徳川歴代将軍と大林の褒め言葉
「先生、教員採用試験っていつですか?」
「どうしたの急に」
五月の最週末に入ってすっかり習慣化してしまった学習室での記憶術指南は、有紗の実力が備わってきたため次の段階に移行しようとしていた。
「採用試験に受かりたいから、俺に記憶力を上げる方法を教えてもらってるんですよね?」
「うん、そういえばそうだったね」
あはは、と当初の目的を忘れていたことに苦笑いする。
大林も苦笑したい気持ちで有紗を見つめ、採用試験の日付を聞いた訳を述べる。
「採用試験がいつかわからないと、俺の指導方法にも影響が出ますから」
「一次試験は七月十日だよ」
「そうなんですか。その日なら今日から一か月ぐらいなので、そろそろ実戦的な記憶術を教えていこうかと思います」
「おお、すごそう」
有紗がいかにも嬉しそうな声を出した。
ほんと純粋だなぁ、と大林は有紗を見ながら微笑ましい気分になる。
「それで、実践的な記憶術ってどんなの?」
身を乗り出さんばかりに先行して訊く。
「基本は同じです。イメージ化して場所に置く」
「それじゃあ、今までやってきた記憶方法と変わらないね」
「ですけど、少しだけ難しいです」
「どうして?」
「今までのトランプや数字の記憶は前もってイメージを固定させてましたよね」
「うん」
「でも、これから教える記憶方法は即応的にイメージを作らないといけないんです」
デデン、という効果音が聞こえてきそうな声音で言った。
有紗は首を傾げる。
「即応的ってどういう意味?」
「……そうですね。即応的って言うのは」
大林はかみ砕いて説明した。
ふむふむと有紗はしきりに頷きを返す。
「ようするに、すぐに対応すればいいんだね」
「まあ、そういう感じです」
「ところで、大林君の言う記憶術はどうやってやるの?」
「それを今から説明します」
話題が戻ってきたのを機に大林は講釈に入る。
スクールバッグから日本史の教科書を取り出す。
「例題としてこれを使います」
「日本史の教科書。まさか内容全部覚えるなんて言い出さないよね?」
教科書を手にする大林を、有紗は今にも泣き出しそうな怯えた顔で見る。
大林はカラカラと笑い飛ばした。
「そんな酷な事やりませんよ。俺でも内容全部を覚えるには相当な時間がかかりますからね」
「なんだ、安心した」
ほっと胸を撫で下ろす。
「まずは手始めにここの部分を覚えてもらいます」
教科書を終わりぐらいのページを開いて有紗に見せた。
大林が見せたページ一杯には、徳川歴代将軍一覧が載っている。
「これを覚えるの?」
「はい。今回は徳川家の名前だけですけどね」
「よかった、隣の行った政務の欄は覚えなくていいんだ」
「いきなりそこまで記憶するのは大変でしょうからね」
有紗は大林の話を聞きながら一覧に指を添えてイチ、ニイ、サン、と徳川歴代将軍の人数を数えている。
「ええと、徳川将軍って15人だよね」
「そうですね」
「15人なら覚えられそう」
トランプ52枚や数字100桁の記憶を経験している有紗は、15という数字が幾分容易く思えた。
しかし大林は厳しい目つきになる。
「簡単なんて思ってるなら、それは大間違いですよ」
「え、でもトランプ52枚よりも少ないよね?」
「トランプ記憶と同じ様に覚えられるものじゃないんですよ。少しだけ難しいって俺言いましたよね」
「う、うん」
俄かに戒めるような声になった大林に、有紗は気圧されて首を縦に振った。
「それじゃあ、先生。徳川歴代将軍をどうやって覚えるつもりでしたか?」
「一つ目の場所に、徳川家康だから。ええと、とっくり、が川に流されて……」
「とっくりが川に流されるイメージ必要ですか?」
「え?」
懸命にイメージを繋げようとしていた有紗は、不意の大林の問いかけに口の動きが硬直する。
「俺は必要ないと思いますよ。覚える人物は全員徳川なんですから」
「え、ああ、そ、そうだね」
思いつかなかった大林の発想に、感嘆の思いで声を漏らした。
「なので家康の場合は、家と康で分解してストーリーを作れば事足りますよ」
「みんな徳川なの気が付かなかったよ。確かに徳川をイメージ化したら全部の場所にとっくりが置かれて見分けがつきにくくなるね」
「まあ、結局家を多用することにはなりますけど」
そう言って大林は苦笑する。
有紗もつられて苦笑いを返した。
「それでも全ての場所に徳利が出現するよりかは、よっぽどマシですよ」
「そうだね。徳川までイメージ化してたら、徳利だらけになってたよ。教えてくれてありがとう大林君」
ニコニコと嬉しそうな笑みで礼を言った。
先生の笑顔が尊い、と大林は心の内で密かに身もだえする。
「私の顔に何かついてる?」
喜びが身に沁みる心地で有紗を眺めていた大林に、有紗は不思議そうに訊き返した。
大林は慌てて顔を逸らす。
「え、いや、何もついてません。それより実際に覚えながら解説しますから、場所の準備はいいですか」
「うん、準備万端だよ」
有紗の表情が笑顔から真面目なものに変わった。
ようやく感情の動揺が鎮まった大林は有紗の方へ顔を戻すと、気を引き締め直して講義を始める。
「一代目は家康です。このままではイメージ化しにくいので、まずは家と康に分解します」
「そこはさっきも言ってたね」
「分解したら、個別にイメージ化していきます。家は直接に家のイメージを使えますけど、康はすぐにイメージ化できません」
「そうだね」
「なので語呂合わせを使ってヤスリとします」
「じゃあ、家を棒ヤスリで磨くイメージ?」
「言葉で表すとそうなりますけど、より記憶を濃くするためにはひと工夫必要です」
「工夫ってどうするの?」
「家のイメージを大袈裟にします」
「大袈裟?」
「はい。例えば巨大にしたり、縮小したり、華美にしたり、荒屋にしたり」
「どうしてそんなことするの?」
「場所法を今よりも上手く使いこなすにはインパクトが重要になってきます。玩具のような家よりも本物の家が教室の入り口にあったら驚きも増しますよね」
「うーん、どうなんだろう。なんかイメージしにくい気がする」
言葉通りに想像してみるも、有紗はしっくりこないという顔をした。
大林は有紗がコツを心得ないのも承知しており穏やかに微笑する。
「イメージの濃度は人それぞれですからね。自分が頭に残りやすいと思うイメージの置き方は練習を積んでいけば、いずれ固定されてきますよ」
「へえ、じゃあ家のイメージは三角屋根のお家でもいいの?」
有紗の表情が俄かに嬉々として緩む。
「家って聞いた時にパッと思い付いたのが三角屋根だったの。最初に浮かんだイメ
ージって確か大事だよね?」
「はい。一度場所に貼り付けたイメージを改変するのはすごく困難ですから、初めに貼り付けたイメージは出来る限り保持しましょう」
「わかった」
大林の解説口調に有紗は諄々と頷いた。
家のイメージを確定させた後、家康、家忠、家光、家綱を滞りなく場所に置いていった。
五代目の綱吉で有紗の行程は足踏みする。
「ええと綱吉はどうしよう?」
「一つ前で綱のイメージを使ってますよね。だから同じ綱を引っ張るイメージを使うのが手っ取り早いですよ」
「でも紛らわしくないかな?」
「混同しないようにストーリーの順序を明確にしましょう。家綱は家に綱を括りつけて引っ張る、でしたけど、綱吉は綱を引っ張ったら綱の先にはヨッシーが縛られていた、みたいに綱をストーリーの一番目に配置すれば紛らわしさが少なくなります」
綱吉のイメージを決定させ、有紗は大林の言葉通りのイメージをルートの五カ所目に据え置いた。
家宣、家継、吉宗、と代を昇っていき、話の脱線もなく一五代目の慶喜まで到達した。
「ついに慶喜だよ。ヨッシーが投げられたドアノブを咥え去るイメージ」
「ヨッシーがドアノブを咥えた時に飛び跳ねて喜ばせれば、慶喜の感じも記憶しやすいですよ」
「なるほど。大林君は私の上を行くんだね」
「当たり前じゃないですか。俺は先生の指導官ですからね。常に地力で上回っていないと示しがつきませんよ」
余裕ありげに口の端を吊り上げた。
そんな大林を有紗は羨望の目で見つめる。
「いいなあ。私も大林君みたいに自信をつけたい」
「俺だって誇れるものは記憶術ぐらいしかないですよ。でも記憶術だけはおいそれと負ける気はありませんけどね」
「大林君に記憶術で勝てる人いないよ。だって日本一なんでしょ」
「現時点では一位ですけど常に地位は脅かされてますよ。俺よりだいぶ遅くメモリースポーツを始めたのに、メキメキと力を付けている人はたくさんいますからね」
「でも大林君が一位であることには変わりないと思う。私なんて運動会の徒競走ですら一位になったことないよ」
「はは、俺だって徒競走で一位になったことありませんよ。むしろ後ろから数えた方が速いぐらいでした」
恥を呑んだように笑った。
「勉強は? 大林君、模試の成績いつも上位らしいけど一位って取ったことないの?」
有紗は只今思い付いた疑問を口に出した。
瞬間、大林の表情が曇って躊躇いが浮かぶ。
「一位は……取ったことないですよ」
「大林君なら取れそうなのに。日本一になれるだけの記憶力があれば、記憶系の教科は一位常にでもおかしくないもん」
「こんなこと言ったら先生は怒るかもしれません。一位は取ろうと思えば取れるんですよ、記憶力で一位になるぐらいですから」
「じゃあ、どうして……」
「ズルしている気がしてしまって」
有紗の純粋な問いかけを遮って大林は吐露した。
予想外の返答に、有紗は継ぐ言葉を失くす。
大林は視線を机上に落とす。
「皆が必死にノートを読み返したり、シートで覚える文章を隠したり、友達と問題を出し合ったりしているのに、場所法なんて言う皆には未知の方法で100点取るなんて、それは皆の努力を否定してるだけじゃないですか」
胸の内で燻ぶっていた憤懣を静かな口調で吐き出した。
くすりと有紗は笑みを漏らす。
「大林君らしいね」
「どういうことですか?」
「とっても優しい」
怒られるとばかり思っていた大林は急に褒められ、顔を赤くして逸らした。
「俺は、優しくなんかないですよ。ただ周りの事を憐れんで……」
「私が同じ立場だったら憐れみさえしないよ。自分の力をひけらかして、周りを下に見て、すっごく自慢してたと思う」
「先生がですが?」
有紗のほんわかした印象から他人を軽蔑する姿が想像つかず、大林は意外そうな顔で訊き返した。
「私は周りより自分の方が優れていることがなかったから、そんな嫌な人間になら
ずに済んだけど。もしも圧倒的に優れていたら、自分みたいなダメな人間は見下しいたかもしれないの」
「……そんなことは」
「あるよ。だって周りよりも凄いと思いたいのが普通だから」
考えは変わらない、という強い意思を漂わせて有紗は言った。
大林の根拠のない否定も薄っぺらい反論も喉の奥に押し留まった。
代わりにじわじわと沁みてくる共感が口を動かす。
「確かにそうかもしれません」
「そうだよね」
「でも、先生の方が優しいですよ」
口元を綻ばして大林が告げた。
「……え?」
有紗は思いも寄らない賛辞に目が点になって当惑する。
「わ、私が優しい?」
「はい。仮定とはいえ自分の嫌な部分をしっかり把握できていて、それをダメだと断言できる。それって先生が根から優しい証拠だと思いますよ」
「……もう、やめて」
冗談の気もなく大林に称賛され、有紗は照れで急激に赤くなった顔を両手で覆った。
「私……褒められるの慣れてないの……」
「慣れてないなら、俺が褒めますよ。よっ、先生美人!」
片手をメガホンのように口に添えて、大林はからかいの気持ちも含んで一層称える。
照れて赤面する先生ってすげー可愛い、とも思いながら。
さかんに大林が有紗を褒めちぎる時間が過ぎると、両者の間にたちまち沈黙が訪れた。
うんともすんとも言わなくなった有紗に、大林は膝に両手を載せて申し訳なさを示す。
「あの、すみません。調子に乗りました」
有紗は顔を覆う両手を少しだけ下げ、恥ずかしさで潤んだ双眸を覗かせる。
「褒められるの慣れてないって言ったのに……」
「ほんとにすみません。口が過ぎました」
「もう終わる」
へ、と大林は咄嗟に訊き返した。
記憶力向上指導の関係性にピリオドが打たれたのかと、急に不安がもたげたのだ。
「終わるってどういう?」
「レッスンだよ。集中できないから今日は終わりにする」
「あ、ああ、そういう」
不安になって損した気分で大林は納得した。
有紗は紅潮した顔を熟視されないように、俯きながら机の傍のバッグを手に引き寄せる。
バッグを顔の前に翳し大林の視線を避けて椅子から立ち上がると、何も告げぬまま教室のドアを抜けて廊下を早足に歩き去っていった。
「……褒めるのは先生には逆効果か」
少しでも自信をつけてくれれば、という思い付きで有紗を持ち上げたが、極度に恥ずかしがらせるだけの結果になった。
女心って難しいなあ、と大林は日本史の教科書を仕舞い直しながら痛感した。
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ここまで読んでいただいて、誠にありがとうございます。
記憶術やメモリスポーツに関することでご質問があれば、どうぞ気兼ねなくコメント欄にお送りください。作者がわかる範囲でお答えします。
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