第2話 若空
羽毛布団に包まって石油ストーブの前でスヤスヤと眠っている仔だぬきを眺めて、これからどうしたものかと久里が思案していると、店の方にに戻って仕事に勤しんでいた庄司が再び部屋の扉を開けた。
「若、若空さんが来てますよ」
若空というのは、水瓶山の麓に住んでいる僧だった。
いや、僧のはずだ、というのが正しい表現なのかもしれない。
名を高藤 若空という。
4年ほど前にこの太宰府にふらりと現れ、水瓶山の麓にある円能寺という主の居なくなった荒れ寺に住み着き、いつの間にか寺を改修してちゃっかりその主に居座った人物だ。
行政の手続きをどのような手管で誤魔化したのか、荒れ果てて朽ち果てかけていた鷹峰山円能寺は、今では正式な天台宗の寺院として運営されていた。
円能寺の僧と言っても、本人にもそんな感覚はない。
常に自らを破戒僧だとうそぶいている。
煙草も吸うし、酒も飲む。肉も魚も食う、という節制とは程遠い生活をしている。
よくもそんなので破門にならないものだと久里も呆れているが、本人に言わせると『法力で衆生を救っている実績がモノを言っている』のだそうだ。
若空の普段の活動は僧ではなく、拝み屋に近い。
困って相談にやってくる人達の相談に乗り、それがアヤシゲなものだと分かると、嬉々として現場に赴き、護摩を焚いたり御札を貼ったりして解決する。
そういうアヤシゲな人物だった。
部屋から出て店先に顔を出すと、縁台に足を組んで座った若空が、無精ひげをこすりながら茶をすすっていた。
その黒の法衣は薄汚れ、ホコリがこびりついている。
とてもちゃんとした寺の住職とは思えない姿だ。
「お、くり坊、居たか」
若空は久里の事をくり坊と呼ぶ。
若空の歳から見てみれば坊やと呼ばれても仕方ないところではある。
とはいいつつも、それを素直に喜べるわけでもない。
「だから、くり坊はやめてくださいって言ってるじゃないですか」
久里は他のお客の手前というのもあって、やや小声で苦情を申し立てた。
「おー、すまんすまん。まぁ、気にするなって。あっはっはっは」
若空は久里の苦情など微塵も気にしてない。これもいつもの事だ。
「それより、くり坊。聞いたぞ。仔だぬきを拾ったんだってな」
おそらく庄司だろう。久里はそう思った。
先程、水瓶山の方のたぬきではないかという話をしたばかりだ。
若空の住む円能寺も水瓶山の麓にある。
庄司が若空にたぬきの住処を聞いたに違いない。
「えぇ。それがどうも宝満山の方ではなく、水瓶山の方なんじゃないかって。若空さんは何かご存知ないですか?」
久里は若空の隣に座りながら訊ねた。
庄司が久里のお茶と梅が枝餅を運んできて、紗のかけられた縁台の上にそっと置いた。
「おぉ、庄司さん、流石だ。気が利くねぇ」
庄司がぺこりと頭を下げて他の接客にまわった。
若空は梅が枝餅を早速手にして頬張り始めた。
「いや、さすがにオレも水瓶山全体を見渡せる千里眼を持っているわけじゃないしな」
梅が枝餅をもぐもぐと咀嚼しながら、お茶を含む。
「そりゃそうですよね。でもまぁ、たぬきのあやかしが居るかどうかくらいはご存知じゃないんですか?」
久里は自分の湯呑に入った緑茶に口をつけた。
「そりゃぁ、いるだろうさ」
若空は声高に笑った。
久里には何がそんなにおかしかったのか、分からなかった。
思わずきょとんとした顔になる。
「あいつらはどこにでもいるさ。お前も他人の事は言えないだろうに」
若空のあっけらかんとした言葉に久里は眉をしかめる。
「えぇ。そりゃぁ、まぁ」
若空の言う通り、久里もあやかしの眷属ではある。
この『朧月』という茶屋を開いた祖先は、もともと道真公の式神だった。
道真公にお仕えして度々氾濫する筑後川や宝満川、御笠川の治水工事を担ったという。
いわゆる河童の一族だった。
九州では河童を兵主部(ひょうすべ)という。
この兵主部が川原久里の先祖だった。
『北肥戦誌』という書物がある。
佐賀藩士の馬渡俊継が正徳年間に編纂した九州の通史だ。
その北肥戦誌の巻之16「渋江家由来の事」にこんな伝承が記されている。
神護景雲2年、京の春日大社が三笠山に遷される事になった。
内匠頭が式神として人形に命を与えて、社殿建立の人夫として使役したという。
無事春日大社が遷されて後、式神は川に打ち棄てられてしまった。
この式神が河童となり里の人々に害をなしたが、称徳天皇の代に兵部大輔の役に就いていた橘島田丸がこれを討伐して彼等を従えた。
それ以来『主は兵部』という意味で『兵主部』と呼ぶようになったという。
九州北部の水難、河童避けのまじないとして『ひょうすべよ約束せしを忘るなよ川立おのがあとはすがわら』というものが現在まで伝えられている。
これは菅原道真公が筑後川の河童を助けたという伝承から由来するものだとされており、その後、兵主部は菅原道真公の使役神として治水に活躍したという伝承が残っている。
あまり大きな声では言えないが、川原家はそういう由緒正しいお家柄だった。
道真公に仕え、太宰府に降って居を構えるようになって、久里でちょうど60代目にあたる。
人界に紛れ、人に化け、人と暮らしていくうちに人の血も混じってしまったが、それでも立派なあやかしの端くれではあった。
そんな久里が『山にたぬきのあやかしがは居ないか』と訊いているのだ。
若空にしてみれば、大声で笑い飛ばしたくなったとしても仕方がないと言えた。
「ま、お前はもうすっかり人のつもりなんだろうけどな」
若空はそう言うとズズッと茶をすすった。
「それでも、自分が人じゃないってことを忘れちゃいかん」
久里はバンッと背中を叩かれて、おもわずむせそうになった。
―そう。そうなのだ。
久里は改めて思い直す。自分は人ではないのだと。
人界に紛れて生まれ育ったせいで自覚することはあまりないが、確かに人ではない。
なにしろ、あやかしが見えるのだから。
なにしろ、人とは違う力を持っているのだから。
いくら人の血が混じったとはいえ、いくらその力が人に限りなく近くなったとはいえ。
それでもやはり、あやかしは人ではない。
「忘れちゃいかんが、当然考えすぎるのもよくはない」
気がつくと、若空の真剣な眼が久里を射抜いていた。
若空が手に持った湯呑で、久里の額を軽くコツンと小突いた。
久里は複雑な心境のまま、額を手のひらで押さえる。
「それじゃぁな。オレは長旅で疲れたので、寺に戻って一眠りするよ」
若空は茶代を縁台に置くと、縁台に立てかけてあった錫杖をつかんで立ち上がった。
そういえばここ最近若空の姿を見かけてなかったな、と久里は思った。
若空はどこからか遠いところから依頼があって、旅に出ることもあるとか言っていた。
今回もどこか遠いところに出かけて拝み屋の仕事をやってきたのかもしれない。
傘を目深に被り、軽く手を挙げた若空の後ろ姿が遠ざかっていく。
その姿はどこか物憂げで、むさ苦しく、疲れ果てているようだった。
少しばかり、脚を引きずっているようにも見える。
―きっと大変な仕事だったんだろうな
久里はぼんやりと、そう思う。
若空の拝み屋という生業はアヤシゲな仕事だが、あやかしもあちこちに居るのだ。
若空のようなアヤシゲな者にしか晴らせない想いというものも、あるのかもしれない。
そんなことを、ぼんやりと思う。
シャラン――
若空のむさ苦しい格好とは裏腹に、涼やかに錫杖の輪が鳴った。
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