土本先生、向いてませんよ
月日は進み、教員採用試験の一次試験が一週間後まで迫った七月の初旬。
衣替えの時期が過ぎ、軽装の教師陣が出入りする昼休み中の職員室内で、有紗はパソコン画面に映し出した試験会場までの経路をじっくりと読んでいた。
「ええと、ここで乗り継いでこの路線で……」
「休日にどこかにお出かけですか、土本先生」
横から突然に男性教師が問いかける。
有紗が振り向くと、クラス担当が自席の椅子を引きかけているところだった。
男性教師は有紗のパソコンを見たまま、隣の席に腰を下ろす。
「これは試験会場までの経路です。しっかり把握しておかないと迷いそうなので」
「迷うほど難しい道じゃなかった気がしましたけど。試験会場替わったんですか?」
「いえ、替わってませんよ。ただ私は方向音痴なので、去年行ってたとしても確認するんです」
「土本先生、方向音痴なんですね。知りませんでした」
有紗の話を耳に入れながらパソコンを打ち始め、カラカラと笑い声を出す。
「そうなんです。私、方向音痴なんです。初めて試験会場に行ったときは、時間に遅れてすごく気まずかったのを覚えてます」
気軽い口調を装って恥ずかしエピソードを話した。
クラス担当はキーボードを打鍵しながら、肩を揺らして声には出さずに口の中で笑う。
「それは災難でしたね。もしかして遅れたのが理由で試験に落ちたんですか?」
「はい。直接はそう遅刻が不合格の理由だとは言われませんでしたけど、きっと遅刻が理由でした」
「それじゃあ知識的には合格してたんですか?」
「え、いいえ。学業の知識でも不合格の範囲でした。自己採点して確信しましたから」
「救いがたい。せめて知識面だけでも合格範囲だったら、自信を失わずに済みそうですからね」
「ほんとです。おかげで頭が悪いのを痛感しました」
話しているうちに当時の事を思い出し、有紗はしょぼんと気を落とす。
クラス担当はキーボードを打ち続けながら、横目で有紗を見やる。
「土本先生の頭が悪いかどうかはさて置き、単に向いてないだけかもしれませんね」
「向いてないって何がですか?」
「高校教諭がですよ。高校生を教えるには大学入試レベルの専門性が要りますから、その分試験の問いにも専門的なものが多くなりますから、高度な知識がないと合格するのは難しいと思いますよ」
「私じゃ合格できませんか?」
「断言はしませんよ。ただ教師といっても小学校も中学校にもいますから、高校教諭にこだわる必要はないんじゃないですか」
「高校教諭を諦めた方がいいってことですか?」
有紗が真面目に尋ねると、クラス担当は迷惑そうに眉間を少しだけ顰めた。
「なんでそう悪いように汲み取るのかな」
「悪いように汲み取ってるわけじゃなくて……」
「こっちは傷つけないように言ってるのに、自分から卑下して」
クラス担当の柔和だった声が急激に冷たくなる。
視線はあくまでパソコンの画面に向けつつも、吐き出された言葉は有紗に向かっている。
有紗は叱られたように暗く俯く。
「すみません。せっかくの心遣いに……」
「この際ですから、正直に言っていいですか?」
謝る有紗の言葉を遮るようにして、クラス担当は眼鏡を指で押し上げて前置きした。
はい、と有紗が承知すると、キーボードを打つ手をぱったりと止めて有紗に向き直る。
彼の瞳に冗談の気ぶりはない。
「今の土本先生じゃ高校教諭を勤め上げるのは無理です。むしろ、温和な雰囲気と性格を有効に使って小学校の教諭を目指した方がいいと思います」
クラス担当は遠慮仮借なく言い切った。
有紗はずっしりと重い忠言を聞き流すことなく受け止める。
「人間には適正ってものがあるんですよ。専門知識の入り口になる高校生を相手に授業をしている方が熱の入る僕みたいな人もいれば、小さい子に懐いてもらえそうな土本先生みたいな人もいる」
付け足すように言うと、パソコンの画面に目を向けて作業に戻った。
やっぱり、私なんかに高校教諭は荷が重いかな?
本音を口にしたクラス担当の横顔をぼっと眺めたまま、有紗は自問する。
「試験を受けるのは辞退しなくてもいいですが、小学校の教職に希望を変更することぐらいなら可能かもしれませんよ」
押し黙ってしまった有紗へ優しい声音で教える。
向いてるって言うなら、小学校教諭になろうかな?
「そうで……」
甘言のような言葉に同意しようと口を開きかけ、ふと止まった。
有紗の脳裏に、空き教室で僅かながら濃い時を過ごした大林の慰める笑顔が思い浮かぶ。
最後の日、私は卒業したんだ。ということは、私は変わったんだ。
「まだ、何か?」
自身の横顔を見られ続けているクラス担当が、視線が気にかかって再び有紗へ顔を向けた。
有紗は意思の固い目でクラス担当の顔を見返す。
「アドバイスありがとうございます。でも、私は諦めません。試験に合格して高校教諭になります」
「そうですか」
短く返して、パソコン画面に視線を戻す。
「まあ、頑張ってください」
「はい。頑張ります」
粗末な励ましに強く頷き、決然とした表情でパソコンの画面に向き直った。
互いに無言でキーボードを打ち始める。
「土本先生、変わりましたね」
画面に視線を固定させたまま、何気なくクラス担当が口に出した。
え? と聞き返して振り向く有紗に、作業を続けながら笑い声のような息を漏らす。
「人の意見に流されないぐらいに強固な自信が身についてる」
「そう見えますか」
「ええ。以前は自信なさげで人の意見をすぐに受け入れてましたから」
「そうだったんだ。自覚なかったです」
「何か、すごい特訓でもしたんですか?」
「特訓して、お墨付きをもらいました」
有紗は満面の笑みで答えた。
昼休憩の終わりが近づき、次の授業を担当する教師たちがバラバラに席を離れ始めた。
「僕は授業があるので、これで」
クラス担当はそう告げると、パソコン画面上のページを閉じて席から立ち上がり、授業用具一式を持って職員室の出入り口へ歩き出した。
有紗はパソコン画面に顔を戻し、経路の確認を再開する。
「ここで乗り継いで、この路線でここまで。うん、大丈夫そう」
微かな自信を身に感じながら、心配を打ち消そうかとするように呟いた。
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ここまで読んでいただいて、誠にありがとうございます。
記憶術やメモリスポーツに関することでご質問があれば、どうぞ気兼ねなくコメント欄にお送りください。作者がわかる範囲でお答えします。
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