第17話

 「のどがかわくよ。どうせならジュースも持ってきてよ」

 優介の口からこぼれるのは感謝の言葉ではなく文句や要望だった。しかし、口ではそう言ってもコジロウと大久保には感謝していた。コジロウは家出してから毎日食事をどこからか持ってきてくれる。コジロウがいなかったら優介は今頃飢え死にしているかもしれない。もっとも、人間の優介はコジロウが用意する食事だけでは十分なカロリーや栄養を摂取することはできない。それでも何も食べないよりはましだ。

 大久保は自分で食べるためではなくて、この神社に供えるためにクラスメイトから余ったカシューナッツをじゃんけんで勝ち取った。自分の願いのために供えるつもりだったなら、きっと優介に差し出すことはしなかったはずだ。となると大久保は優介に関係したお願いをしにやって来たと推測できる。

 大久保の話によると優介は学校を病欠していることになっている。だから、大久保は優介の体調が早くよくなるようにと神社にお参りに来たのかもしれない。たった一日休んだだけでここまでするのは心配性のきらいがある。それは、大久保にとって優介は、転校を繰り返す小学生時代にできた唯一と言っていい友達だったからだろう。

 そう考えると大久保の行動にも納得ができる。やっとできた友達が体調を崩して学校を休んでしまった。親の転勤という自分ではどうしようものない事柄のために転校を繰り返し、大久保はほかの小学生に比べて別れを経験しすぎた。別れに敏感になっていた。だから、大久保はささいなことでも、たとえただの発熱でも、これが優介との今生の別れになるのではないかと不安になった。

 大久保は自分にできることは神頼みしかないと思った。しかし何も手土産を持たずに行くのは失礼なことだ。何かちょうどいいものはないだろうか。そこで、大久保は給食でたまたま余ったカシューナッツを供えることを思いついた。神に給食の残り物を供えるのは不敬かもしれないが、小学生の大久保が友達のためを思ってしたことだ。ナギいわく子供みたいな神も許してくれるだろう。

 コジロウとナギは静かにしていた。涙を流しながらものを食べる優介を親のような温かい目で見守っていた。神社に生い茂る木々の葉の間からほのかに日の光が差し込む。光が優介の涙をきらきらと宝石のように照らしていた。

 優介はカシューナッツが入っていた透明な袋を手提げカバンにしまった。この神社をごみで汚したくなかったから、いつかどこかのごみ箱に捨てるつもりなのだ。みかんの皮は、初めてここでみかんを食べたときと同じように、境内のすみに穴を掘って埋めた。生ごみを神聖な神社の敷地内に埋めることに抵抗があったが、ナギの指示だったので優介はその辺に落ちていた木の枝や石を使って穴を掘った。優介は学校で習った貝塚みたいだなと思っていた。

 友達のやさしさに触れた優介は大久保の謝りたくなった。母が嘘をついていることは大久保には何の責任もない。大久保を責めるのは間違いだ。怒りは向けるべき相手に向けるものだ。決して無関係の人に怒りをぶつけてはならない。

 優介は大久保の家まで謝りに行こうと立ち上がった。しかし、石階段を降り始める寸前で踵を返してもとの場所に戻った。腰を下ろして賽銭箱に寄りかかって優介はため息をついた。

 友達に謝ろうと思っても足が前に動かない自分は臆病者だと思った。優介は自分を叱咤激励して再び立ち上がろうとした。しかし今度は立ち上がることもできない。何度も試みるが優介の身体は言うことを聞いてくれない。優介の思いに反している。

 「行くなら早いほうがいいぜ」

 コジロウは動けなくなった優介を見かねて声をかけた。

 「わかってるよ。休憩してるだけだから」

 優介はコジロウに助言されたことが癇に障った。自分でもわかっているのにそれをほかの人に言われることが気に入らなかった。ちょうど今から宿題を始めようとしていたのに、親から宿題をするように言われるのと同じだ。

 優介の身体は急に軽くなったように簡単に立ち上がることができた。コジロウが促してくれたおかげだ。優介はコジロウの言葉にイライラしたが、そのおかげで立ち上がる力を得られた。そんなこと言われなくてもわかっている、すぐに謝りに行くさと優介は思った。

 腰を上げてしっかりとした足取りで前に進み始めた優介を見てコジロウは安心した。コジロウは、あえて優介をイラつかせることを言ったのだ。イライラすればそれを行動で発散せずにはいられない。まだ小学生の優介に怒りに基づく衝動を抑える自制心は育っていない。優介を少し重資して怒りを感じさせれば、その怒りの力を利用して前に進むだろうとコジロウは計算していた。実際にその通りになった。

 優介の歩みにもう迷いは見られなかった。まっすぐに歩いている。今から走っていけば大久保よりも先に大久保の家に先回りできるかもしれない。家出してから十分なたんぱく質と炭水化物を摂取していなかったので、脚力を十二分に発揮できるかはわからない。それでも走るしかない。優介はそう思った。善は急げ。やるべきことでもやりたくないことは、まず最初の一歩を踏み出してみることだ。学校の給食で嫌いなものが出れば、何も考えずに一口食べてみる。それを繰り返せば、時間はかかってもいつかは食べ終えてしまう。今の優介の場合は、まずは歩くことだ。歩いていればいつか目的地にたどり着く。身体が温まれば早く走れるかもしれない。とにかく何でもやってみることだ。

 優介は前に進む。たとえ仲直りできなくても、神社に戻ればナギとコジロウが待ってくれている。一人ぼっちじゃない。

 優介が石階段を一歩降りたところで、再び足が止まった。そして急いで境内まで戻った。優介はおびえていた。ナギに背中をくっつけて階段を上ってくる人物からどうやって逃げようかと思案したが逃げ道はなかった。ただナギにしがみついて、わき起こってくる恐怖に耐えるしかなかった。

 「あんたこんなところで何してるの」

 優介の母だった。優介は母に対して怒りを感じていた。しかし、いざ対峙すると怒りが恐れや不安に変化した。いくら頭のなかで母を責める言葉を考えても、実際に顔を合わせると母を責める勇気は出ないし、そうしようとしていたことが愚かだったんじゃないかと思わされる。

 優介は動くことができなかった。走れば母をふりきることもできるかもしれない。それなのに足が言うことを聞いてくれなかった。頭では逃げようとしても、足は逃げずに母に立ち向かえと言っているかのように、足は石のように重くなって優介の動きを制限していた。

 いったい誰が優介の居場所を母に教えたのだろうか。優介の居場所を知っているのはナギ、コジロウ、そして大久保だ。ほかにも優介が神社を根城にしていることを知っている動物や植物がいるかもしれないが、母は自然の声を聞くことができない。そうすると、優介の居場所を知る唯一の人間である大久保が告げ口をした可能性がある。

 優介も大久保が母に居場所をしゃべったと最初は考えた。心を傷つけられた腹いせにだ。しかしその考えをすぐに否定した。大久保は優介の家を知らない。それに母に会ったこともない。だから直接伝えられるはずはない。

 となると、学校を介して母に連絡を取った線が残る。学校側は優介は熱発が理由で欠席していると思っている。実は優介は病気じゃなくて家出をしていて、優介の母はそれを隠していると学校がしったらどうなるか。おそらく事が大きくなる。優介が学校に呼ばれて事情を説明させられるかもしれない。いろんな先生から怒られもするだろう。

 大久保も友のためを思えば学校に連絡するのが一番だ。しかし、そのことがきっかけで優介との友情に亀裂が入るのをおそれ、連絡するのをためらったのかもしれない。優介のためにできることはない。大久保はそう思って悔しかったに違いない。何もできない代わりに食べ物でもと思ってカシューナッツを置いて行った大久保の背中は寂しそうで、悔しそうでもあった。

 大久保が母に優介のことを話していないとすれば、母は偶然優介の居場所を見つけたことになる。仕事で忙しくても暇を見つけて心あたりがあるところを探し回ったのだ。優介が行きそうなところと言えば祖母の家だ。最初に祖母の家に行ったが、優介は一晩泊まってどこかに行ってしまっていた。

 優介は母に新しい学校のことや大久保のことは一切話していない。だから母はほかに手がかりがなかった。友達がいれば泊めてもらっているかもしれない。優介から友達のことは一言も聞かされていなかったので、友達はまだできていないと思っていた。もう探しようがない。

 そんなとき母はこの町に優介を連れて来た日のことを思い出した。車のなかでの会話だ。母は、優介にこの町にある古い神社のことを話していた。今はあまり管理されていない、母が子供だったころの遊び場。母はもしかしたらそこに優介がいるのではないかと希望を見出して、今日、大久保が去ったばかりの神社にやって来たのだ。

 優介には心強い味方がいた。コジロウとナギだ。優介は二人が何とかしてくれると信じていた。母と話すことはできない。しかし力で対抗することはできる。コジロウはするどいくちばしと爪を持っている。ナギはその気になればありとあらゆる動物を招集することもできるだろう。

 母は一歩一歩確実に近づいてくる。母の顔には疲れが見えていた。優介が無事に見つかったことが母を安心させた。安心と一緒に、優介が家出してからあちこち探し回って蓄積していた疲れが一気に溢れ出たのだ。

 さあ来るなら来いと優介は思った。母は怖い。きっと優介を激しく叱るだろう。殴られるかもしれない。何も言わずに家を飛び出せばどこの親だって心配するし、不安になる。学校には熱が出たと言ってごまかしても、いつ事実が露見するかわからない。日中仕事をしているときも、優介は無事だろうか、学校に嘘がばれたら自分はどうなるのかと母は悩んでいた。

 悩みの種が今、目の前にいる。母の歩みは力強かった。早歩きで優介に近づいてくる。母との距離が縮まっていくと優介の心臓の鼓動は早くなった。優介は心のなかで叫んだ。「早く!助けてよ!ナギ、コジロウ」と。

 しかし二人は何もしなかった。ナギはずっと黙っている。優介はこぶしでナギの身体を強く殴る。早く助けろと合図しているつもりなのだ。それでもナギは痛いとも言わず黙り続けている。

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