散々な有紗

 大林の最後の講義から、早くも二週間が経過した。

 また明日学校で、というあの時の二人の約束は何事もなく叶えられた。

 しかしそれは数限られた授業の時間だけで、それも教師という個と生徒という衆でしか二人は顔を合わせられていない。

 そんな一変してしまった二人のうち有紗の方は、今日も仕事に追われてキーボードを打鍵している。


「土本先生」


 有紗の背後から、眼鏡のクラス担任が話しかける。

 だが、有紗はキーボードに集中していて彼の声に気付いていない。


「土本先生。聞こえてますか?」


 クラス担任が声量を上げる。


「え、あ、はい?」


 有紗はようやく声に気が付いて、緩慢に振り返った。


「五限目始まりますよ。土本先生、たしか3年のクラスで担当入ってませんでしたか?」

「え、そうでしたっけ?」


 記憶をまさぐりながら、腕時計に視線を移す。

 五限目の開始まで、あと三分もない。


「毎週の水曜日の五限に土本先生授業やってますよね。授業変更はないですよ」

 しばしポカンとクラス担当の顔を眺めて、段々と表情に焦りの色が現れてくる。

「え、水曜日の五限って言いました?」

「はい。さすがにそろそろ出ないと、生徒を待たせますよ」


 こうして急かされている間にも、授業開始まで二分を切っていた。

 有紗はテーブル端の授業ノートを手に取って立ち上がる。


「ごめんなさい。すぐに行きます」

「気を付けてくださいよ。生徒を待たせてしまいますよ」


 穏やかな口調で戒め、クラス担当は自分の席の方へ戻る。

 委縮するような申し訳なさを感じながら、有紗はノートを抱えて職員室を早足に出ていった。


 その後、教室に着いて授業を始めようとした際に、配布するプリントを忘れたことに気が付き、生徒に断り慌てて職員室に舞い戻った。

 途中の階段で蹴つまずいて盛大に転び、一層焦って廊下を走ったが職員室で叱られ、必死に謝って教室に引き返そうと廊下に出たところでプリントを持っていないことを思い出し、散々な失敗を経て、授業開始から15分後ようやく教室に帰ってきた。


 授業中に、私ってほんとダメダメだな、と幾度目か知れない落胆をする。

しかし同時に、大林君に慰めてもらいたいという願望がふと沸き出た。


ダメ、授業に集中しないと。


 首をブンブン振って願望を頭の外に追いやったのだが、生徒から怪訝な目で見られたことは言うまでもない。



 有紗への最後の講義を終えてからの大林は、またトレーニングに明け暮れる日々を送っていた。

 学校を出て自宅に帰り着くなり、水分補給をしてから二階の自室でトランプの変換トレーニングを始める。

 だが時々、固定しているはずのトランプのイメージが有紗と共同で考えたイメージと重複し捲る手が止まる。

 そうなると決まって大林は舌打ちし、手に掴んでいたトランプのデッキをテーブルの上に置き直す。


 出てこないでくれ、先生。


 有紗に罪があるわけではないが、集中が切れる度に大林は胸の中で有紗に訴えた。

 苛々と心がささくれ立ち、なんとかして集中を取り戻そうと目を閉じて瞑想に入る。

 けれども一度思い出してしまったイメージが頭から離れず、有紗の笑顔が明瞭度を増していく。


 どうかししちゃったな、俺。


 目を開けて瞑想をやめ、頬杖をついて西日の射しこむ窓に視線を移した。

 先生は今頃、書類仕事に追われてるんだろうか。

 大林は完全に思い煩う少年のように上の空になり、有紗との日々を振り返った。



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ここまで読んでいただいて、誠にありがとうございます。

記憶術やメモリスポーツに関することでご質問があれば、どうぞ気兼ねなくコメント欄にお送りください。作者がわかる範囲でお答えします。


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