第21話

 「勝ち負けはどうでもいいじゃないか。そんなことにこだわっても幸せにはなれないぞ」

 ナギは話を聞くだけだといったが優介を諭すようにいった。

 「でも悔しいんだよ。悔しくてしかたがないよ」

 「転校してしまったことはしかたがない。タンポポのように種が落ちたところで花を咲かせるしかない。悔しいのは謝ったときだけだ。いつか悔しさを忘れて満たされた気持ちになるはずだ。それにな、お前の母親は悪いところばかりじゃないだろう。きっといいところもあるはずだ。母親の全部を見ろ。そして、お前の思っていることを話してやれ」

 優介は自分の足元を見つめて黙ってしまった。ナギのいうことも間違っていないと思って何もいえなくなったのだ。

 黙ったままの優介にナギは穏やかな口調で話を続けた。

 「昔話をしてやろう。お前にも話したが、わしに名前をつけてくれた少女のことだ。あの子もお前と同じように家出してきてこの神社に迷いこんだんだ」

 優介はナギの話に興味がわいて顔をあげた。

 「その子は両親が離婚してな、母親と二人で暮らしていたそうだ。母親はいつも仕事ばかりで全然少女の話を聞かないし遊びに連れて行くこともなかったそうだ。そんなときにこの神社を見つけたんだ。初めてここに来たとき、わしの声が聞こえたんだ。それからは毎日のようにここにやってきて話し相手になってあげたよ。ある日、リュックに荷物をたくさん詰めて来たから何事かと聞くと家出してきたと言うんだ。どうしていいかわからなかった。とにかく死なせないように食べ物を動物に集めさせた。お前のときと同じように。あの子は四日間ここで過ごしたよ。わしが何も言わなくても、家に帰ってみると言ったんだ。そのときにわしは名前をもらった。また来るからねといって家に帰って行った」

 ナギは少女の話を始めると、少し悲しそうな声になった。ナギにとって少女との記憶は悲しいものなのだ。また来るといわれて待っていても、とうとう神社には来なかった。ナギはもしかしたら今もその少女が来てくれるのを心のどこかで期待しているのかもしれない。少女はもう大人になっているはずだ。今もどこかで暮らしている。可能性は低いけど大人になった少女が、子供を連れてこの神社を再び訪れる日が来るかもしれない。

 「ここに来なくなったってことは、きっと母親と和解して、楽しく暮らせるようになったんだろう。わしはそう思う。お前も母親と仲直りできるさ。あの子も勇気を出して母親と話をしたんだろう。だからやるだけやってみるんだ。つらくなったらまたここに来ればいい」

 ナギは優介の背中を優しく押した。前に進めるように。母と仲直りできるように。

 「ありがとう。やるだけやってみるよ」

 優介はナギの言葉に勇気づけられた。母に謝るため家に帰ろうと優介は思った。石階段を下りているとコジロウが優介の肩にとまった。

 「おい、もう帰るのか?」

 「そうだよ。ヤクルトと約束したことがあるからね」

 「じゃあ、家に帰る前に寄り道しようぜ」

 「いいけど、あてはあるの?」

 「あるさ。とりあえずオレのいう通りに歩いてくれ」

 優介は楽しかった。放課後に友達と寄り道をしている気分だった。肩にカラスがとまっているので、周りの人は驚いたような顔をして優介を見ている。優介は周りにどう思われようが気にせず、コジロウに指示された通りに歩いた。

 「ここに来たかったの?」

 二人は駅前の大通りにいた。歩道にはたくさん街路樹が植えられている。そのなかの一本を二人は見上げている。

 「ここがオレの生まれた場所さ」

 「ここが?」

 コジロウは自分のルーツを優介に教えたかったようだ。その街路樹は緑豊かだ。

 「今はなくなってるが、ここに巣があったんだ。ここでオレは生まれて、飛べるようになったら巣を飛び出した」

 「なんで巣を飛び出したの?」

 「大空を自由に飛びたかったのさ」

 コジロウは巣を飛び出したといったが、家出と同義だ。コジロウは親や兄妹を捨て、大空を選んだ。

 「それが理由だよ」

 「なんの理由なの?」

 優介はコジロウが何をいいたいのかわからなかった。コジロウは意図して直接的にいうのを避けているように感じる。

 「オレがほかの鳥からのけ者にされている理由だよ。親や兄妹を大切にしない鳥は鳥として失格だって言われてな」

 鳥の世界にもルールはある。法律という形ではないけど、鳥として最低限守らないといけないことがあって、コジロウはそれに違反したのだ。親と兄妹を大切にする。人間の世界でも守らなければならないことを鳥たちも守っていた。

 幼かったコジロウは鳥の世界のルールを親から教わらなかった。何もわからずに大空へ飛び立った。何も知らなかったコジロウに罪はないけどほかの鳥たちは許さなかった。たった一度の過ちなのに。

 「だからな、お前も気をつけるんだぞ。この先、いろんなルールを強制されることがあるだろう。悪いルールがあったとしてもルールには違いない。ルールから逸脱するな。ルールに従いたくないならちゃんと手続きを踏んでルールを変えてしまえ」

 コジロウは自分の失敗を教えて、優介が同じ轍を踏まないように助言することが寄り道の目的だった。コジロウは話が終わると「お前も頑張れよ。またな」といって自由な大空に飛び立った。

 日が完全に沈む前に優介は家に帰った。食事は今日も総菜とご飯だ。昨日は数日ぶりのまともな食事だったのでスーパーの総菜でも格別おいしかった。しかし二日連続となると味に慣れてしまっておいしさはそれほど感じない。おいしいのは確かだが、好んで毎日食べたいものではなかった。

 優介は祖母の家にも行かなければと思っていた。泊めてくれたことと、おにぎりやジュースを持たせてくれたことをもう一度感謝したかった。おにぎりおいしかったよといいたかった。祖母はもうすでに優介が家出していたことを知っているかもしれない。泊りに来たと言ったのは嘘で、本当は家出していたと謝りたいと思っていた。

 祖母への謝罪は誰かと約束していたからではない。優介は心から祖母には謝りたいと思っていた。動機に自己愛は混じっていない。謝りたいから謝りたかった。

 優介はこの日母に謝ろうと考えていた。ナギにもらった勇気が薄れないうちに謝っておかないと、この先謝れる気がしなかった。食事を済ませた優介は汚れた食器を洗うと自分の部屋に行った。

 部屋に入ると、優介は久しぶりに机の奥にしまったアルバムを取り出した。この家に引っ越してからまだ一度も開いていない。母の帰りを待っている間に宿題をする気分にはなれなかった。そこでアルバムを取り出したのだ。今の自分なら過去を振り返っても大丈夫な気がしたのだ。

 優介は時間をかけて写真を一枚一枚見ている。このときの写真はいつ撮ったのか、このときはどんな気持ちだったのか、ゆっくりと頭のなかで再現した。

 アルバムの最後のページにある一枚の写真に目がとまった。家族写真だ。優介はレンタルした子供用のスーツを着ている。両親もスーツ姿だ。この写真の母は今よりも化粧が濃かった。桜を背景に三人は並んでいた。優介が小学校に入学したときに撮られたものだ。

 アルバムは時系列に写真が収められていたので最初のほうにこの写真があるべきなのに、最後のページに移動していた。優介の父が家を出て行ったときに優介が入れ替えたのだ。家族で写っている写真はできるだけ後ろのほうへと。

 優介は両親のことが好きだった。夫婦仲もよくて食事のときも楽しい会話があった。よく父は冗談を言って二人を笑わせていた。しかしある日、優介の両親は喧嘩を頻繁にするようになって、しまいに父は家を出て行ってしまった。

 優介は両親の喧嘩を見るのがつらかった。だから父がいなくなったときは、もちろんさみしさもあったが、安心もした。もう喧嘩をみなくてもすむんだと。

 確かに喧嘩はなくなったが、優介の家はさみしくなった。地球が突然自転と公転をやめて日本がずっと夜になってしまったかのように、優介の家は暗くなった。たった一人の家族が欠けただけでこんなに変わるものだろうか。

 優介は家族写真を見るのがつらくなった。両親の顔を見ると夫婦喧嘩が多かったあの頃を思い出す。

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