第3話 稲荷社のお銀
学問の神様として有名な太宰府天満宮。
本殿から回り込むと菅公歴史館の白い建物が見える。
そこから北に向かうと、右手に野見宿祢の碑や筆塚が見える。
久里は野見宿祢の碑で立ち止まり、相撲の神様であり道真公の祖神でもある宿祢の前で柏手を打って頭を垂れた。
しばらく心の中で祝詞をあげて目を開くと、久里は屈んで碑の前に並べてある力石を右手でそっと撫でた。
力石は丸い石が3つ、横に並べてある。
それぞれの石に向かって左から順に『松』『竹』『梅』と陰刻で大きく刻まれている。
松は120kg、竹は100kg、梅は70kgある。
久里は既に『松』を終えている。
つまり、久里は120kgを持ち上げることができる。
川原家独自の習慣なのだろう。
他にこの石を持ち上げるという儀式をやっているという話を聞いたことはない。
川原家は河童の末裔だ。
河童といえば、胡瓜に相撲。
川原家の男児は15歳にもなれば、この力石の『松』を持ち上げる事を必達とされていた。
当然、相撲の祖神に対するお参りは欠かす事などできない。
とはいえ、今日は単に野見宿祢の碑の前を通りかかっただけだ。
用件はこの奥にある。
野見宿祢の碑と筆塚を通り過ぎ、菅公歴史館と照星館の間を通り抜け、小径を進むと階段が現れて、中神茶屋に突き当たる。
そこをやや北向きに右折れて不老松月本店と松島茶屋の間を抜けていくと、勾配がややきつくなってくる。
ここから先は、太宰府天満宮とは言いにくい。
石段の両脇に赤地と白地の幟が立っている。
赤地の幟には白抜きで、白地の幟には赤く『正一位 天開稲荷大明神』と書かれている。
ここは既に稲荷社の敷地内だ。
天開稲荷社は九州最古の稲荷社として、京都の伏見稲荷大社から宇迦之御魂神を勧請して鎌倉時代に建てられている。
要はものすごく古い稲荷社ということだ。
久里は悠々とスピードを緩めずに石段を登っていく。
やがて左手に1mほどの石垣を見て、朱い鳥居をくぐっていくとそこが天開稲荷社だ。
久里は参拝せず、軽く拝殿に会釈をすると、左手から後ろに回り込んで奥の院へ向かう。
拝殿から本殿に向かう細長い幣殿に沿うように伸びる狭い石段を上っていくと、そこに天開稲荷社の奥の院がある。
天開稲荷社の奥の院は、石を組み上げて作られており、古墳の玄室のような姿を今でも保っている。
久里は奥の院で柏手を打ち、頭を垂れると早々に更に東へと回り込んだ。
点々と置かれた岩による結界から脚を踏み出して奥へと進む。
奥へと進んでいくと、久里の視界の隅にふわりと踊るものが過ぎて行った。
「お銀、居るんだろう?」
久里が声を掛ける。
「はいな」
先程、久里の視界を掠めていった影とは反対方向から声がした。
「相変わらずの悪戯好きだね」
久里の顔に笑みが浮かぶ。
久里の視界の隅を走っていったのは柔らかな狐の尾だった。
しかし、そちらの方ではなく、反対側からお銀は姿を現した。
「どなたかと思えば、川原の若でしたか」
樟の陰から姿を現したのは、白い和服を着た小柄な若い女性だった。
久里を一瞥すると、つまらなさそうに軽くため息をつく。
「からかい甲斐のないこと」
お銀はそう言って袖から手ぬぐいを取り出すと、それを岩の上に敷いて腰をおろした。
久里は困ったように頬を掻いている。
「で、用件はなんです?」
お銀は斜に構えると切れ長の目で久里を見た。
「あぁ、実は御笠川で仔たぬきを拾ってさ……」
久里は今までの話を掻い摘んで話した。
「で、なんでアタシのところに?」
お銀は呆れたように久里から目をそらし、深々とため息をついた。
「いやぁ、お銀さん、ご存じないかなって」
久里は申し訳なさそうに愛想笑いをしている。
「なんで狐の眷属のアタシが仔だぬきの事なんかを知ってなきゃいけないんです?って聞いてるんですよ!!!!」
お銀がついにキレて大声を出した。
「化けるケモノのあやかしだからって、なんでよりにもよってたぬきなんですか!!」
お銀の主張も、もっともな話だった。
お銀はこの天開稲荷社に住む狐の眷属だ。
この天開稲荷社の白狐、波多見は、齢900年にもなろうかという大妖だ。
この波多見に仕える眷属の狐の数も数十に及ぶ。
もちろん、齢を多く重ねた大妖は力も強い。
しかし、歳が歳だけになかなかに起きてこない。
波多見はこの奥の院の更に奥深いところでほぼ毎日を眠って過ごしていた。
お銀はこの波多見の側仕えをしている妖の眷属だった。
眠っている波多見の世話をしながら、時折こうして人界にも顔を出すという、割と人に馴染みのあるあやかしでもあった。
だからこそ久里は何か仔だぬきに関する情報を持っていないかと思い、訪れたのだが。
「いや、ほら、天開様の側仕えだから、何か情報を持っていないかなぁ……って」
「川原の若、狐と狸が犬猿の仲だっていうのを知らないわけじゃあないんでしょう?」
お銀はキッと久里をにらみつける。
もともと切れ長で険のある目つきだけに、にらみつけられると妙に迫力がある。
しかも、その姿が和装となるとなおさらだ。
「いや、そりゃ知らないわけじゃないよ。だけど、何かと情報通なところがあるし」
久里がモゴモゴと言い訳じみた理由を口にする。
確かに狐の眷属は情報通な部分がある。
理由は全国に分社があり、その社ごとに狐が付録のようにくっついているからだ。
その妖狐を中心として、狐の眷属が数匹(人?)ついている。
それらがそれぞれに定期的に天狐と連絡を取り、情報を共有しているのだ。
その情報網は、あやかしの中でも群を抜いていると言われている。
「まぁ、そりゃ確かにそうなんですけどね」
「天開様は?」
天開様というのは、宇迦之御魂神からこの天開稲荷社の管理を任されている大妖の波多見の二つ名だ。
本来は宇迦之御魂神を天開様と言うべきなのだが、神は実際にはこの社にはおらず、京都の伏見稲荷大社に居る。
それで実質的にこの天開稲荷社を管理している波多見を天開様と呼ぶようになっていた。
いつの頃からなのかはよく分からないが。
「お眠りになってる。ここ2ヶ月ほどは起きてませんよ」
お銀はぶっきらぼうにそう答えて、綺麗に揃えた膝の上で頬杖をついた。
「だから、天開様に聞こうっていう話ならお断りです」
お銀はピシャリと言った。
取り付く島もないとはこのことだ。
「九郎も若空さんも知らないって言われてさ、困ってるんだよ」
九郎というのは宝満山に住む烏天狗で、若空は水瓶山の麓に居を構える拝み屋だ。
どちらも割と人界という世間に近いところで生活をしている。
もっとも、若空は人なのだから当然といえば当然なのだが。
「だからって言って、狐に狸の住処を聞く莫迦がどこに居るのさ」
お銀は久里に聞こえるように、わざと大きな声で独り言を言い放った。
久里は苦笑するしかない。
「第一、見ず知らずのあやかしの仔を助けるなんていうのも、物好きもここまで来りゃ極まってるとしか言いようがないよ」
お銀の言葉がグサグサと久里の心に突き刺さる。
しかし、そう言われるのは仕方がない事でもあった。
久里自身にも莫迦な真似をしているという自覚はあったのだ。
「まぁ、若のお人好しに免じて、何か分かったら知らせしますよ」
お銀はふんと鼻を鳴らすと久里の目をじっと覗き込んだ。
「厄介な目に合いそうになったら、すぐに知らせなきゃ駄目ですからね」
お銀のいつにない真剣な表情に久里はたじろぐ。
「分かりました」
久里がお銀の表情に気圧されて返事をした次の瞬間、岩の上に座っていた白い着物姿のお銀は、手ぬぐいもろとも煙のように消え去っていた。
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