西の都の朧月

上津 響也

第1話 久里

うわーん、うわーん。


 赤ん坊が泣いているような声がどこからか聞こえてきた。

川原久里は歩いていた脚を止め、泣き声がどこから聞こえているのかを探そうとした。


うわーん、うわーん。


 空耳ではない。確かに泣き声が聞こえる。赤ん坊の泣き声としてはややおかしなところがあったが、間違いなく泣き声がする。


―どこからだろう。


 久里は耳を澄ます。

散歩とも言えない散歩の途中。御笠川の川縁。

久里が考え事を整理しながら歩いていた途中で出会った泣き声だった。


 耳を澄ますと微かに水の音も聞こえてくる。


―川に子供が落ちた?


 久里は慌てて声の方向に走り出す。

冬の冷たい空気が久里の頬を音を立てながら掠めていく。

曇は低く垂れ込め、風は冷たく桜が整然と並んだアスファルトの間を吹き抜けていく。


―この寒さは流石にヤバい。


 今にも雪でも降り出しそうな気配がある。そんな中、子供が川に落ちたとなると命に関わる。

足元がスリッポンという、ちょっと出かけてくる的な散歩にすら相応しくない靴を履いて来てしまった事を久里は心底から悔やんだ。

そうは言っても、家から出る時に人命救助で走らなければならないという事など想定はしていなかったのだから仕方がないとも言えた。


 川面に溺れている姿を探しながら、久里は走った。

観世音大橋が見えてきたところで何かが溺れている姿が目に入った。


―子供じゃない?


 走りながらもよく見てみると人ではなさそうだった。

茶色の小さい姿が水面でもがいている。


うわーん、うわーん。


 赤ん坊の泣き声のような気もするが、その姿は決して人間の子供ではなかった。


―たぬき?かな?


 観世音大橋のすぐ下あたり。茶色い姿の動物は川の真ん中あたりでじたばたしている。


―まぁ、しょうがないか。


 観世音大橋についた久里はスリッポンを脱ぎ、ターコイズブルーのダウンジャケットを脱いで橋の欄干に足を掛ける。

ふと気付いて周囲を見渡した。人影はある。

すぐ近所にある筑陽学園高校の制服姿がちらほらと数人見える。

久里はため息をつき、橋の欄干に掛けた足に力を入れて躊躇なく跳んだ。


「いよっ!」


ざぶん。


 久里は足から川底に着地した。

昨日降った雨はあったが、この辺りの御笠川の水深は浅い。

小学生すらも足がつく。まぁ溺れることはない。


―冷静に考えてみたら、子供が落ちたんなら親御さんが助けられるレベルだわな。


 久里はそう反省しながら小さなたぬきを抱え上げた。


うわーん、うわーん。


 たぬきは久里の腕の中で相変わらず泣き声を上げている。


「で、どうするんだ?」


 上から声がした。

久里が見上げると黒い烏天狗が宙を飛んでいた。


「どうしたもんかな」


 久里はずぶ濡れで泣いているたぬきを抱いて困った表情をしていた。


「どうしたもんかなって……」


 烏天狗は観世音大橋の欄干の上に降り立つ。

高下駄のまま欄干の上に立っているのを見て、久里は器用だよな、などと改めて感心してしまう。


「また、おめぇは考えもなしによ」


 烏天狗は欄干の上でゲラゲラ笑っている。


「そんな事、言ったってよ」


 久里は憮然とした表情で烏天狗を睨んだ。


「溺れているのを見殺しにするわけにもいかないだろ」


 その表情を見て、烏天狗は更に笑い声をあげた。


「そういう話じゃねぇんだよ。だからおめぇの目は節穴だってんだよ」


 烏天狗が手にした錫杖で、久里が抱きかかえたたぬきをピタリと指して言った。


「おい、キュウリ。そいつはあやかしだぜ」



    ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ 



 福岡県に太宰府市という市がある。

学問の神様として毎年多くの受験生が訪れる、太宰府天満宮のお膝元だ。

太宰府天満宮には学問の神様、菅原道真公が祀られており、受験シーズンでなくとも毎日多くの観光客で賑わっている。

その歴史は古く、菅原道真公が太宰府にやってくる前から九州の政治と文化の中心地だった。

ちなみに福岡の商業都市『博多』が商業と文化の中心地となるのは、平清盛公が平安時代中期に港を拓いてからの話だ。

つまり、それまではこの太宰府が政治と文化の中心だったのだ。


 今でこそ博多のベッドタウンとなった太宰府市だが、太宰府天満宮の周辺にはまだ古い町並みが残っている。

九州の政治と文化の中心地としての面影が残っていて、あらゆるところに古い神社やお寺が散らばっている。

それらの寺社をつなぐようにして細い道が張り巡らされて、町を形作っている。


 その中でも特に特徴的なのが太宰府天満宮の参道だ。

西鉄太宰府駅から太宰府天満宮へと伸びる、綺麗に整備された石畳の参道の両脇には多くの店が軒を連ねている。

土産屋をはじめ、梅が枝餅を売る茶屋、コンセプトショップ、近年は古来の木の建材を使った近未来的なデザインのスターバックスもできた。

そんな参道を南北に横切る道の傍らに川原久里の住む家があった。


 久里はずぶ濡れのたぬきを抱えたまま、入り口の店舗を突っ切り、奥にある家屋の自分の部屋に早足で駆け抜けた。


「若?若ぁ??」


 店先で八女の茶を煎じていた庄司がそれに気付いて声を掛けたが、久里はそれをガン無視して自分の部屋に直行した。

部屋の暖房を入れ、更には石油ストーブに火を点ける。

たとえ人間の子供でなかろうと、たぬきだろうと、あやかしだろうと寒いものは寒い。

まずは、この仔だぬきを暖めてやる必要があった。


 仔だぬきをダウンジャケットで抱きかかえたまま、裏の倉庫に山積みになっている新聞紙を無造作に数部ひっつかみ、部屋に戻って畳に敷いた。

その新聞紙の上に仔だぬきを乗せ、脱衣所からバスタオルを3枚ほどとドライヤーをつかんで部屋に戻り、ごしごしと仔だぬきを拭きあげてからドライヤーで乾かす。


 最初はドライヤーの轟音に怯えていた仔だぬきも、やや距離を離して暖めてやるうちに慣れたのか、ドライヤーを威嚇しなくなった。

ドライヤーで乾かした後、押入れから羽毛布団を引きずり出し、仔だぬきをくるんで石油ストーブからやや離れた場所に置く。

やがて仔だぬきは安心したのかウトウトしはじめた。


 久里はここでようやく自分のジーンズの裾が濡れている事に気づき、慌ててジャージに着替えた。

そしてひと心地ついたところに、見計らったように庄司がお茶を入れてきた。


「若、ほうじ茶です」


 庄司は盆に自分と久里のほうじ茶を入れて、部屋に入ってきた。

庄司は久里の両親が経営する茶屋『朧月』の従業員だ。

歳は37才で独身。

温厚そうな笑顔と、人当たりの良さと、抜群な味のセンスで久遠を切り盛りしている。

久里の両親が隠居だと宣言し、世界各地を旅している現在は、実質『朧月』を経営しているのはこの庄司と言っても差し支えないだろう。


 一方、久里はこの庄司に弟子入りして、料理と茶の腕前を磨いている最中だった。

庄司と久里の関係は師弟関係にあると言ってもいい。

したがって庄司が久里を『若』と呼ぶのはおかしいのだが、どうも庄司は久里の両親に大恩があるらしく、久里を『若』と呼び続けている。


「あぁ、ありがとう」


 久里はありがたく湯呑を手に取ってほうじ茶を口に含んだ。

深い香りが心地良い。


「たぬきですか?」


 久里がほうじ茶を飲んで落ち着いたのを確認してから庄司が口を開いた。


「あぁ、そうみたいだ」


 数秒の間があった。


「どこのあやかしで?」


 庄司が困ったような表情で久里に訊ねる。


「たぶん、連歌屋か水瓶山の方かな」


 太宰府天満宮の裏側はすぐ山が迫っている。

北東の方角には宝満山があり、北西の方角には四王寺山地が迫っている。

連歌屋はその四王寺山地側の地名で、水瓶山はその奥にある四王寺山地の山の一角だ。一番太宰府側に寄っている山だ。


「宝満山側ではない?」


 怪訝そうな表情で庄司が訊く。


「こいつを拾った後に九郎に会った。九郎は見覚えがなさそうだったからね」


 九郎というのは宝満山に住み着いている烏天狗のことだ。

久里が仔だぬきを救出した時に、たまたま観世音大橋を通りかかったらしい。

九郎は宝満山に居る連中は動物もあやかしも含め、おおまかに把握しているという話だった。

だから仔だぬきを『ウチの眷属だ』と言わなかった時点で宝満山に住み着いているわけではないことになる。


「なるほど」


 庄司はしばらく考え込んでいたが、意を決したように言った。


「で、どうするおつもりです?」


 久里はうーんと唸り、腕を組んで首を捻った。


「どうしようか」


「あ、やっぱり」


 庄司は久里の返事を予想していたかのように苦笑した。

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