トランプの変換表を作ろう
「ごめんなさい大林君。待たせちゃって」
空き教室に入るなり有紗が詫びると、昨日と同じく向い合わせた机の上で大学ノートに書き込みをしていた大林が顔を上げた。
「あ、土本先生。そんな急がなくてもいいですよ。俺の方も何かと支度があるので」
「支度って?」
「これです」
大林はノートの書き込んでいたページを見せる。
それは定規で引いた線で書かれたトランプ記憶の記録表だ。
「先生がトランプ記憶を52枚でするようになったら、一日一回記録を採らせてもらいますよ」
「記憶を採ってどうするの?」
「先生の成長をデータとして見たいからです。成長過程を残しておけば、どれほど記録が良くなったか比較しやすいじゃないですか」
「へえ、徹底してるね」
有紗は感心の目で大林を見た。
「まあ、今日はまだ使わないですけどね」
「記録はいつから採るの?」
「できれば三日目から採りたいですね。それまではトランプの変換に慣れてもらいます」
「じゃあ、今日はトランプの変換から始まるの?」
「そうですね。さ、座ってください」
大林は有紗の問いに頷き、向かいの席に促す。
有紗が席に就くとノートのページをまとめて捲り、最終ページを開いて有紗側の席に押し滑らせた。
ノートの最終ページには、縦列に1からKまでの数字、横列に♤、♡、♧、♢のスーツが並んだ表が書かれてある。
「この表は?」
「トランプのイメージ変換表です。そう言われても、よくわからないかも知れませんけど」
ははは、と苦笑する。
確かによくわからないね、と有紗は表を眺めながら頷く。
「でもこの表、何も書かれてないけどいいの?」
「今から先生に埋めてもらいます」
「え?」
意味を理解できていない表を持たされ突然埋めてくれと言われて、有紗は戸惑った。
「無理だよ。こんな、えーとイチ、ニイ……」
抗議しながら表の空白箇所を数え始める。
「52枚分です。ジョーカーを抜いたトランプ一デッキ」
「ええ、52枚全部を変換しなきゃいけないの?」
「記憶法の習得は、まずイメージに置き換えるのがスタートです。これを怠ると、後々トレーニングしづらいですから」
「そ、そうなんだ」
授業中の静かな印象からは想像できない大林の立て板に水の話しぶりに、有紗は圧倒されて相槌を打った。
「先生、今日も仕事残ってますよね?」
「え、う、うん」
「それじゃ、はやいとこ始めますか」
「わかった」
大林のペースに呑まれて従うしかない。
「トランプの変換は基本的に語呂合わせでやります」
説明を開始して、少し身を乗り出して表の♤1の欄に指を当てる。
「スペードのイチなら、スイ。イメージに変換するなら、スイッチ、スイカなどになります」
「水筒はダメなの?」
「いいですよ。変換するイメージは自由です。語呂合わせでとっさに思い付いたイメージなら、変換を覚えるのも早いですし」
「それならスペードのイチは水筒にする」
「じゃあ、次行きましょう」
♤1を水筒に決めて、♤2に移る。
そうして共同作業で変換を決めていき、♤の一列が終わった。
「スペード、全部決まったね」
一列を終えて、有紗は少しほっとした声で言った。
「先生、突然ですが問題です」
「え、問題?」
急にしかつめらしい顔になった大林に有紗は驚く。
「スペードの変換を1からKまで言ってみてください」
「ええと、スのイで水筒、スのニでスニーカー……」
有紗はスペードの1からKまでを変換したイメージを順々に口にしていく。
「スのケーで、スケート。ああ、全部覚えてる!」
嬉しさがこみ上げ、はしゃいだ声を出した。
「どうですか。案外覚えてるものですよね?」
「そうだね。まさか13枚分思い出せるなんて思わなかった」
「実は、覚えてるのには理由があるんです」
想像以上の効果に笑顔になる有紗に、大林は解説を始める。
「人間の脳というのは、無機物よりも有機物の方が記憶に残りやすいんです。だから無機物であるトランプのマークと数字を有機物に置き換えることで記憶しやすくなって、先生は記憶できたんです」
「へえ、そういう理由なんだ。じゃあそれが大林君の言う記憶の方法なんだね」
「一部はそうですね」
「一部?」
大林の言に有紗が首を傾げる。
「イメージに置き換えることが大林君の言ってた記憶の方法じゃないの?」
「イメージの変換は本当の記憶法の一部でしかないです。俺が教える記憶法はこんなもんじゃないです」
「もっと凄いの?」
「はい」
自信をもって大林は頷いた。
パァッと有紗が笑顔を輝かせる。
「今日のより凄い記憶の方法って一体どんな方法なの。教えて大林君!」
「でも、先生。時間はいいんですか?」
そう言って、自身の右手首を叩いてみせる。
はっと思い出して有紗は腕時計で時間を見た。
「あ、もう五時半過ぎてる」
「仕事は残ってるって言ってましたよね?」
「そうだった。ありがとう教えてくれて」
大林に礼を言いながら、トートバッグを肩に提げて席から立ち上がる。
「それじゃ、大林君。また明日ね」
「はい。また明日」
少し躊躇いを見せながらも大林に手を振ると、有紗は空き教室を出ていった。
大林は消えていく有紗の後ろ姿に控えめに手を振り返し、完全に姿が見えなくなると手を降ろした。
「最後、友達みたいな別れ方だったな」
ツッコミを入れつつも満更ではない顔で大林は呟いた。
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ここまで読んでいただいて、誠にありがとうございます。
記憶術やメモリスポーツに関することでご質問があれば、どうぞ気兼ねなくコメント欄にお送りください。作者がわかる範囲でお答えします。
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