記憶術を体験してみよう

 二日かけてトランプのイメージ変換を決めると、教習は次のステップに移行した。


「イメージ変換を埋めたので、次は実際にランダムなトランプの並びを覚えてみましょう」


 大林が提案する。

 有紗は真面目な顔で頷いた。


「トランプの並びを覚えるには、イメージに変換するだけでは足りません。まずはこのことを念頭においてください」

「わかった」

「それじゃどうやって覚えるのか、と言いますと……」


 説明を始めながら事前にシャッフルしておいた有紗側のトランプを手に取り、上から8枚を摘まみ持つと席を立った。

 何を始めるんだろうと疑問に思う有紗の視線を感じながら、大林はトランプを持ったまま教室の入り口を前にして立った。


「今俺が立っている位置にイメージを置きます」

「イメージを置く?」


 聞き慣れない言い方に、有紗は首を傾げる。


「はい。置くんです。あんまり馴染みがないかもしれませんが、記憶術のコツの一つです」

「大林君、よくわかんないよ」

「まあ、最初はそうでしょう。でも今から俺がやることを見ていれば、後できっと驚きますよ」


 サプライズを告げ知らせたようにニヤリと笑った。

 大林の言葉に期待して、有紗はあえて口を噤むことにした。


「それじゃ、まず一枚目です」


 大林はトランプの一枚目を掲げ持ち、有紗に見せる。

 トランプのスーツは♧6だ。


「このトランプのイメージは?」


 大林が唐突に尋ねる。


「ええと、黒猫」


 突然の問いに驚き間が空いて、有紗が答える。


「そうです、黒猫です。例えばですが、黒猫がドアの前にいるとしましょう」


 ♧6のトランプを持ったまま大林は入り口の脇に退き、床を指さして言った。


「どうして、そんなところに黒猫がいるの?」


 例えだとしても、大林が甲斐の無い事をしているように見えて有紗は思わず訊いた。

 大林は苦い顔になる。


「どうして、と言われても。こうした方が覚えやすいから、としか言いようがありませんね」

「それで覚えられるの?」

「はい。それは自信持って言えますよ」


 俄然顔から苦みを消して、勢い込んだ口調になる。

 う、うんと有紗は気圧されがちに相槌を打った。

 大林は二枚目を掲げ持つ。♤1。


「水筒だね」

「ここにいる黒猫に水筒の水を掛けたらビショビショになった。この場所でこのストーリーが起きました。例えばですけどね」


 大林が説明すると、有紗が切なそうに慈悲を瞳に湛えた。


「ビショビショにするなんて、黒猫さんが可哀そう」

「……次、いきましょう」


 なんて心優しい人なんだ、と大林は感銘を受けつつも、頬の筋肉が緩まないように努めて教壇へ移動する。

 三枚目と四枚目を指でずらして掲げ持つ。♡3と♧2だ。


「はさみと国だね」

「教壇に置いてあるはさみで日本国旗を切り刻む。このストーリーがここで起きました」

「今思えば、クローバーのニは靴の方が良かったかな」


 有紗が後悔したように言った。


「それはお勧めしません」


 間違いないという口調で大林は言い切った。


「どうして? 国を国旗に変えるよりも靴の方がすぐに思い出せそうなのに」

「先生、スペードのニはなんでしたか?」

「ええと、スニーカー」


 論旨を逸らすような問いかけに、有紗は咄嗟に答えた。

 大林は我が意を得たり、という笑みを浮かべる。


「靴とスニーカー、紛らしくないですか?」

「スニーカーは靴の中の分類だから、全く同じものじゃないよ」

「厳密に言えばそうですけど、靴っぽいものを想像したときにそれがスニーカーだと断定できますか?」

「それはできないけど……」

「そうでしょ。そうなると例えば、クローバーのニとスペードのニのトランプを見た時に、靴とスニーカーでわざわざ類分けしないといけなくなる。でもクローバーのニが国旗なら国旗と靴っぽい物を想像するだけで済みます」

「要するに楽ってこと?」

「そうです。記憶するなら楽な方がいいですよね?」


 確かに、と有紗は頷いた。


「だからお勧めしないんです」


 話題を締めくくるように言って、五枚目と六枚目を摘まみながらグラウンド側の窓の前に歩を移した。


「次の場所は窓です」


 夕暮れの陽光でオレンジ色を反射させている窓ガラスに手をついて、♡2と♢1を有紗に見せる。


「はにわとたい焼きだね」

「窓縁に置いてあるはにわをたい焼きに突きさした。突き刺した時に餡子が飛び出るグチャリとしたイメージも付け足してください」

「餡子が飛び出るイメージも大切なんだね?」

「そうです。先生も要領がわかってきたみたいですね」


 理解を示した有紗に、大林は満足の顔で笑った。

 そうかなぁ? と有紗も照れたような笑みを返す。


「次で最後です」


 大林は宣告してから、有紗と向い合せの席に戻ってくる。

 残った♢5と♢7を指でずらし持ち、二人の間にそっと置いた。


「団子と棚だね」

「ここに置いてある団子を取ったら、その下から木の棚が生えてきた。この時、棚のイメージを見上げるくらい大きくしてもいいかも知れません」

「大林君が言うならそうする」


 有紗は講師である大林の言葉に従い、自分の背よりも大きい棚が机から生えてくる様子をイメージした。


「これで記憶する段階は終わりです。次は記憶した物を思い出していきましょう」

「今ので覚えられたのかな?」


 トランプよりも部屋中の調度に意識を払っていた有紗は急に不安になる。


「安心してください、先生。覚えてますよ」


 有紗の不安を打ち消そうとするように、大林は自信のある声で言った。

 大林君は覚えてるかも知れないけど私は記憶力ないからな、と有紗は内心で自嘲する。


「まずはドアですね」


 有紗の不安を他所に大林はドアに再び近づいた。


「先生、ここでは何が起きましたか?」

「ええと、確か黒猫が水を被ってた?」


 確認するような答え方だったが、大林は正解を告げることもなく教卓へ移動する。


「ここでは何が起きましたか?」

「ドアのところの答えは?」

「答え合わせは後でやりますから、今は教卓で起きたことを答えてください」


 反論を受け入れない口調で回答を急かした。 


「ええと、はさみで国旗を切る」

「次、いきましょう」


 窓の前へ移る。


「ここでは何が起きましたか?」

「はにわをたい焼きに突きさす」


 机へ戻ってくる。


「ここでは何が起きました?」

「団子を取ったら棚が生えた」

「それぞれの場所で起きたストーリーを辿りながら、その順番通りにトランプを並べ替えてください」


 そう促すと、八枚のトランプをシャッフルしてから有紗の前に置いた。

 有紗は不安げな面持ちでトランプを手に取って扇のように広げる。


「最初はドアです」


 大林の言葉に釣られ、有紗はドアに目を向けた。

 黒猫が水筒の水を被ってた――。

 自然と脳内でストーリーが展開される。

 トランプに目を戻し、♧6、♤2の順で机の右端から並べた。

 この後には、教卓の上のはさみで国旗を切った――。

 ♡3、♧2を並べた。

 窓ではにわをたい焼きに刺して、机の上の団子を取ったら棚が生えてきて――。

 連鎖的に場所ごとのストーリーが動き出し、有紗が頭の中に想像した教室が珍奇な出来事で埋め尽くされる。

 ♡2、♢1、♢5、♢7を迷いなく並べた。


「八枚ぜんぶ正解です、先生」


 静かなトーンで大林が褒める。

 有紗は自分でした事ではないのように思えて、並べたトランプを驚きの目で眺めた。


「覚えてた。八枚も覚えてた!」

「だから安心してくださいって言ったんですよ」

「頭を悩ませなくても、どんどん思い出せた。頭の中がどうかなっちゃったみたい」


 声を浮き立たせ、新しい遊びを知った子どものようにはしゃぐ。

 喜ぶ先生はほんとに可愛いな、と大林は密かに癒されながら腕時計を見た。

 大林の腕時計は午後六時少し前を示していた。途端に大林は慌てる。


「先生、時間大丈夫ですか?」 

「え、時間?」


 ポカンとした顔で急に訊いてきた大林を見つめて、ちらと右腕の腕時計に目を落とす。


 喜色から一転、表情に焦りが生じた。


「もうこんな時間。まだ仕事残ってるのに」

「すみません、俺の説明が長かったせいで……」

「大林君のせいじゃないよ。時間を気にしてなかった私が悪いんだよ、というか悠長に話してる場合じゃないよ」


 有紗は自身を叱咤するように言い、急いで鞄にトランプケースを詰めていく。


「それじゃ、また明日ね」


 大林に早口に告げて、振り返ることもなく教室を駆け出ていった。

説明を聞いてくれるのが楽しくて、熱が入っちまった。

 慌ててドアから出ていく有紗の姿を見ながら、大林は失敗を悔いて額に手を当てた。



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ここまで読んでいただいて、誠にありがとうございます。

記憶術やメモリスポーツに関することでご質問があれば、どうぞ気兼ねなくコメント欄にお送りください。作者がわかる範囲でお答えします。

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