第15話

 コジロウはうれしそうに微笑む優介を見て満足した。しかしコジロウは油断しなかった。目は優介のほうを向いていたが、耳は神社全体に注意が向けられていた。だから石階段を誰かが上る音に一番に気がついた。

 「おい、誰か来るぞ」

 日が傾き始めたころだった。誰かが石階段をゆっくりと上ってくる。このさびれた神社に参拝しようというのか。優介は立ち上がり、賽銭箱の前で手を合わせて参拝客のふりをした。いつまでもこうしていたら不自然に思われてしまうかもしれない。優介はどこかほかの場所へ一時的に避難しようと考えた。

 コジロウたちに何も言わずに石階段を降り始めた。石階段を上っているのは優介と同じくらいの子供だ。優介は目を合わせないように足元を見て石階段を下りていた。二人はすれ違う。そのとき、優介の後方から「おーい」と呼ぶ声が聞こえた。

 優介はふりかえる。優介を呼んだのは大久保だった。最後に会ったのは運動会の翌日だ。公園で偶然出会って、キャッチボールをして、そのあとは自宅に招待された。昼食までごちそうになった。優介は家出をしているからもう大久保に会うことはないと思っていた。まさかここで会えるとは。

 「今行くよ」と優介は返事をした。

 大久保は先に境内に入っていた。優介が少し遅れて来ると、大久保はだしぬけにいった。

 「元気そうじゃんか。二日も学校休んでるから心配したんだよ。もう熱は下がったの?」

 大久保は、優介は熱を出して学校を休んだと思っているらしい。確かに、運動会で体力をしょうもうしていたから、熱を出したとしてもおかしくはない。優介は、大久保が何をいっているのかわからなかった。おなかは空いていたが、熱はない。健康そのものだ。どうして熱が出たと思っているのだろうか。

 優介は返事に困って「大丈夫だよ」とあたりさわりなく答えた。

 大久保は安心したようで、「そうか、なんともないならよかった」といった。

 二人は古い賽銭箱に背を預けて腰を下ろした。最初に優介が座った。大久保はまだ優介と話がしたかったみたいで優介の近くに立っていたのだ。それを見かねた優介は、少し右に移動して大久保が座れる場所をつくった。

 大久保はいざ優介と話すとなると何を話そうかと迷った。優介のほうは母のことを考えていた。もしかしたら母が家出を隠して、学校には熱を出していると連絡したのか。優介はそう考えると腹が立ってきた。優介は、お母さんは僕のことがどうでもいいから、熱を出したことにして家出を隠しているんだと結論を出した。

 優介は一度そうだと思うとそれにとらわれて、柔軟にいろんな角度から物事を見ることが苦手だ。今回も証拠がないのに、思いつきで母が優介の家出を隠していると決めつけている。

 隣にいる大久保は優介の心が怒りに支配されていることに気がつかなかった。何を話そうか考えているばかりで、今の優介の心理状態にまで気を配ることができていなかった。

 大久保は話すことを思いついて、石階段のほうを向いたまま口を開いた。

 「この神社にはたまに来るんだよ。去年転校してきて、一緒に遊ぶ友達ができなかったからさ。今日もいろいろとお願いをしにきたんだよ。この神社にまだ神様がいるのかわからないけどね」

 大久保が話しかけてくれたのに優介は無反応だった。自分の殻に閉じこもって、母への怒りにうちふるえていた。言葉にはしないが心のなかでは母に対して恨みつらみをいっている。こういい返されたらこういってやろう、ぶたれたらやり返してやろうと、実際に行動する勇気はないのに母とけんかしている場面を想像していた。

 「大丈夫?やっぱりまだ体調悪いんじゃない?」

 大久保は無反応の優介を怒らずに心配した。それでも優介は何もいわなかった。大久保はこんな優介を見るのが初めてなので心配しつつ恐怖も感じた。優介の心のうちに秘めた怒りが空気を通して大久保に伝わって、それが大久保の心に恐怖を生んだのかもしれない。

 優介が沈黙してしまって大久保はどうすればいいのかわからなかった。何か自分が優介を傷つけることをいったのか、ふりかえってみたが、傷つけるようなことは何一ついっていない。

 「何か気に障ることいったかな?」

 大久保は自分では答えがわからずにいたので優介にたずねた。しかし、優介は相変わらず黙っている。大久保もとうとう我慢できなくなって、「何かいえよ」と声を荒げた。

 優介は大久保をするどい目でにらんだ。優介はこれまで友達をこんな目でにらんだことはなかった。本当は、母に対してにらむのが正解で、大久保をにらむのは間違いだと優介自身もわかっている。でも、今ここに母はいない。大久保の怒った声がまるで母の声のように聞こえてしまって、優介は、大久保も母と同じように自分の敵なんじゃないかと思った。

 そして、しばらく沈黙していた優介が声を発した。

 「うるさいな。大きな声を出さないでよ。僕は今家出してるんだ。熱なんかないよ」

 大久保は優介が反応してくれたことが、最初はうれしかった。でも、家出をしているといわれたので、どういうことかと続きを促した。

 「熱で学校を休んだんじゃないの?」

 「だから、熱なんかないって。家出してるっていったでしょ。何回も同じこといわせないで」

 大久保は優介の強い口調にうろたえた。

 「でも先生は熱で休んでるっていってたけど」

 「それはお母さんが適当なこといってるだけだよ。そんなこともわからないの?」

 「わからないよ」と大久保はいってうつむいた。

 「大久保は弱い人間だよ」

 大久保は優介にそういわれても黙っていた。

 「運動会のとき、転校が多いから友達がなかなかできないっていってたけど、本当は友達をつくりたくないだけだろ。転校が多いとお別れも多くなるから、あえて友達をつくらないで転校のさみしさから自分を守ってるんだろう。そういうところが弱いと思ってたんだよ。それに、本心じゃ転校したくないくせにどうして我慢してるの?親に転校したくないって一言いえば、転校せずにすんだかもしれないのに。それができなかったから大久保は弱いんだよ」

 二人の様子をナギは黙って見ていた。コジロウは手水舎の屋根で羽を休めて何かいいたげな顔をしている。

 大久保は優介の言葉をうつむいて、最後まで黙って聞いていた。優介にいわれたことを確かにそうだ、と納得しているみたいで、時折うなずいていた。優介は、今度は大久保が反撃する番だと思って身構えていた。しかし、大久保は何もいわずに立ち上がった。そして、ポケットから何かを取り出して優介の足元に置いた。

 「今日の給食の残りだよ。これを供えてお願いしようと思ってたんだ。君にあげるよ」

 そういって、大久保は石階段を下りて行った。優介は大久保のさみしそうな背中を無言で見送った。

 大久保がいなくなるとコジロウが手水舎の屋根から飛び降りて、優介のそばに着地した。コジロウは、先程の優介の友達に対する接し方を注意しようと口を開きかけたが、優介の顔を見ると言葉が出なくなった。

 優介の瞳は今にもしずくがこぼれ落ちそうなくらい潤んでいた。コジロウやナギが叱る必要はなかった。優介は人にいわれなくても、友達を傷つけた自分の言葉は許されないとわかっていた。もうそれを取り消すことができないことも。

 言葉を心のなかにとどめておかずに、一度でも声に出してしまえばその事実を取り消すことは神もできない。たとえ大久保と優介自身が大人になってから今日の出来事を忘れるかもしれない。しかし、当事者は忘れてしまっても優介が大久保を傷つけた事実は消えないし、世界はそのことを記憶し続ける。

 世界とは何なのか。それはとても広い概念。優介たち人間が歩んできた歴史でもありナギやコジロウたちの、動植物の進化の歴史でもある。世界とは形があるものではない。幽霊みたいなものだ。きっと誰にでも人を傷つけた経験はあるだろう。そのことを忘れた人もいる。それでも、世界は覚えている。

 考えれば考えるほど世界とは何なのかわからなくなってくる。日本やアメリカ合衆国などいろんな国をまとめて世界とかいうことがよくあるけど、幽霊としての世界は何となくしかイメージができない。

 もし人が何かを忘れてしまっても、その事実は消えない。事実が消えたことにならないならそれを覚えている誰かがいるはずだ。その誰かが世界なんだと思う。

 ナギもコジロウと一緒に黙っていた。いろいろいいたいことがあるはずだが、このときは涙を我慢している優介にどんな言葉をかければいいのかわからず、優介のそばにいてやることしかできなかった。

 優介が流すまいとしている涙は、友達を傷つけたことと、自分の弱さに由来している。優介は大久保に弱いといったが、本心でそう思っているわけではなかった。むしろ強い人だと尊敬していた。優介は一度しか転校したことがないのに、落ち込んでしまって新しい暮らしを楽しむことがなかなかできなかった。しかし大久保は何度も転校を繰り返しているのに、クラスでは明るくふるまっているし、休日には父親と楽しくキャッチボールをしている。

 環境が変わっても、これまで通り楽しく明るい暮らしを続けられるのが大久保の強さだと優介は思っていた。それなのに、自分はそうではない。優介は大久保と自分を比較して悔しくなった。

 優介がさきほど大久保にいったことは、優介が自分自身に思っていたことだ。自分を自分で責めるのはつらいことだ。周りの人が自分を非難してくれるのに、自分自身で避難する必要はどこにある。だから、優介は自分を守るために自分に対する非難の気持ちを封印した。しかし、母に対する怒りが、心の奥に封じ込めていた自分自身に対する非難が呼び起こされて、それが大久保にぶつけられてしまった。

 母に、四月から転校すると告げられた春休みのある日。そのときにもし、優介が転校したくない、お母さんにはついていかないといっていたとしたら。今と違った未来があったのかもしれない。しかし、今、もしもの話をしてもしかたがない。そのありもしないもしもの話をすれば、優介と友達になった大久保やナギ、コジロウを傷つけることになる。

 桜ケ丘小学校に転校したから出会えた人や動物がいた。優介の心に転校しなかった未来への執着があるのはもちろんだが、大久保たちとの楽しかった思い出も同居している。思い出というのには最近の出来事だが。

 今を否定して福岡での暮らしを夢見るということは、新しい町での出会いや思い出をなかったことにするのと同じことかもしれない。それは優介にもはっきとではないがわかっていた。大久保と福岡の友達のどちらをとるか。優介の心はがんじがらめに縛られている。視野の狭いまだ子供の優介は、二者択一しか道がないと思い込んでいて、福岡の友達と大久保たち両方を選ぶ道もあることは想像すらしていなかった。

 コジロウはいたたまれなくなって飛び去った。ナギは足があれば優介のとなりに行って、手があれば優介の頭をなでてやりたかった。今のナギにできることといえば、優介をなぐさめてあげることくらいだ。しかし、ナギは長い間人とのかかわりを絶っていたので、どんな言葉が人をなぐさめ励ますのかわからなかった。

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