人を待たせるのはなんともないけれど人に待たされるのはつらい問題の専門家、モグラ太郎先生の回
音楽(トゥットゥットゥ〜タラララ〜ン♪)
パーソナリティ いちかわさとる: みなさん、こんにちは。いちかわさとるです。今日から始まりました教養ラジオ「アルテスの中庭」です。この番組では、毎回さまざまな領域の専門家をお呼びして日常の素朴な疑問をとことん掘り下げていきたいと思います。
記念すべき第1回目の本日は、「人を待たせるのはなんともないけれど人に待たされるのはつらい」問題の専門家、モグラ太郎先生にお越しいただく予定になっておりますが、たいへん遺憾なことに先生がまだ来られておりません。
い: すでに収録の時間が来ておりますのでこうして私一人で話しております。まだ来られる様子もないので、荷は重いですが、私一人でこのテーマについて考えてみたいと思います。「人を待たせるのはなんともないけれど人に待たされるのはつらい」問題。私はこれ聞いたとき、まず真っ先に (逆じゃないのか?) という疑問をもちました。
い: 私にとっては他人を待つことは、今のような場合でさえ、それほど不快ではありません。しかし、約束の時間に遅れ他人を待たせている時間は苦手です。そのあいだは身を焦がすような苦痛に苛まれます。信号を待つ間も何度も時計を見てしまい、ブレーキを踏む足も落ち着かず今か今かと膝を揺らしてしまうでしょう。じっさいには早めに行動することが多く、あまりそういう事態に陥らずに済んでいます。
今のこの状況を見る限り、どうやらモグラ太郎先生なる人物は本当に待たせるのは平気という胆力の持ち主のようです。あるいは彼の身に何かあったのかもしれません。「人を待たせるのはなんともないけれど人に待たされるのはつらい」問題の専門家と名乗っているからにはおそらく安泰なのでしょう。問題の専門家というのはまさにその問題を抱えている人、渦中にいる人のことなのでしょうか。たしかに問題から距離を置いて俯瞰できる人だけが専門家とは限りません。そしていったいこの場合の問題というのは誰にとっての問題なのでしょう。謎は尽きません。
い: 今ふと思い出したのですが、私は以前ある印象的なホラー映画を観たことがあります。登場人物の学生らがカメラで撮影したホームビデオという形をとった映画です。視界は狭く、揺れの多い映像の映画なのですが、低予算ながらリアリティがある秀作として評価されていたように思います。
私はホラー映画はあまり見ないのですが、この映画は強く印象に残っています。アマチュアビデオという物語の枠がどうしてか特別に思えたのです。それは他の映画とまったく違います。その映画が進行するとき、必ず登場人物の誰かが意図してそれを撮影しており、カメラも撮影の意図も物語の世界の一部なのです。
改めて考えてみれば奇妙なのは他のふつうの映画や演劇の方でしょう。たとえば、自分の部屋でたった一人でウイスキーを飲んで泣いている主人公。物語の世界では、部屋には他に誰もおらず、もちろんカメラもありません。いったい誰がそれを物語るのでしょうか。
い: ホームビデオ形式の映画は物語が進行することにいちいち理由が必要です。必ず何かしらの理由で撮影している。その経緯がなければ我々に物語は届かないはずです。逆に場面と場面と間の、撮影されなかった登場人物の行動があるんじゃないか、そう思わせるような意味深な筋書きもあの映画が印象に残る理由のひとつでしょう。
あの場面で、なぜ彼女がそれまでのパニックから立ち直ったのか。何かを覚悟したように暗闇に進んでいったのは、なぜなのか。前の場面からその時までに何があったのか。それまでの描写から考えられる可能性はいくつかあります。いずれにしても他の誰かのためでしょう。そして、それを撮影していたのは映っていない二人のうちどちらなのか。あったかもしれない出来事や、明かされない謎には背を向けたままカメラはついに脅威に対峙します。
い: なぜあの映画のことを思い出したか。それはラジオの世界と根本から異なるからでしょう。撮影されなかった物語は割愛され、映画の進行とは別の時空に存在することができます。それは実はふつうの映画でも、小説でも同じでしょう。うまく編成されて差し出された物語に冗長な部分はなく、そこは何も起こらないということだけは起こり得ない世界です。
しかしラジオのライブ放送では、物語の不在、あるいは起こらなかったこと、起こったけれど表現されなかったことを暗に表現するということはできません。こうして私が今ここで口頭で話しているこの言葉は、以前の録音ではなく、新聞の片隅や本のページに印刷された文字ではありません。私がここで十秒間黙れば、きっちり十秒間リスナーの皆さまをお待たせすることになります。私にはそれが耐えられません。千夜一夜物語のシェヘラザードのように話が途切れてしまう事態を恐れながら語っております。
これは別にラジオのライブに限ったことではありません。よく作られたフィクションでなければ、日常会話も現実の生活も何もおなじです。意味はなくても、何も起こらなくても、沈黙が気まずくても、ただ一様に時間は過ぎています。都合よく事件が起きて、手がかりが見つかってというわけにはいきません。私たちは誰かを待たせているのでしょうか。それとも何かを待っているのでしょうか。私はただリスナーの皆さまをお待たせしていないことを祈るばかりです。
い: そろそろ時間がやってまいりました。教養ラジオ「アルテスの中庭」、放送第1回でした。今回のテーマは「人を待たせるのはなんともないけれど人に待たされるのはつらい」問題でしたが、たいへん申し訳ございません、専門家のモグラ太郎先生不在のままお送りすることになりました。
…おや、どうやらこのスタジオにも舞台装置の神様がおわしたようですね。今ちょうどスタッフがケータイで話しながらこちらに目で合図しています。
音楽(トゥットゥットゥ〜…
い: モグラ太郎先生と連絡が取れたようです。スタッフが片手でメモ用紙に何か書いてますね。ああ…、「今起きた」。
音楽(…トゥルットゥタラララ〜ン♪)
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