第2話「幕間①/道途」

幕間・一


 スーツ姿の男、道途どうとは、出勤前に馴染みの喫茶店で新聞を読んでいた。


 ……別に情報が欲しかったからではなく、単に日々の習慣がそのまま無意識に実行されていただけに過ぎない。そのことを道途は特に気にすることもなかった。――たとえそれが、レールの上を進むトロッコであると喩えられても構わない。レールの上を進むだけの人生であったとしても構わない。……道途は、そういう価値観で生きているのだ。決まった道であろうとも、それは保証された道なのだから。困難が待ち受けていようとも、その先にも道は続くのだから。それのどこに不満があろうか。道途はそう答え続けてきた。


 注文していたコーヒーが運ばれてきた。熱のこもった湯気が、道途の細縁黒眼鏡を雲らせたので、彼は普段通りそれをマイクロファイバー・クロスで拭き取った。


 コーヒーはガムシロップとミルク付きで、道途はいつもそれを使いきっていた。ところで、いきなり全投入というわけではなかった。まずはブラックコーヒーそのままの味を楽しむ。朝の気怠さをその苦味で覚まし、喉を通り抜ける際の感触を噛み締める。


 ——噛み締めるという行為は、きっと歯や舌だけの楽しみではないはずだ。


 道途はそう思いながらコーヒーを口にする。これも日々のルーチンワークだ。日によって多少の差異はあるが、それでもこの感情は常に湧いてくる。道途はそこに安心感を抱くのだ。


 ……道途は次にミルクを入れる。小さな容器に入っているため、一気に投入する。ミルクを先に入れたのは、そのクリーミーなコクを楽しみたかったからだという。……飲んでいると、喉を滑らかに流れていくコーヒーの変化した感触が、道途の心を安らがせる。目覚めた後の安らぎ――道途は二度寝をしない。その代わりに、ミルクコーヒーに安寧を求めたのだ。


 ……最後に。道途はガムシロップの蓋を開けた。味の変化による心地良さを楽しんだ道途による、次なる一手。ガムシロップをミルクコーヒーに流し込む。

 ――優しい味の中に広がる蕩けそうなほどの甘味。コーヒーの細部にまで糖分が混ざり込む様子を想像しただけで、道途の口元には自然と笑みが溢れた。これほど愉しいことがあっていいのか? 道途は毎朝そう感じる。清涼感すら感じる苦みと、そしてミルクの素朴な甘み。それらが優しく混ざり合ったミルクコーヒーを浸し始めるガムシロップの、その暴力的なまでの甘みたるや! 道途は飲む前から既に、変化したコーヒーを楽しんでいた。さらに様変わりしたコーヒーの姿を想像し、その細部までもを脳内で咀嚼した。


 ――嗚呼、何という悦楽。何という、愉悦。道途は最早、人目を憚ることなく顔を快楽で歪めていた。ガラス張りの壁面なため、外からも丸見えである。……理性のブレーキがあとほんの少しでも緩かったならば、道途は嬌声をあげていただろう。彼にとってこのルーチンワークは、それほどの存在だったのだ。


 そして、ついに道途はガムシロップミルクコーヒーで喉を濡らすべくカップを持った。ああ、待ち望んだ時が来た――道途はその至上なる思いを胸に、カップに三度目の口づけを


「デスライダー、強・襲……ッ!」


 道途の眼前を、ガラスを飛び散らせながら刺々しい改造バイクが通過した。紛れもなく店内への侵入。というか最早これは破壊活動であった。道途の愛を受けたガムシロップミルクコーヒーは、無惨にも床に弾けた。これでは轢殺されたも同然である。


「おうおう、朝から優雅なひと時を楽しみやがってオウオウオウ。俺はデスライダー、ここ芸都げいとを死で満たさんと活動する闇の騎兵よ」


 デスライダーは骸骨めいたデザインのフルフェイスヘルメットを被ったまま、店内でバイクを激しく空吹かしした。恐怖で悲鳴をあげる者、腰を抜かす者、我先にと逃げ出そうとする者。様々な者がいた。……その中で一人、


「……貴様」


 道途は怒りに身を震わせていた。作った両の握り拳は、双方ともに血を滴らせる程に力が入っていた。


「おうおう、ビビってんのかと思ったらキレてんのか。そりゃいい、気骨のあるやつの方が殺りがいがあ」


  貴 様 ァ ー ー ー ー ー ッ ! !

                        」


 道途の怒号が、店内はおろか街路にまでこだました。それは最早咆哮に等しい規模である。事情を知らぬ者であれば、ガラスを粉砕したのはデスライダーではなく道途の雄叫びなのではないかと思いかねないほどだった。


 道途はそのまま勢いを保ちながらデスライダーへと進撃した。


「貴様貴様貴様貴様貴様、貴様という存在が、貴様がここに在るということが、その事実が俺をここまで怒り狂わせる……怒り狂わせる……ッ!」


 顔どころか、見えている肌の全てを紅潮させながら……湯気を迸らせながら、道途はデスライダーへと接近する。床は踏み抜かれて砕け散らんばかりにベキベキと軋みを上げている。


「お、お前も……なのか?」


 デスライダーが何故か声色を穏やかにさせるが、道途の怒りがそれで治まるはずなどなかった。


「破壊する……あのガムシロップミルクコーヒーが与えられた以上の苦しみを……貴様に、貴様に味合わせてやるゥァーーーーーーッッ!!!」


「〈〉」

「は?」


 デスライダーが腹部に衝撃を受けた直後に見た光景は、既に壮絶なる爆発が生じた後のものだった。デスライダーの意識は、数秒後の未来へと飛ばされていた。時空歪曲である。数秒後の未来で、デスライダーは爆発四散していたのである。


「は???」

 デスライダーの意識が現在へと引き戻され始める。


「嫌だ、いやだいやだいやだ、そこに戻ったら俺は――」

「〈   〉」


 数秒後の未来が現在となった瞬間。道途の右拳がデスライダーに炸裂し、デスライダーは爆発四散した。周囲の空間も当然爆発に巻き込まれるところなのだが、時空歪曲が発生し、爆発も爆風もデスライダーの周辺に強制的に密集した。


「……許せん、もうこの店には顔を出せんではないか……」


 道途が顔を歪ませながらやるせない思いを口にした。デスライダーを爆散したことについては特に思うことはなかったようだ。


「ごちそうさまでした」

 道途は店主にそう言いながら代金を渡し退店した。

 店主は返事をする余裕すらなかった。


 ◇


 開けた大通りを道途は歩く。未だ道半ば。己は果たしてレールに乗り続けていられているだろうか。デスライダーというイレギュラーのことを一瞬だけ思い返しつつ、道途は混凝土で舗装された街路を進む。そびえる摩天楼は、彼を迎え入れるゲートのようだ。


「最悪の気分だが、仕事を始めるか」

 道途は何かを見据えながら歩き続けた。

 後方で、サイレンの音が聞こえた。


幕間・一、了。

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