第20話

 優介が話さなくてはいけないのはナギのことだけではない。むしろナギのことを話す必要はなかった。優介にはもっと大切なことを大久保に話す必要があった。教室では軽く謝っただけで仲直りすることができた。でもそれだけでは不十分だ。優介は昨日大久保にいったことを否定しなくてはならない。大久保は弱くない。弱いのは自分だと。

 「昨日、神社でいったことは嘘だから。弱いのは大久保じゃなくて僕なんだ。認めたくないからあんな風にいっちゃったんだ。ごめん」

 大久保は優介があらたまって話を始めたので身構えていた。でも聞いてみると何だそんなことかと、大久保はふっとため息をついた。

「もう気にしてないよ。朝、謝ってくれたじゃんか」

「そうだけど、何がごめんなのかいってなかったから」

 「もういいんだよ。それに、オレはお前のいう通り弱い人間だったよ。転校したくないのに親にはずっといえなかった。言えば何かが変わるかもしれないのに、それができなかった。それがオレの弱い所だよな」

 「そんなことない。君は強いじゃないか。転校してもすぐに新しい学校に馴染んでるじゃん。最初に見たときは去年転校してきたなんて思わなかったくらいだよ」

 「馴染んだように見えるだけ」

 大久保は一呼吸おいて続けた。

 「オレは強くなりたい。だから、親にもう転校はしないっていったよ。転校するくらいなら一人でこの町に住むって」

 大久保は満足げな顔を浮かべていた。急にもう転校しないと息子にいわれた大久保の両親は戸惑っただろう。これまで一度も転校を嫌がったことのない息子が、父親の転勤が決まる前にそういったのだ。大久保は先手を打ったので、転勤が決まったときに大久保の両親は転校をしろとはいいにくくなった。大久保の両親は、先のことはわからないじゃないか、お父さんが働いてくれているから学校にも行けるのよ、転校くらい我慢しなさいと息子をたしなめていた。しかし、大久保の満足そうな顔からは、大久保が両親のいうことを素直に聞いたと読み取ることはできない。実際は、両親が折れてこの先転校させないと約束させたのだ。

 「大久保は強いよ。僕なんか全然敵わないや」

 「オレも有野には敵わないよ。この町の神様と知り合いなんだろ?すごいじゃないか」

 優介は褒められてうれしかった。家出して、たまたまあの神社を根城にしていたから神に出会えた。偶然だ。偶然な出来事で、優介は神に会う努力をした自覚がなかったので、ほめられるようなことではないと思っていたが、やはりほめられるとうれしくなる。

 優介は神に会うために何の努力もしなかったのだろうか。優介は自然の声が聞こえる。その理由は、ナギが言うには自然に向き合い声を聞こうとしているからだ。優介は無意識かもしれないが、自然に向き合うという努力をしていた。だから神を目視することも話をすることもできた。努力もせず、たなからぼたもち的に神と出会ったわけではなかった。

 「大久保にいったことは、全部自分にいったことなんだ。春休み、突然転校するってお母さんにいわれた。だけど僕は何もいえなかった。転校したくなかったのに。あのとき勇気を出して自分の意思を伝えていれば、何かが変わっていたかもしれないのに」

 「今でも転校しなけりゃよかったって思ってる?」

 優介の答えに迷いはなかった。

 「転校してよかったよ」

 この町に来て優介は大久保に出会った。人間だけでなく、ナギやコジロウたち自然との出会いもあった。自然の住人は、人間である優介を友達と思っている。また、優介のことを思い、優介の母親に対して怒りを表すこともあった。優介は彼らとの出会いがかけがえのないものになっていた。結果論ではあるが、優介は、転校は悪いことばかりではないと思っていた。

 もっとも、春休みに自分の意思を母に伝えられなかった弱さが今もあることを認めており、大人になるまでに克服すべき課題としていた。

 「今度コジロウたちを紹介してよ」

 「もちろん。みんなも喜ぶよ」

 二人は小川のベンチで日が傾き始めるまで過ごした。西日が小川に反射して、水面があかね色に輝いている。優介は、コジロウたちを紹介すると約束した。大久保は彼らの声を聞くことはできない。でも、優介がいれば言葉が通じない両者は対話することができる。優介は自然と人間の間に立って橋渡しする可能性を秘めている。

 友達がコジロウと話すのを通訳するレベルにとどまるのか、自然の声を代弁して人類に環境問題への取り組みを呼びかけるのか、それは優介次第である。

 優介は大久保と別れるとまっすぐに家に帰った。夕食は冷蔵庫にあったスーパーの総菜をおかずにしてご飯を食べた。大久保に謝って仲直りすることはできた。しかし、まだやり残していることがある。神社を去るとき、ヤクルトに母に謝るよう言われていた。優介はヤクルトと約束したがまだ果たせていない。

 家出をやめて家に帰ってきたときに謝るチャンスはあった。一言「ごめんなさい」といえばすむことなのに、優介は母の顔を見ると心がざわざわした。どうして謝らないといけないのかという気持ちになっていた。

 優介は家出したことは悪いと思っていた。でも、母に謝らないといけないと思ったのは、自分の非を許してもらうためではない。ヤクルトとの約束を守るためだ。一度約束したことは守らなければならない。それが友達との約束ならなおさらだ。

 優介は湯船に浸かっていつ謝ろうかと考えていた。謝るタイミングはいくらでもあったが、それを実行する勇気が出なかった。家に戻ってから母とは一度も会話していない。母は優介を怒るどころか話しかけようともしない。怒られたときが一番謝りやすい。逆に、怒られてもいないときに許しをこうために謝るというのは難しい。

 自分から何かを謝るというのは、就職の面接で自分の志望動機を語るのと同じくらい勇気がいる。本当にやりたい仕事なら嘘偽りなく志望動機を伝えられる。やりたい仕事ではなくて、生きるためにしかたなく働くというときは面接官の反応がいい志望動機を考える。

 前者が熱意に由来する真実、後者が生活のための嘘だ。真実と嘘は別物だけど、志望動機を語るのに勇気がいるという点では共通している。熱意を恥ずかしがらずに伝える勇気。嘘を堂々と話す勇気。

 怒られる前に先手を打って自分から謝ることで怒られる度合いを小さくするためか、罪悪感に駆られたためか、動機はどうあれ謝ることにも勇気がいる。カントの哲学に当てはめるなら、謝るべきだから謝るのが道徳的だ。カントは動機に自己愛が少しでも混じれば道徳的でないと言う。

 しかし、優介は道徳的かどうかは問題としていなかった。ヤクルトとの約束が大切だった。優介は、約束は守るべきだから守るのではなく、ヤクルトとの友情を存続させるために守ろうとしていた。

 次の日曜日、優介は大久保の誘いを断って神社に赴いた。優介は家に戻ってから神社には一度も行っていなかった。コジロウには通学中に何度か会うことができたが、足がないナギにはあれから会えずにいた。

 優介は母とのことをナギに相談しようと考えていた。謝ろうと思ってもなかなか謝れない。知識が豊富なナギならいい考えが浮かぶのではないか。

 「また家出したのか?」

 ナギは開口一番に優介をからかった。

 「違うよ。今日は遊びに来たんだ。コジロウは来てないの?」

 優介が家出しているとき、コジロウはいつもこの神社にいた。しかし今日はコジロウの姿はなかった。

 「今日はまだ来ておらんよ。風のうわさを聞いてそのうち来るだろう」

 「ナギに相談があるんだけど聞いてくれる?」

 「聞くだけならな」

 ナギが話を聞いてくれるとわかって、優介はうれしかった。アドバイスをもらわなくても話を聞いてくれるだけで少しだけ気持ちは軽くなる。荷物を一人で抱えると重いけど、誰かと一緒に力を合わせれば少しだけ負担は小さくなる。

 優介は賽銭箱に寄りかかって座った。そして話を始めた。

 「家には戻ったけどまだお母さんに謝れてないんだ。ヤクルトと約束しちゃったから謝りたいんだけど、お母さんに謝るのは負けた気がして嫌なんだ」

 優介は母にも非があると考えている。だから先に自分が謝ると敗北したように感じて謝れずにいるとナギに話した。結局勇気がないのだ。敗北感を受け入れる勇気さえあれば、今頃ヤクルトとの約束を果たせていただろうに。

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