脳のパフォーマンスを引き上げよう
一次試験の日まで残り一か月を切ったこの日、徳川歴代将軍よりも難易度の高い記憶にも挑戦するなどして有紗は記憶術を自分のものとした。
自然、大林の指導にも変化が生れてくる。
「先生、だいぶ場所法を使うのが上手くなりましたね」
今日は何を教えてくれるんだろう、と心待ちにして座る有紗に、大林は脈絡もなく微笑んで賛辞を送った。
「そんなことないよ。大林君と比べたら私なんて」
有紗は首を横に振って謙遜する。
「トランプを1分台で覚えるのは相当な実力ですよ。最初は52枚も覚えられないなんて言ってたのに」
指導を始めた頃を思い返し、冷やかす口調で言った。
「だって、あの時は覚えるの大の苦手だったもん。そんな人が急に52枚も覚えられると思うわけないよ」
「最初はみんな半信半疑ですからね。自分も記憶術を知ったときはそうでした」
「それで、今日は何を教えてくれるの?」
期待をふくんだ目で大林を見つめる。
しかし、大林は困ったような笑みを浮かべた。
「はは、実の事いうと技術的なことはほとんど教えつくしてしまいました」
「え、うそ。私、まだまだ大林君に負けてるよ?」
信じられないという声音で訊き返す。
「嘘じゃないですよ。俺の知ってる限りの技は全て先生に教えました」
「じゃあ、今日は何を教えてくれるの?」
急に不安な顔になって上目遣いに尋ねる。
どうしようかな、と大林はしばし悩んで、僅かに指導する部分が残っていると思い至る。
「そうですね。今日はこれまでとはベクトル違うことを教えましょうかね」
「ベクトルの違うこと?」
「はい。脳のパフォーマンスを最大限まで引き上げるための指導です」
「つまり、どういったことなの?」
想像つかない事柄に有紗は首を傾げた。
大林は頭の中で言葉をまとめ上げてから講話を始める。
「どれだけ勉強しても試験の当日に脳が機能しなかったら、試験もままなりませんよね」
「うん。そうだね」
「記憶術も根幹は同じです。技術的には優れていても、機能させるべきは脳そのものです。だから脳のパフォーマンスを引き上げることが重要なんです」
「睡眠不足だと記憶力が悪くなる、みたいなこと?」
「そういうことです」
「でも、どうやって引き上げるの?」
「今からその方法をいくつか教えます」
そう言って、右手の人差し指を立てる。
有紗は傾聴の姿勢に居住まいを正した。
「一つ目は、ブドウ糖を摂ることです」
「ブドウ糖? どうして?」
脳の活動とブドウ糖が結び付かず、有紗は疑問符の浮かんだような顔で尋ね返した。
「少量のブドウ糖は脳の栄養補給だと思ってください。ブドウ糖が足りてないと脳がスタミナ切れを起こしやすいですから」
「でも、一日の食事だけで足りてる気がするんだけど」
「むしろ、一度に多く摂取するのはお勧めしません。眠気を催して脳の働きが落ちるだけですから」
「じゃあ、食事を減らして、ブドウ糖だけを摂るの?」
「まあ、そんな感じです」
「ストイックだね」
「俺はいつも昼食はチョコレートふた粒とお茶だけですよ」
「授業中におなか減らないの?」
「慣れれば空腹も感じませんよ。それに大会以外の日の朝と夕はしっかり食べますからね。そうしないと栄養のバランスが悪くなって、これまた脳の働きが鈍くなるので」
「食事まで気を遣うなんて、大林君アスリートみたい」
感心の思いで有紗が言った。
「まあ、アスリートですから」
返事の代わりに大林は誇るように鼻を鳴らす。
「それで、二つ目は?」
大林の自負心など意に介さず、有紗が話題を先に進めようと尋ねた。
咳払いするような間合いを置いてから、大林が講話を再開する。
「二つ目は、軽い脳トレをすることです」
「昔、脳トレのゲームがあったよね。あれみたいなもの?」
小学生の頃に親戚の子が遊んでいた携帯ゲーム機のカセットが、有紗の頭の中に思い浮かんだ。
「あれも脳トレですけど、そこまで本腰入れてやる必要はないんですよ」
「じゃあ、たとえば?」
「ルービックキューブとか、音読とか、計算とか。とにかく頭を使う事全般です」
「音読って脳トレに入るんだね」
「文章を声に出して読むって案外頭が疲れるものですよ。先生、やったことあります?」
「あるけど、大人になってからはやってないはずだよ。だって長くて面倒だもん」
小学生の頃に何故か宿題として取り組まされていた音読を思い出して、有紗は苦い顔つきになる。
大林は半笑い。
「気持ちはわかりますよ。俺だって音読しても30分ぐらいしかやりませんし」
「30分もやるんだ。私なんて多分10分で疲れちゃうよ」
「脳トレは習慣化させて徐々に量を増やしていくしかありません。かくいう俺も脳トレより記憶術のトレーニングの方が好きですから、30分しか時間取ってませんよ」
「それじゃあ、私はまず一日10分を目標に脳トレしてみるから、参考に大林君がどんな脳トレしてるか教えて」
「そうですね。俺は専ら計算ですかね。週に二回ぐらいは音読しますけど、計算はやらないとすぐに鈍りますからね」
「計算はどうやってやってるの?」
有紗の問いに大林はスマホを取り出してみせる。
ホーム画面の白地に点が十字に並んだアイコンの暗算アプリを指さした。
「これですね。自由な難易度で四則計算が出来るんです。毎回タイムも測ってくれますしね」
「へえ、凄いね。大林君はどれくらいの難易度をやってるの?」
「四桁どうしですね」
「うわぁ、四桁!」
大林の返答に有紗は驚愕の声を漏らした。
四桁どうしの計算など有紗には筆算がないと解けない領域だ。
「驚くほどですか?」
「驚くよ。私なんて三桁から紙に書かないと計算不安だよ」
「まあ、先生は慣れてませんしね。もしやるなら二桁から初めてください。このアプリお勧めします」
「う、うん。家に帰ったらやってみる」
自慢する様子もない大林に、有紗は気圧されるように頷いた。
要点の二つ目を話し終えた大林は、スマホを仕舞ってから話を進める。
「三つ目は、適度な運動をすることです」
「運動? どんな?」
「具体的に言えば、15分から30分ぐらいのウォーキングとかラジオ体操とかですね」
「疲れて集中できなくなりそうだけど」
「逆です。むしろ程よい運動で海馬が刺激されます。さらに脳への血流も良くなって記憶力が高まります」
「でも、わざわざ時間作るの難しそうだね」
通勤と仕事で忙しい有紗は、どう時間を捻出しようかと考えた。
「先生は電車通勤ですよね?」
思い出したように大林が訊く。
「うん。そうだけど」
「なら、いつもの一駅前で降りて残りは歩くみたいなことでもいいんですよ。先生は歩いても大丈夫な状態ですよね?」
「うん。歩けるよ。でも一駅前で降りたら朝の時間が厳しいかな」
「帰りは問題ないですか?」
「帰りは大林君に記憶力を上げる方法を教えてもらう時間があるから、時間が遅くなっちゃうよ」
指示を仰ぐように大林に視線を合わせる。
大林は視線に応えて微笑んだ。
「安心してください。必要ないことで時間は取りませんから」
「必要ない事って?」
有紗は首を傾げた。
如何なる感情を抱いているか判別しにくい微笑のままで、大林は問いに言葉を返す。
「こうして先生が俺に会ってる時間ですよ。この時間はもう必要ありません」
「え……どうして?」
思いも寄らない答えに、有紗はたちまち混乱して訊き返した。
「さっき言ったじゃないですか。ほとんど教えつくしてしまいましたって。だから今日で教えるべきは全て教えました」
有紗の驚きにも動じない物腰で言った。
「でも、必要ないなんて……」
「先生の目標は教員採用試験に合格する事ですよね。俺に記憶の方法などを教えてもらうのはあくまで過程の一つ。だから今日で俺の講義は最後にします。その分だけ早く仕事を終わって試験対策してください」
「……唐突過ぎるよ」
正当な理由を告げる大林に、有紗の反駁の気は薄れて不満だけが口から漏れ出た。
「唐突ですみません。けど、試験まで残り一か月にもなって試験そっちのけで俺と会ってる場合じゃないと思うんです。それに教える事がほんとうに無いんですよ」
有紗から指導を頼まれた時から今日までの出来事を思い返し、それらを抑え込んで、大林は微笑を崩さないように告げた。
「…………私は卒業ってこと?」
どんな言葉を継ぐべきか迷いながら有紗は口にした。
「そうですね。卒業です。おめでとうございます」
「卒業なんだ。実感湧かないね」
「卒業って最初に言ったの先生じゃないですか」
「そうだけど、明日から学校に来なくなるわけじゃないから。それに大林君とも学校で会えるね」
言って、照れるように笑った。
それでも二人だけの時間はこれで最後だ。有紗の胸に微かな寂しさが込み上げてくる。
「わからないことがあったらいつでも聞きに来てください。できる範囲で答えますから」
「うん」
大林の朗らかな表情を見つめ、有紗は寂しさを気のせいだとして力強く頷いた。
「それじゃあ、終わりましょうか。先生は今日もまだ仕事残ってるんですよね?」
「うん。今日は比較的少ないけど」
有紗が答えると、大林は急に襟元を整え始めた。
なんだろうと有紗が思っているうちに、襟元から手を離して途端に膝に拳を置いた畏まった姿勢になる。
「これで大林の記憶力向上セミナーを終了します。ほら、先生も姿勢を直してください」
顎で有紗にも促す。
「え、あ、うん」
キョトンとしていた有紗は、慌てて椅子の上で背筋を伸ばした。
「最後まで受講していただき、まことに有難うございました」
「ありがとうございました」
大林が机に付かんかばかりに頭を下げる。
有紗も倣うようにお辞儀した。
互いに頭が上がると、大林は再び微笑んだ。
「はい。これで終わりです。先生は仕事に戻っていいですよ。片付けは俺がやっておきますから」
「最初から最後まで片付け任せちゃってごめんね」
「いいんですよ。俺はこの後帰宅するだけですからね」
「じゃあ、任せるね」
「はい」
大林が了解すると、すぐに有紗はバッグに手を掛けた。
椅子から立ち上がり、大林に努めて快闊な笑顔を向ける。
「今までありがとう。試験合格したら大林君に報告するね」
そう告げて向かい合った机から離れた。
何か思い出したようにドアの前で立ち止まり、大林の方に顔を向け直して手を振る。
「それじゃあ大林君、また明日学校でね」
「はい。明日学校で」
大林が短く言葉を返す。
有紗は顔をドアの方に戻して教室を出ると、窓から橙の暮色が射し込む廊下を職員室へ歩き出した。
今生の別れじゃないはずなのに、なんでこんなにモヤモヤするんだろう。
心に生じた経験のない違和感に首を傾げながらも、有紗はまだ残っている仕事に意識を傾けた。
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ここまで読んでいただいて、誠にありがとうございます。
記憶術やメモリスポーツに関することでご質問があれば、どうぞ気兼ねなくコメント欄にお送りください。作者がわかる範囲でお答えします。
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