大林、慰める
八枚覚えることが出来た日から一週間、有紗は日ごとに覚える枚数を増やしていき、ついに52枚覚えきることに初めて成功した。
タイムは10分50秒と要したが、四枚しか覚えられなかった初日を思うと、仕事で忙しい身にしてはかなりの成長である。
52枚記憶が出来るようになった有紗に、大林は頃合いだろうという顔で告げる。
「そろそろ記録を採るようにしましょう」
ついに来たか、と有紗は唾を呑み込む思いで大林を見つめる。
「確か、昨日のタイムが10分50秒でしたね」
「うん。大林君の教えられた通りに場所を辿っただけだったけど」
「まあ、最初はトランプ52枚覚える分のプレイスがあればいいですからね。俺の使ってる場所をそのまま使ってもらいました」
プレイスとは、記憶対象のイメージを置く場所の事である。
「じゃあ今日は記録を採るの?」
「そのつもりですけど、マズいですか?」
大林は顔色を窺うように訊き返す。
有紗は横に首を振る。
「大丈夫だよ。緊張はするけど、昨日と同じようにすればいいんだよね?」
「そうですね」
「じゃあ、やってみる」
有紗は気合入れ直すように拳を作り両脇を締めた。
仕草がいちいち可愛いな、と大林は密かに癒された。
大林の心の内など知らない有紗は、トランプ記憶をする準備を始めた。
十五分後。
「あああ、失敗したぁ!」
答え合わせの途中で有紗が悔しげに叫んだ。
大林は苦笑する。
「どうして、残り十枚のところで順番間違えちゃうの私!」
「まあ、ストーリーの順番が逆になることは多々ありますよ。俺も同じ失敗したことありますからね」
有紗がプレイスに置いたストーリーの組み立てが悪く、♢9と♧8の順番が反対になってしまった。
昨日成功しただけに、この日の失敗は有紗にとってショックだった。
「やっぱり私って詰めが甘い女なんだぁ」
トランプ記憶を少し失敗しただけでハラハラと泣き出す。
「そんなことないですよ。先週までは四枚しか覚えられなかったのに、今日は40枚まで覚えられたじゃないですか。それに残りの10枚には間違ってるところありませんよ」
よもや有紗が泣き出すとは思いもしなかった大林は、なんとか理由を見つけて慰める。
「でも、大林君は18秒で成功しちゃうんでしょ?」
「まあ、そうですね」
謙遜もなく認めてから大林は、しまったと悔いた。
案の定有紗は、10分で失敗しちゃう私なんてダメダメだよ、とさらに自分を貶す。
「ダメダメじゃないですよ。先生は初めてまだ一週間じゃないですか、それに比べて俺は一年以上やってますからね。差があって当然ですよ」
「一年やっても大林君みたいになれる気がしない」
「それは、そうかもしれませんけど」
大林は嘘が吐けない性格で、この時も正直に答えてしまった。
女性の慰め方を知りたい、と大林は切望した。
「と、とにかく。今日は失敗しましたけど、10分で50枚もトランプを覚えられる人なんて中々いませんから、もっと自信持ってください」
慰めになってるのかなこれ、と手応えなしに大林は言った。
有紗は涙の浮かんだ目を拭い、こくんと頷く。
「大林君がそう言うなら自信持つことにするよ。慰めてくれてありがと」
「あ、はい。それより時間の方はいいですか?」
大林の問いかけに、有紗は腕時計を見る。
あと数分で五時半になろうとしていた。
「今日はもうお開きしよう。大林君いいよね?」
「俺は先生の都合に合わせますから、いつ解散しても大丈夫です」
「大林君は優しいね」
温かさが心に沁みたように瞳を潤ませて有紗は言った。
突然の褒め言葉に大林はドキンとしたが、教師として言ってるんだとすぐに解釈して、顔謙遜するように顔の前で両手を振る。
「俺は優しくなんかないですよ。ただ記憶術を教えるのに熱を入れてるだけです」
「私なんかのために指導に熱を入れてくれるなんて、やっぱり優しいんだよ」
自嘲を含めて大林を褒める。
そんなことないですって、と尚も否定しようと大林が口を動かし始めた時、すでに有紗は机の傍に置いておいた鞄に手を伸ばしていた。
「それじゃ、大林君。私は仕事に戻るね」
「はい。明日からまた一段ステップアップしますよ」
言いかけた否定を喉に押し込んで、今日の教習終了の文句を口にした。
「楽しみにしてるね。じゃあ」
そう告げると、有紗は教室のドアから退出していった。
「思わせぶりな台詞はやめてくれよ」
有紗の姿が見えなくなると、大林は小声で悪態を吐いた。
心がかき乱される感覚は、あまり癒されるものではなかった。
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ここまで読んでいただいて、誠にありがとうございます。
記憶術やメモリスポーツに関することでご質問があれば、どうぞ気兼ねなくコメント欄にお送りください。作者がわかる範囲でお答えします。
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