第17話 一寸木
加賀谷亨は、終電一本前の電車に揺られながら、散々だった今日あった出来事を思い出していた。
入社して二年目。仕事にも慣れ、自分よりも新しい部員もいる。
慣れたころが危険だ。なんて言う上司の言葉を、他人事にしか思っていなかった。
けれど、先日、発注した個数の入力間違いに気づいたことから始まり、取引先と発注先に電話をかけ、頭を下げた。
十桁ではなく三桁だ。金額も自分の給料ではどうにもならない。
上司からは怒られ、反省文と、今後の防止策に一日が過ぎ去った。
明日は間違いによってできなかった仕事が、まだかまだかと書類の山となって机の端におかれているのを処理しなければならない。
加賀谷は頭をかきながらため息をついた。
電車を降りると、冷たい風が首筋をなで、体がぶるっとふるえた。
家に帰っても誰もいない。ひんやりと暗いアパートの自分の部屋を思いうかべた。
こういうときこそいてほしい一寸木は、遠い。
学生時代は、一人暮らしをしている彼のアパートに入り浸って、
「ここはお前のうちか?」と同級生にからかわれたほどだったのに。
今は、仕事が忙しく、週に一度連絡が取れればいい方だ。先週は、と思い返すと、一度も連絡していないことに気づいた。
「こうやって、疎遠になっていくんだな」
十二月の澄んだ星空を見上げて、つぶやいた。
加賀谷のアパートは、駅から徒歩十五分のところにある。
西間壮という築なん十年のアパートだ。鉄筋の階段を上がる音が静けさの中に響く。
階段を上がりきり、かばんからカギをだそうとして気づいた。
「電気、ついてる……!」
カギを開けて中に入ると、こたつで一寸木が寝ていた。
合いカギは渡していた。いつでも来たらいいって。一寸木からも合いカギをもらっていた。でも、就職してから使ったのはほとんどない。それは相手がいたから使う必要がなかったのだ。
部屋に入ると、暖かい。
まとっている冷たい夜気もどこかへ行ってしまった気がする。
起こさないように、しのびあしで一寸木に近寄る。
そばにしゃがみ込んで寝顔をのぞき込んだ。
学生のころから見慣れた顔。それなりに整った顔つきに人付き合いもよい彼は、モテた。「行こう」と言われれば、行き。「付き合って」と言えば付き合う。だから、校内を歩く彼の隣には、常に誰かしら女子がいた。
そんなことを言うと、一寸木が浮気者のように聞こえてしまうが、ただ、彼は断れない性分だったことを、ある折に聞いて知った。
そんなんで、トラブルが起こらない方がおかしい。
一寸木のそばにいると、幾度か修羅場に遭遇した。
これも懐かしい思い出だ。
そんな彼だが、自分のアパートには連れてこなかった。
だから、加賀谷が入り浸ることができたわけで。
多少、付き合っている女性から恨まれることもあった。
面と向かって、「邪魔なのよ」とニコリとしながら言われたこともある。一寸木から、出て行ってくれと言われたら、出て行こうとぐらいに思っていた。それぐらい、自分の家にいるよりも居心地がよくて居座っていた。
就職してからの女性関係を聞いたことがないのでわからない。
一寸木の隣にいる女子を想像すると、いつもモヤる。
落ち着かない。寂しい気持ちになってしまう。
これは、どうしてなのか、深く考えないようにしてきた。
考える時がくるかもしれないし、一寸木が結婚してしまえば考えなくてすむ話だ。
上着を脱ごうと、側を離れようと立ち上がると、
「亨」
と、名前を呼ばれた。
「なんだよ。起きてたのか」
見ると、一寸木は寝ていた。
「寝言かよ」
夕飯は、会社で済ませてきた。あとは寝るだけ。
シャワーをあびてきたいが、一寸木の寝姿に気が緩み、
ちょっとだけと、こたつに足を突っ込んだ。
男二人だと、こたつの中では足があたってしまう。
足を一寸木の方にむけるわけにもいかず、寝っ転がると、すぐ近くに一寸木の顔がある。規則正しい寝息が聞こえ、今日の疲れもあってか、一瞬にして夢の中だ。
「……とお、亨!」
揺さぶられて目が覚めた。
窓からは朝日が差し込んでいる。
「今何時?」
慌てて聞くと、
「七時だけど」
「遅刻する!」
慌ててこたつから出たところで、手首を掴まれた。
「なっ……。あと十分しかないんだけど」
「……わかった」
掴んでいた手が緩む。
眉がハノ字になって、笑んだ。その笑みは寂しそうで、彼になにかがあったのかと心配になった。
時間はないのはわかっていたが、
「どうかした?」と聞いた。
一寸木は、一瞬思案気な顔をしたあと、加賀谷の肩に頭を乗せた。
「な、なんだよ」
「三分だけ」
「なにがあったんだよ」
「……。カミングアウトした」
「?」
「ゲイですって」
「……。俺も初耳だけど」
一寸木は、おでこをつけたままうなずいた。
「覚悟してたけど、しんどくてさ。ちょっとだけ、肩貸してよ」
「……。あと二分な」
かすかに笑った感触が服越しに伝わってきた。
一寸木の言ったことに対してか、肩をかしているせいなのかわからないが、鼓動が速い。気づかれていなければいい。
いや。気づかれたっていいのか。
そうか。一寸木は、きちんと自分と向き合って答えをだしたのか。
きれいな右巻きのつむじを見ながら思った。
加賀谷は、一寸木の肩を持つと、彼から一歩下がった。
急いで支度を済ませ、靴をはくと、上がりとに立つ彼を振り返った。
「行ってくるから」
「うん。いってらっしゃい」
一寸木は、手をふった。
パタンと背越しに扉が閉まる音がした。
今日もいるかどうか聞かなかった。
聞くのが怖かったというのもあるけれど、まずは自分の気持ちに向き合いたかった。
側にいてほしいのは彼なのか。それとも別の誰かなのか。
でも、もう答えはとっくにでている。
いつも寂しいときに思い出すのは一寸木なのだから。
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