第23話
母は優介のことを未熟だとは思っているけど対等に接しなくてもいいとまでは思っていなかった。子供になめられたくない不安に加えて照れくささもあった。今は優介はすやすや寝ていると思い込んでいるので、母はいいたくてもいえなかったことを話した。なかなか眠れずにいる子供を寝かしつけるために、昔話を読むように、ゆっくりと落ち着いた声で。
「優介は転校したくなかったんだよね。お母さんはてっきりお母さんと一緒に暮らせるから転校しても気にしないんだろうなと思ってたわ。でも違うよね。いきなり友達と離れ離れになったんだからさみしいよね。あんたを神社で見つけたとき、思い出したことがあるの。お母さんもあんたくらいのときに家出したのよ」
優介の母が過去に家出したことは話したのは今が初めてだ。話したくなかったわけではなくて、忘れてしまっていたのだ。優介は母の話が気になってますます眠れなくなった。相槌を打って話の続きを促したい衝動に駆られたが、起きていることが母に知られたらこの話をしてくれないかもしれない。優介は狸寝入りを続けて気長に母の話を待つことにした。
「お父さんとお母さんが離婚しちゃってね。お母さんと一緒にこの町で暮らしていたんだけど、お母さんは仕事で忙しくて全然私の話を聞いてくれなかった。さみしかったわ。それで、家出しちゃってあの神社に迷い込んだの。おかしな話だけど、神社に生えている木の声が聞こえてね、仲良くなったの。話し相手ができてうれしかったわ。あの木のおかげでさみしくなくなったの」
優介は母の話に共感した。優介もナギやコジロウと出会ってから楽しい気持ちになることが多かった。本当は家出をしていて不安やさみしい気持ちになるはずなのに、そうならなかった。母は、もしかしたらナギと出会ったのかなと優介は思った。
「おかしいよね。木が話すわけないもん。でも、話してくれた気がしたの。さみしさがなくなると、不思議と家に帰りたくなったの。それで、木にまた来るねって約束して帰って、お母さんと話をしたのよ。この町に一人で住んでる優介のおばあちゃんね。そしたら私の気持ちをわかってくれて、仕事で疲れてるのに私のことも気にかけてくれるようになったの」
ナギとの約束を破った少女は優介の母だった。ナギは母が来なくなって悲しくなり、人間とはかかわらずに生きて行こうと決めていた。その決意から数十年後、優介と出会ったことで考えをあらためることになった。しかしナギは未だに約束を破った少女のことをよく思っていなかった。事情を知らないからだ。優介は少女のことをナギに話してあげたくなった。悪意があって約束を破ったのではないと知ったらナギの心は少しでも救われるのではないか。
「家に戻ってもとの生活をしていたら木との約束をいつの間にか忘れてた。さみしかった私の話し相手になってくれたのにね。恩知らずだわ。神社であんたを見つけたとき、木に怒られたような気がしたのよ。お前もさみしい子供時代があったくせに、自分の子供にも同じ思いをさせるのかってね。運動会は行けなくてごめんなさい。お昼ごはんも用意してなかったね。来年からはちゃんとするから。おやすみなさい」
優介はもし起きているときにこの話をされたらどう反応すればいいのかわからず困っただろう。幸いにも優介は寝たふりをしていて、母も優介が熟睡していると思い込んでいる。だから反応は不要で、ただ聞いているだけでよかった。
母は寝ている優介に話をしたつもりだった。優介というよりは自分自身にいい聞かせたほうが正確かもしれない。声に出すことで自分を戒める。自分も子供のときはさみしかったくせに優介にまでさみしい思いをさせてどうするんだと。
母は自分のために話をした。自分にとって意味のある行為のつもりだった。だが、優介にとっても意味のある時間となった。母の嘘偽りのない話は優介の心を温めたのだ。優介は家出をやめて家に戻ったけど母を許してはいなかった。謝ったのもヤクルトとの約束があったからだ。母に対しては心を閉ざしていた。心の扉が冷たく凍っていた。
でもたった今、優介の心は雪解けが始まった。すぐには完全に解けないけど、大人になるころには解けてしまって母に対して閉ざしていた心は開くだろう。
優介は眠った。いつもとは違う安心感があった。母が優介に謝ったということは、優介を大切に思う気持ちがあるということだ。優介もそのことは何となくわかった。家出の直接の原因となった運動会の件も母の言葉で優介は少しだけ許した。すべてを許したわけではないけど、これから徐々に、時間をかけて運動会に来なかった母を許せるようになるだろう。
ナギも優介なら母を許せる日が来ると信じていた。優介はほかの人間とは違う。自然の声を聞くことができる。怒りを怒りで返す人でもない。だから人を許すくらい簡単にできるだろうと。
翌朝、優介はいつもと同じ時間に目を覚ました。母はもう仕事にでかけていた。いつもと同じ朝。朝起きてもおはようと言う相手がいないのには慣れていた。優介はあくびをしながらリビングに行った。
リビングもいつもと同じ光景だと思っていた。でも、テーブルの上には朝食が用意されていた。皿にベーコンエッグが盛り付けられている。何かをしながら調理したためかベーコンは焦げていた。毎朝菓子パンに比べたら、優介は焦げていても手作りの朝ごはんのほうがおいしいと思った。
優介は食べながら祖母の肉じゃがを食べたときのことを思い出していた。誰かのために作られた料理はおいしい。大量生産されたものとは違う何かがある。心だ。不特定の人じゃなくてこの人に食べてほしいという心が込められている。運動会では、母の手作りのお弁当を食べられなかったけど、今日ベーコンエッグを食べられたからよしとしようと優介は思った。
流し台ではまだ汚れたままの皿が水につけられていた。優介の分まで朝食を作っていたら皿を洗う暇がなかったようだ。優介は自分の皿を洗うついでに母が汚した皿も洗った。母は優介に後片付けまで期待していなかった。母は、仕事を始めてから料理をさぼってしまって、いつもスーパーの総菜ばかり食べていた優介に、手作りの料理を食べてもらいたかっただけだった。
優介が母の皿まで洗ったのは義務感からではなく感謝の気持ちからだった。母はそこまでするのを望んでいなくても、優介の母に感謝する気持ちが必要以上のことを優介にさせたのだ。優介は今日の朝の出来事をナギとコジロウにも話したくなった。勇気を出して、一言だけ謝ったら朝ごはんが用意されていたことを。
それから、昔ナギに会った少女のことも伝えなくてはと思った。今もナギは少女のことで悲しい思いをしているかもしれない。でも、その少女はナギと出会ったおかげで家に帰る気になって、母親と和解することができたと知ったら、ナギは少しでも報われた気持ちになれるだろう。あの出会いには意味があったんだと。
優介は神社に行ってナギやコジロウと話したかった。もし今が夏休みならすぐにでも行くことができるけど、まだ一学期が中盤にさしかかったばかりだ。夏は遠い。人間の世界では子供も忙しい。
子供はみんな勉強が仕事と言い聞かされて育つ。大人は労働が仕事。それじゃあ退職した人は何が仕事なのだろうか。人は年齢で区分された一定の時期にそれぞれの仕事があるけど高齢者の仕事についてはあまり言及されることがない。
とにかく優介は子供の仕事で忙しかった。ほかにも大久保との付き合いもあってなかなか神社に行けずにいた。大久保とだけの付き合いなら一緒に神社に行けばいいのだが、家出をやめて学校に通うようになってから優介と大久保の交友範囲は広がっていたのだ。
梅雨になり、じめじめした空気がうっとおしく感じるころには新しいクラスにも慣れてくるものだ。クラスでの自分の立ち位置も決まってくるし仲良しグループを結成している人もいる。新しいクラスでどんな一年を過ごすことになるのかもだいたい予想できる。梅雨とはそんな時期だ。
最初のきっかけはささいなものだった。ある日の昼休み、優介は大久保と運動場で暇をつぶしていた。この日は晴れていた。日差しが気持ちよくて室内にいるのがもったいない一日だった。二人は運動場を歩いて回った。疲れたときは座れそうなところを探して腰を下ろした。
「おーい、ハンベーしようや」
地面に埋まっているタイヤに座って休んでいた二人に一人の少年が話しかけてきた。優介と同じ六年一組の児童だ。クラスの男子たちのなかでは中心的な人物だ。明るく、面倒見がよくて友達も多かった。そんな彼がクラスに馴染めていない優介を含む二人に声をかけた。
優介たちは突然のことだったので対応に困った。友達の輪を広げる絶好の機会だ。ほかのクラスとのつながりもできるかもしれない。優介は新しい人間関係が不安だった。人との付き合いが増えれば自分が傷つく機会も増える。それでも優介は前に踏み出した。
「行こう。キャッチボールで投げる練習はしたんだから、大丈夫」
転校してまだ日が浅い優介が大久保の背中を押した。大久保は転校が多い家庭だったから、仲良くなった友達と離れるのが嫌で、友達を積極的につくろうとしなかった。でも、先日大久保は勇気を出して親にもう転校はしないと自分の意思をいった。お父さんとお母さんが引っ越してもオレは一人でこの町に残るとまでいわれたら、両親もこの町に残らざるをえない。
大久保はもう友達をつくらない理由はなかった。それなのに自分からは新しい友達をなかなかつくれないでいた。手をつかって行う野球のことをハンドベースボールといって全国の小学生はハンベーと略している。子供はみんなハンベーを経験して小学校を卒業していくと言っても過言ではない。
ハンベーに誘われたのに大久保は断ろうとした。優介と同じで新しい人間関係が不安だった。でも優介は前に進んだ。大久保の背中を押しながら。大久保は一歩前に押されると、二歩目からは自分の足で歩けるようになった。最初の一歩さえ乗り越えられたらあとは楽なのだ。
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