第9話
「ふぃ~」
トイレから出てきた私は達成感に身を震わせた。
ランナーズハイというやつなのか、目的としていたトイレを置き去りに進んでしまった私だったが広い王城だ、すぐに他のトイレが見つかった。
しかし、王宮の便座は高かった。
高価という意味ではない、物理的に届かないのだ。
大人用の便器は、座るところが私の腰と同じくらいに位置する。
そのため、向き合うとトイレというよりかは私のために用意された手洗い場と言われた方がしっくりときた。
そのせいで以前父のお皿を洗ってしまったんだよな……。
あー、忘れろー忘れろー。
おまるを用意してもらおうとも思ったが、『難しいことに挑戦するのが真のレディ』という姉の言葉が頭をよぎり、頑張って便座によじ登った。
困難に挑むその姿はまさにレディと言って良かっただろう。
途中で袖から滑り出たコレットが便器の水に
危うくこの世で最も悲惨なしゃぶしゃぶができるところだった。
(――ギフトを解放することであなたは一つ上のステージに――)
私は来た道を引き返す。
王宮の廊下はまっすぐと伸びているので、迷子になることもない。
早く待合室に戻って父とソフィアに大人用トイレを制覇したことを教えてあげなきゃ。
足早になりかけたが、淑女が廊下を駆けるのもどうかと思い姿勢を正してそよそよと歩く。
「おい」
後方から声が聞こえた。
声変り前の少年のもの。「あの」でも「すみません」とも違う配慮の足りない呼び方。
姿を確認せずとも、人に命令をすることに慣れた、横柄な少年であることが
誰だか知らないが、呼び止められた人は不運だね。
「おい、そこの
私ですね……。
仕方なしに振り向くと、そこには予想通りというか胸の前で両腕を組み、大きく足を開いた子供がいた。
質の良い白い生地に金糸で飾りつけされた服を着ているから、貴族の子だろうか。
自分から呼び止めたくせに、なぜかハトが豆鉄砲食らったみたいな顔をしている。
「なに」
私は不機嫌そうな顔を取り繕うこともなく、最低限だけ口を動かして問う。
髪の色に触れたからには、愛想も振りまいてやらん。
「……お前初めてみたぞ。な、名前を教えろ」
こちらの目を見てやつは名を聞いてきた。
ふてぶてしい態度なのにどこか探るような意図が感じられて、不気味に思ったが答えない訳にもいくまい。
「ふぉーす」
最低限、家名だけ答えた。
これで義理は果たしたはずだ、うん。
それでは私は失礼する――と踵を返そうとしたが、念願のおもちゃが手に入ったみたいな少年の晴れやかな顔に、脳内センサーがビビビーっと警鐘を鳴らした。
「おおそうか!
は?
こんやくしゃ?
目の前で放たれた言葉に理解が追い付かない。
ピッチピチの幼女である私に婚約者だと?
私の知らない間に勝手に決められていたなんて……。
頭に重しを乗せられたようにずしりと重くなって、平衡感覚があやふやになる。
お腹もきゅうっと冷たくなって、さっき食べたリンゴが逆流してきそうだ。
この生意気そうな坊ちゃんと結婚なんて絶対に受け入れられない。
「婚約者ってことは子分みたいなものだな! 結婚とかダサいと思ってたけど結構面白そうだ! ウハハハハハ!」
――ウハハハハハ! ――ウハハハハハ!
不快な笑い声が頭の中でエコーする。
――ダッ。
気づけば私は走り出していた。
――訳が分からない。どうして私がこんなめにあわないといけないのか。
元の部屋に戻ればこの悪夢が終わる気がして――脇目も振らずに、走る。
「――っ! 待て! どこ行くんだよ⁉」
バタバタとした足音が後ろから追いかけてくる。
ついてくるな!
必死に腕を振って走るも、あいつの方が足が速いようでどんどん距離を詰められる。
見えた! あの入り口だ!
心臓も肺も足も痛い――でもあと少しで逃げ切れる。
部屋までほんの数メートルというところで、
ガシッ。
長い髪の先端を掴まれる。
振りほどこうとするが、しっかり握られていて離れない。
「はな、して――」
あと少しだったのに、もう少しで逃げ切れたのに。
立ち止まった私たちは、互いに息を切らしていた。
「なんで――逃げる、んだ」
そんなこと言われても分からない。
今まで普通に暮らしてきたのに婚約者とか、結婚とか言われても受け入れられない。
「そうだ俺のこと知らないからだな! 俺はとっても剣が強くて先生にも筋があるって言われてな、ほかにも――そうだ算術も得意だ! 教えられるそばから一度で覚えてしまってな! 母様も俺のこと天才って言ってたし、それからそれから――」
聞きたくもない情報を嬉しそうにぶつけてくる目の前の少年。
頭痛がさらにひどくなる。どうしたらいいのか私にはわからない。
今までこんなことなかったのに……。
ああそうか。この子供は私が遭遇した、味方以外の初めての人間だ。
私のことを考えて行動しないし、友好を示す必要もない。
だから感情のままに話しかけてくるし、逃げられても距離をとらない。
「俺の名前を言ってなかったな。知ってると思うが――」
対抗するには自分の感情を正直に伝えるほかない。
こいつはいきなり現れて婚約者だとか言ってきた。私は一人になって考える時間が欲しいのに、無理やりついてきて興味のない情報をパンク寸前の頭に詰め込んでくる。そのせいで私はとても困っている。
迷惑だって言わないと分からないんだ。だから――
「キライ! てをはなして!」
言うと同時に、全体重を乗せ、倒れるようにして振りほどく。
髪がちぎれたっていい! 私は自分の意思を示す――
「「あっ」」
こいつホントに手を放しやがった。
土壇場になって急に物分かりが良くなった坊ちゃんのせいで、私はそのまま地面に倒れる。
ごすぅ。
私の顔が地面にぶつかった。
カーペットのおかげで命の危機を感じるほどではないが、強打した鼻がじんじんと痛む。
「……」
私は痛みをこらえながら立ち上がる。
じわりと涙が浮かぶのを感じるが、これは気のせいだと言い聞かせる。
今泣いてしまったらきっと止まらないだろうから。
「うわっ⁉ 大丈夫か⁉」
血の気の引いた顔で近寄ってきた。
こんのクソガキッズが……。誰のせいでこんな目に……!
「~~
「――ぎゃん⁉」
私が繰り出した渾身の蹴り上げが、無防備に開いていたクソガキッズの股と股の間に食い込む。
「ああああああ!! 痛い痛い痛あぃ――!」
クソガキッズは股間を抑えてのたうち回る。
しばらくの間転げ回っていたが、やがて横になったまま痙攣を繰り返すだけになった。
やっと死んだか。
ちんちんがついてるのに私を怒らせた報いだ。
ぽた、ぽた――
ところでさっきから鼻水が止まらないんだけど……。
勝利の余韻に浸りながら、私は手の甲で鼻をこする。
そこにはべったりと赤い血が――
「ぎゃぁ――――ん! うわ――ん!!」
とうとう私のキャパシティもオーバーした。
どのくらい泣いていたのか分からないけど、騒ぎを聞きつけて部屋から出てきたソフィアが鼻血を拭いてくれた。
「ぶあああぁ――――!!」
私はゾンビみたいに両手を突き出して、ソフィアに抱き着いた。
手に付着した血の跡がソフィアのメイド服に移ったが、嫌な顔一つせず私を抱き上げてあやしてくれる。
「大丈夫ですよ。どうしたのですかソフィア様」
「やだ~わたじけっこんしだぐないよぉ~」
大人はみんな知ってるんだ、私の婚約者のこと。勝手に決めちゃったんだ……。
「どこで聞いたのかはわかりませんが、今のところソフィア様に結婚の予定はありませんよ」
えっ、本当?
そこに転がっているクソガキッズがデタラメ言ってただけなの?
「ふふ、キャロライン様になら婚約者がいらっしゃいますよ。この国の王子様なのでばったり出くわすこともあるかもしれませんね――おや、そこでぐったりとしている少年は」
ビビビービビビー。私の脳内センサーが警告鳴らす。
クソガキッズ――いや、少年は私が「フォース」だと家名を名乗ってから態度を変えた。突然自分の婚約者だと言い出したのだ。
私には身に覚えのない話だし、少年がホラを吹いていたのであればそれでいい。
問題は、この少年が言っていたことが事実で『フォース家の婚約者』つまりは姉の婚約者だった場合。
端的に言おう、私は王子様のちんちんを蹴っ飛ばしたことになるのだ。
「大丈夫ですか、しっかりしてください!」
ソフィアが向こうを向いて倒れている少年の肩を揺さぶる。
ぐにゃり。
揺らされた反動で力なく崩れた少年の顔が、こちらに向けられる。
控えめにいってグロッキーだ。
生気を感じさせない土色の面貌。おまけに白目までむいている。
よく見たら端正な顔立ちをしているが、頼む! 王族に名を連ねないでいてくれ――!
「これは――」
ごくり、思わず生唾を飲み込む。
ソフィアの判定やいかに⁉
「どうして
えへへ、私終わっちゃった。まだ二才なのに。
「誰か――誰かきてくださいー!」
救助を呼ぶソフィアの横で、私はすべてを失ったもの特有の笑みを浮かべて佇むのだった。
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