第22話
この町に来てからも優介の家はあいかわらず暗くてさみしいものだったけど、優介は友達ができた。その友達たちが優介の心を明るく照らしてくれた。そのおかげで、今の優介は家族写真を見てもつらい気持ちにならずにすんだ。
過去があるから今があり、今が続いていくことで未来がある。だから現在と過去は切り離せないものだ。だからと言って過去にとらわれすぎれば今がおろそかになり、未来も失いかねない。
優介は過去は過去のものとして付き合うことができるようになっていた。家族三人が仲良しだったときもある。今はそうではないけど。でも今は不変なものではないので、ふとしたきっかけで変化することもある。過去のように仲良し家族に戻る未来もあれば、今でもない、過去のものでもない別の形の家族を見つけた未来があるかもしれない。
優介は家族写真や、福岡の友達と一緒に写った写真をかけがえのない思い出として受け入れることができた。もう写真を見て悲しくなることも転校を悔やむこともないだろう。優介は今を生きていこうと決めた。
優介は写真を時系列に並べなおそうとしたが、母が帰宅したのでまた今度することにした。まだ午後七時だ。母はいつもより早く帰ってきた。優介は緊張して汗をかいていた。母の顔を見るのがこわい。顔を合わせると家出したことを責められはしないか。謝っても許してもらえないんじゃないか。そんな不安が優介にはあった。
優介は椅子に座っていた。まだ部屋を出られそうにない。机に腕を置いてそのなかに顔を伏せている。
優介はしばらく顔を伏せていたら息苦しくなって、今度は伸ばした左腕を枕にした。すると、伸ばした左腕の指先に何かが触れた。優介はそれをそっとつまむと身体を起こして確認した。
それはナギの葉だった。いつかコジロウに校門でもらったものだ。大久保に謝るときもこの葉が優介に勇気を与えたのだった。優介はこの葉を見ているとナギが「今行かなかったらいつ行くんだ」といっているような気がした。いわれなくてもわかってる。今行くしかないと優介は自分を奮い立たせて部屋を出た。ポケットにナギの葉を入れて。
母はリビングで食事をしていた。スーパーで買った弁当だろうか。ふたには半額のシールが貼られている。よほどおなかが空いていたのかテレビも点けずに夢中でご飯をかきこんでいる。優介のほうを一瞬ちらりと見たが、すぐに視線はテーブルの上の食事に戻された。
優介は母の後ろに立って一言、小さな声でつぶやいた。
「家出してごめんなさい」
優介はヤクルトとの約束を果たすと母の反応を待たずに部屋に戻った。母は優介を見つめて何かをいいたそうにしていたが、優介は母の話を聞きたくなかった。友達との約束を守れたらそれでいい。許してもらえなくてもかまわない。「ごめんなさい」といった事実が重要だ。
母は食事を中断して優介の部屋の前まで来た。ドアノブを回そうとしたが、途中で手を引っ込めてリビングに戻った。そして食事を再開した。さきほどまで無表情で食べていたのに、優介の声を聞いてからは笑っているのか泣いているのかわからない顔をしていた。
翌日の放課後、優介はナギに会いに行った。母に謝ることができたと報告したかった。
「僕謝れたよ。ありがとう」
「わしは何もしておらんよ」
ナギは優介の報告を受けてうれしそうだった。自分は何もしていないといいつつも、心のどこかでは優介の役に立てたと満足しているのだ。
「よかったじゃないか。お前は友達との約束を果たしたんだ。立派だよ」
コジロウも神社に来ていた。コジロウも優介が勇気を出して謝ったことを聞くと自分のことのようによろこんだ。コジロウは鳥としてのルールを守らなかった。でも、優介は人間としてのルールを守った。悪いことをしたら謝るというルールを。コジロウはそれがうれしかった。自分にできなかったことを友達である優介がしてくれた。
コジロウは、自分の失敗は意味のあるものになったんだと思えた。自分の失敗を優介に話したことで、優介に進むべき道を示せた。コジロウの話には「ルールを破ればオレのようになるかもしれないが、どうする?」という思いが込められていた。それを優介が読み取ることができたのかわからない。でも、コジロウが望んでいた選択肢を優介は選んだ。それで十分だ。
「がんばったご褒美だ。じじいの足元を見てみな」
コジロウはそういってナギのほうをくちばしで指し示した。
「みかん?なつかしいな」
ナギの足元にはみかんが一個置かれていた。優介が家出中に毎日食べていたものだ。なつかしいというにはまだ時間はたっていないけど、優介にとってはなつかしく感じていた。家出していたのが遠い昔のように感じられるのだ。
「なつかしいか?まあ、とにかく食べてくれ」
優介はみかんを拾うと立ったまま皮をむいて食べ始めた。家出していたときに食べたみかんと同じ味だった。一口かんだだけで口のなかにあまずっぱい果汁が広がっていく。この味が家出の味なのかなと優介は思った。ほかにもさくらんぼやタンポポの葉、カシューナッツも家出の味だ。これからの人生で、その食べ物を食べるたびに家出のことを思い出すのだろうか。
思い出すということはいったん忘れてしまうということだ。優介の場合には「思い出す」という言葉は当てはまらないだろう。優介はいろんな出会いがあった今回の家出を片時も忘れることはないだろう。思い出すのではなく、「なつかしくなる」のほうが適当かもしれない。優介は大人になってみかんを食べると、小学六年生のときにした家出がなつかしくなるに違いない。
「それじゃあまた来るよ。今度は友達も一緒にね」
優介は二人の友達にまた来ると約束して家に帰った。ナギに名前をつけた少女のように。ナギは、優介は約束を守る少年だと知っている。現にヤクルトとの約束を果たしている。だからナギは優介の言葉を信じてまた会いに来てくれるのを楽しみに待っていた。
優介はパジャマに着替えて寝る準備をしていた。母の帰りは遅かった。母が家にいない間はリビングをひとり占めできた。少し夜ふかししても誰からも怒られない。優介は入浴後のテレビを見る時間が好きだった。自分しか見る人はいないので自分の好きな番組を見ることができる。
母が帰ってくる前に優介は自分の部屋に戻った。そしてまだやっていなかった宿題に取り組んだ。学校を休んだのは数日なので授業はそんなに進んでいなかった。だから宿題の内容もそれほど難しいものではない。優介は十五分程度で終わらせた。
宿題が終わってベッドに入った。優介は眠るために目をつむって何も考えず、自分の呼吸にだけ意識を向けた。あるとき優介はなかなか眠ることができなかった。どうにかして寝ることはできないかと試行錯誤した結果、呼吸に集中してみるといつの間にか眠ることができたのだ。
あと少しで優介は夢のなかに入りそうだった。しかし母の帰宅の音で目を覚ましてしまった。リビングで母が立てる音にじゃまされないように布団をかぶって、再び目を閉じた。自分の呼吸にだけ意識を向けているうちにまたうとうとしてきた。だんだんと意識がうすれてくる。
母はリビングに優介がいないとわかるとノックを軽くして優介の部屋に入ってきた。小さな音だったが小さな部屋に響いて優介はまた目を覚ました。音を立てた人の文句を言ってやりたい気持ちだったが、母が部屋に入ってきたので寝たふりをしてやりすごそうとしていた。
「寝ちゃったのね」
母は小声でつぶやいた。優介は眠っていると思っているようだ。それでも優介の枕元まで来てひざまずいた。そして寝ている優介に優しく語りかけた。普段はなかなか言えないことでも、状況によっては話しやすくなる。たとえば相手が寝ているときとか。優介の母は優介にいいたいことがあったのだろう。優介が母に謝ったとき、母は何かをいいたそうにしていた。
そのいいたいことというのは必ずしも優介本人に聞いてもらいたいわけではなかった。ただ言葉にしたかっただけだ。だから寝ている優介に話を始めたのだ。本当は優介は起きていてしっかりと話を聞いているのだけど。
「お母さんのほうこそごめんなさい」
優介は耳を疑った。母が謝罪の言葉を口にしたのだ。家出をした優介が悪いのに母は何を謝っているのか。優介は不思議に思った。もともと優介の母は優介に言葉にして謝るような性格ではなかった。自分の子供に自分の非を認めて謝罪するような人ではなかったのだ。
子供になめられるのではないか。親のいうことを聞かなくなるのではないか。そんな不安が母にあった。しかしその不安は杞憂だ。優介は親に謝られたくらいで親を軽く見たりなめたりするような子供ではなかった。むしろ尊敬しただろう。自分の親は年齢に関係なく他者を対等に扱う人だと。
悪いことをすれば子供にも謝る。これは子供を、人格を持った一人の人間として接する人なら簡単にできることだ。でも、子供を未熟で対等に接するに値しないと思っている人にはなかなかできない。
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