第19話

 「ありがとう」

 優介はみんなに礼を言った。自分のために怒ってくれたことがうれしかったのだ。

 「さっきは悪かったな。お前のお母さんを傷つけそうになった」

 コジロウの声はいつも元気がいい。でもこのときは落ち込んでいて小さな声しか出なかった。

 「いいんだよ。僕のために怒ってくれたから。うれしかったよ」

 優介は自分は一人ではないと思った。自分のために怒ってくれる人がいる。神様まで見方をしてくれた。この町に来てから優介はいろんな出会いがあった。ナギやコジロウとかかわっていくうちに彼らに愛着を抱くようになった。何か嫌なことがあっても神社に来ればナギが助けてくれる。コジロウが励ましてくれる。本来、愛着は親に対して持つものだ。愛着の対象である親を自分の安全基地にして、外の世界に飛び込んでいく。

 そして嫌なことやつらいことがあったときには安全基地に戻って自分の身を守る。その愛着の対象であり安全基地となるのは親ばかりではない。祖父母や友達、学校の先生がその役割を果たすこともある。優介の場合は自然なのだ。

 「ところで、スズキさんとヤクルトはどうして来てくれたの?」

 優介は二人に尋ねた。スズキはなぜ神社に駆けつけてコジロウを止めに入ったのか。ヤクルトはどうしてにらみ合うスズキとコジロウを仲裁したのか。

 「風に教えてもらったたんだよ。神社で大変なことが起きてるって」

 スズキは穏やかに言った。

 「私もよ。多分、ナギさんが風に頼んだんでしょう」

 ヤクルトはそう言ってナギの幹を軽くつついた。

 「いや、わしは何も知らんよ。人間の問題にはかかわるつもりはない」

 ナギは口ではそう言っても、心では人間の力になりたかった。かつて少女に約束を破られて人間とはかかわらないでおこうと決心した。しかし優介と過ごすうちにもう一度人間に気を許してもいいかもしれないと思うようになった。

 ナギは、迷子になったツバメの子を探す姿に優しさを見出した。それだけではない。カラスを嫌う人間が多いのに、優介はコジロウを邪険にせず友達になった。偏見を持たずにコジロウと接した誠実さもナギは気に入っていた。

 「僕、そろそろ帰るよ」

 「やっと帰る気になったか。もう来るんじゃないぞ」

 ナギは寂しそうな声で言った。コジロウたちも名残惜しそうに優介に別れのあいさつをした。しかし、一生の別れではないことは全員わかっていた。優介がこの町に住んでいる限り、通学途中に会うかもしれない。いや、偶然の出会いを待たなくても、優介はこの神社に必ずやってくるだろう。そのときは大久保と一緒に。

 「じじいはまた来いって言ってるぜ。オレもじじいと同じ気持ちだ。また会おう」

 コジロウはそう言うと右翼を上げてふった。

 「あなたのお母さん、本心ではあなたのことをとても大切に思っているはずよ。私も母親だからわかるわ。帰ったら一言でいいから謝りなさいね」

 ヤクルトの子供は迷子になっていた。だから家出した優介の母親に共感するところがあるのだろう。優介に手をあげてしまったことには納得していない。でも、同じ母親として、息子がいなくなってしまった不安や悲しみがヤクルトは理解していた。

 「うん。また来るよ。今はお母さんに謝れそうにない。でも、いつか必ず謝るよ」

 優介の言葉を聞いてナギたちは安心した。二つの理由で。一つはまた会いに来てくれること。もう一つは母親に謝ると約束したこと。

 「私は来年旅に出る。だからそれまでにいろいろと話を聞かせてくれよ」

 「もちろんだよ。沖縄まで遠いけど頑張ってね」

 スズキはあいさつが終わると優介を見送らないで自分の家に帰ってしまった。また会えると信じていたからあえて見送らなかった。わざわざ見送ると今生の別れみたいになってしまうと思ったのだ。スズキが一足先に帰ったので、コジロウとヤクルトも一言あいさつして大空に飛び立った。

 見送ると卒業式や転校のあいさつみたいでさみしくなる。もう会えなくなるような気持ちになる。でも、軽いあいさつで別れると、また明日は学校の教室で会えるような気がする。コジロウたちもスズキと同じ気持ちだった。見送るのは優介が大人になり、この町を離れるときでいい。

 「それじゃあまたね」

 優介は元気よくナギにあいさつをした。ナギは返事をしなかった。優介が石階段を下りているときに強い風が吹いてきた。優介は、これがナギのあいさつなんだなと思った。

 優介はひさしぶりに帰宅した。家のなかは何も変わっていない。母は起きていたが優介の顔を見ると気まずそうにして布団のなかにもぐりこんでしまった。

 優介は入浴を楽しんだ。たった数日入浴しなかったくらいでこんなに身体が汚れるのかと驚くほど、身体から垢がとれた。冷蔵庫にはちゃんと牛乳があった。まだ開けていない。母は牛乳を飲まないのにどうして新しい牛乳があるのか。きっと、いつ優介が帰ってきてもいいように買っておいたのだ。

 ひさしぶりに飲む牛乳は格別だった。神社で生活している間はまともなものを口にしていなかった。飲むものは水で、食べ物はみかん、さくらんぼ、タンポポの葉だ。この生活がもっと長く続いていたら優介は骨と皮だけになっていたかもしれない。

 冷蔵庫にスーパーで購入された総菜があったが、優介は牛乳だけで満足していたので手をつけなかった。

 昨日まではナギの葉に包まれて寝ていた。今夜はふかふかのベッドだ。あたたかさも快適さもベッドのほうが優れている。比べるまでもない。しかし、優介はナギの葉の布団が恋しくなった。今度は家出じゃなくて、神社でキャンプするのも悪くないなと優介は考えた。

 大久保と一緒に、ナギやコジロウ、神様と一緒に火を囲んでみかんを食べる。優介は、その情景を思い浮かべているといつの間にか深い眠りに落ちていた。

 翌朝、優介は軽く食事をすませて家を出た。いつもと同じ通学路を通って学校に向かう。駅前の大通りもいつもと変わらず通勤や通学する人でいっぱいだ。見慣れた風景だ。でも、ほんの数日家出しただけで、優介は初めて見る景色だと思えた。

 学校へと続く長い坂を上るのも懐かしさを感じていた。優介が桜ケ丘小学校に初めて登校した四月のある日、坂の上から見下ろす町は美しかった。風に吹かれて散っていく桜の花びらが町をさらに美しくした。

 今はもう桜は完全に散ってしまった。それでも、今の優介の目に映るこの町は、桜が散っていたころに負けないくらい美しく、大切なものになっていた。ナギやコジロウとの出会いがきっかけで、優介のこの町に対して抱く思いは変わっていた。

 転校したばかりの頃、優介の心はまだ福岡に取り残されていた。でも、今は違う。福岡に置いてけぼりにされていた心は、この町に、優介の空っぽだった胸のなかに戻ってきた。心が優介の身体に追いついた。

 校門のそばにある花壇でコジロウが優介を待っていた。

 「今日は家出しないのか?」

 「家出はもうしない。でも、キャンプに行こうかと思ってるよ」

 優介はしゃがみこんでコジロウと話した。

 「キャンプ?なんだそれ」

 コジロウはキャンプという言葉を初めて聞いたようだ。意味がわからず首をかしげている。

 「それより、じじいから頼まれたものがあったんだ」

 コジロウはそう言うと、くちばしで自分の足元を指し示した。

 「それは」

 優介が見慣れていたもので、昨夜恋しくなったものだった。若々しい緑色をしていて、葉脈は縦に流れている。ナギの葉だ。

 「友達と仲直りできるお守りって言ってたぞ。効果があるかは知らんが、持って行ってくれ」

 コジロウは葉を優介に渡すと飛び去った。優介がカラスと話すところをほかの児童や教師に見られないようにと配慮したのだ。

 優介は「お守り」と言われて、ナギの話を思い出した。ナギの葉は縦に引っ張ってもちぎれない。だから縁結びとか夫婦円満を願って、人間はナギの葉をお守りとして大事にしていた時代がある。ナギはそれになぞらえて、引っ張ってもちぎれない友情を願い、自分の葉を優介に託した。

 大久保との友情だけではない。ナギやコジロウ、ヤクルト、スズキ、幼稚園児みたいな神との友情も願われていた。一度は人間とのつながりを拒絶したナギを変えたのは優介との出会いだ。

 言うことは以前と変わらない。優介が家に帰ると決めたときでさえ「もう来るな」と言っていた。しかし、ナギの気持ちは変わった。もともと頑固な性格なので素直に言葉で言い表せないだけなのだ。

 優介はナギの葉をズボンのポケットにしまって校舎のなかに入って行った。

 教室は相変わらず騒がしかった。優介は朝のこの時間の教室にいると頭が痛くなることがよくあった。しかし今日はこの騒がしい教室に入ると安心するとともになつかしさに浸っていた。

 大久保は自分の席に座って本を読んでいる。優介が教室に入ったことに気がついていないようだ。優介は右手をポケットにつっこんでナギの葉を握りしめた。葉に触れるとナギたちが「頑張れ」と言っているような気がして、優介は大久保に声をかける勇気が沸き起こってきた。

 大久保の正面に立つと、優介は一言だけ言った。

 「昨日はごめんね」

 放課後、二人は小川にあるベンチに座っていた。優介が初めて自然の声を聞いた場所だ。優介は大久保に自分が体験した夢みたいな数日間のことを話した。大久保とキャッチボールをした日は家出中で、その日の夜も家に帰らず神社で眠ったこと。朝起きると葉の布団に包まれていたこと。木や鳥が話すこと。迷子になったツバメの子をカラスと一緒に探したこと。あの神社に住む神に会ったこと。優介が話すことは全部作り話のようで現実味に欠ける。

 それでも大久保は優介の話を信じた。大久保と出会ってから、優介は大久保に嘘をついたことは一度もなかった。だから優介を疑うどころか、どうして自分は自然の声が聞こえないのかと悔しそうだった。

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