件、それほど大袈裟に考えなくても、じゅうぶん事故で解決できると思うんですよ。要は、問題のドラッグが何で、どうやってスービの口に入ったかさえ、曖昧にしておけばいい」

 続けて、とヴィヘルが仕草で示す。

「こういうのはどうですか。あの日、スービはプレイに新しい刺激を加えるために、ドラッグを使いたかった。しかし『蝶のまじわり』は客の持ち込みを禁止している。そこで自らの高い耐性を利用して、ドラッグを口に含んで持ち込み、ザルケラさんとの行為をはじめた」

 スービ本人が死んでいる以上、直接関わった者以外には確かめようのない話である。そして、嘘は最小限。

「スービは知らなかったが、ザルケラさんはドラッグ慣れしていなくて、たまたま特異な症状に陥った。結果、不幸な事故が起こる」

「なるほど。確かにその話では、ドラッグ自体は別に何でも良い。スービはまさか、自らも毒を持つ種族であるザルケラが、そこまで耐性が低いとは思っていなかった……そんなところですか」

「ええ。どうでしょうかね」

 死人に口なし。故スービ氏には悪いが、生者の生活のために、彼の評判は犠牲にさせてもらう。

「スービはもとより素行のいい方ではなかった。店の禁止事項を無視するというのは、いかにも彼がやりそうな話と受け止められるでしょう。いかがですか、マダム」

 問われたマダムは、触角をまたゆらゆらさせながら少し考える様子で口を開いた。

「そうねえ。店としては、改めて持ち込みのドラッグの禁止を強く打ち出せるし……悪くないかもしれませんわね。女の子たちの中には、小さな子供のいる子も多いんですの。あたくしの店はその子供たちの生活も支えているのですわ」

 ザルケラに抱かれて今は眠っているワンビオを皆が少しの間、注視した。

『塔』にはワンビオより恵まれない境遇の子供などいくらでもいるだろう。だが少なくとも目の前にいる彼の人生は、わずかでもマシな方向に向いたはずだ。


 その後、マダムとヴィヘルの間で詳細が詰められた。

 ザルケラは明日から『蝶のまじわり』に復帰、マダムから借金して滞納家賃と豪虎金融の債務を返済するのが決まった。

 さらにマダムへの返済が終わるまで、従業員用に押さえている住戸に入居できることにもなって、親子の身の安全はこれまでよりもかなり改善する。

 その場でザルケラの口座に300万円が送金されたので、続いてスマホからの操作で返済も完了。アミアの端末のデータも即時更新されて、めでたく滞納額ゼロとなった。

 なんたるスピーディな処理。地方自治体の安システムとは比べ物にならない便利さだ。

「ありがとうございます、マダム。あたしまた頑張って働きます。……あんたたちも、助かったよ。管理部がここまでしてくれるなんて、思ってもみなかった」

 感極まった様子のザルケラだが、彼女が咬蛇族に搾り取られた資産の扱いが浮いていることを忘れている。そもそもハメられたのだから、その返還も求めるべきじゃないか?

 俺はさっきからそれをどう指摘するか迷っている。

 なにしろヴィヘルは見た目は穏やかでもマフィアの幹部みたいなものだ。ここまで平和に話し合いができたので、怒りを買わずに終わらせたい。

「このおじさんは、お節介のしすぎです。管理部が皆こうだと思っちゃダメですよ。せっかくちゃんとした部屋に戻れるんだから、今度は滞納しないでくださいね」

 アミアはそこでチラリとマダムに視線を向けた。

「ところで、『蝶のまじわり』としては一年前にザルケラさんが咬蛇族に差し出した資産って、どう扱うつもりですか?返してもらわなきゃヘンだと思うんですけど」

 よく言ったアミア。空気読まないって強い。

「確かにセキュリティ強化の勉強代というには、額が大きすぎるかしら。クチナワ・ファミリーとしてはどうお考えになるの?」

「おや、気付きましたか。良いでしょう、ファミリーの財務担当と相談ののち、お返事いたします」

 よかった、これで概ね解決したはずだ。


『蝶のまじわり』を出て、俺とアミアは二人、管理部オフィスに向かうためエレベーターを待っていた。

 窓がないのでわかりにくいが、時刻は16時すぎだ。外が見えれば、あのどこまでも続く水平線に太陽が沈むところを拝めるのだろうか。

「あっ、ランギーさんからだ」

 エレベーターが到着し、乗り込んだ直後に着信音が鳴った。スマホをいじっていたアミアは、すぐさまスピーカーモードで応答する。

「二人とも、お疲れさま。こっちでもザルケラの滞納分、入金を確認したわよ。よくやったわね」

「お疲れさまでーす。ちゃんと生きてるし、なんと今後の滞納まで防げちゃう感じで処理しましたよう」

「あら、誰の功績?」

「……おじさんの」

 少し拗ねたように、アミアは小声になった。

「だと思った、と言いたいところだけれど、マダム・バビから直接連絡があって顛末を教えてくれたの。今日の功労者は、そこで聴いているのかしら?」

「あっ、はい!います」

 心臓がキュッと締め付けられる。なにしろ、この取り立てには命と貞操がかかっていた。

「あなたを『管理者さま』に取り次ぐまで保護する約束だったわね。いいわ、三日間の臨時アルバイトとして採用しましょう。日当を支給して、守衛の宿直室に泊まる許可を出す」

「あ、ありがとうございます!」

 これでなんとか、生きて日本に帰る希望がつながった。

「よかったですね、おじさん」

「アミアさんも、ありがとう。というか君がいないと無理だったよ、今日のことは。ただ……そろそろ名前で呼んでくれない?おじさんじゃなくてさ」

 自称するのはともかく、人から呼ばれるのには抵抗があるお歳なんだ、まだ。

「だめかな?」

 重ねて尋ねると、アミアは目をぱちくりさせて、首を傾げた。

「多分気づいてないだろうから教えてあげる」

 ランギーの声は笑いを含んでいた。

「あたしたち知らないわよ、あんたの名前。教えられてないからね」

 ……あれっ?

「さて。アミア、もうすぐ着くんでしょう。報告書の作成が済んだら、ご飯でも食べましょ。そのあと行くのよね?マリプルーミのバッグを見に」

「行きまあす!やったあ」

 喜ぶアミア。

 一方、俺の脳内ではこのどこだかわからない『塔』に来てからのことが、高速で再生されていた。

 名乗ってない。

 名乗ってないわ〜……嘘だろもおお。

「仕方ないから、名無しのおじさんも連れて行ってあげるわよ。一人で出歩いたら、が誰かの晩ご飯になりそうだからね」

「おじさんなんか、おじさんで十分です」

 つんとそっぽを向かれた。

「いやっ、その、いっぱいいっぱいで忘れてた!ええと、申し遅れましたが、俺は――」

 タイミングよく停止したエレベーターから弾んだ足取りで降りたアミアを、俺は慌てて追いかけた。

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